第5話 司祭の務め
鍬を肩に担いだ女性に、村まで案内してもらったロルフとルシア。
子どもたちは村に入る手前で、それぞれの遊び場へ散っていった。「あとで教会でね!」と声だけ残して。
ルシアはまだ、子どもたちと遊んで泥まみれのままだった。
女性は迷いなく、自宅の隣の小屋へ足を向ける。戸口は低く、軒の下に干しかけの縄が渡っている。
女性は肩に担いでいた鍬を、戸口の脇に立てかけた。
柄が木壁に当たって、乾いた音が小さく鳴る。
「ちょっと待ってな」
そう言って小屋の中へ引っ込み、すぐに戻ってくる。
手には替えの服があった。
女性は、それをルシアに差し出した。
麻布の肌触りは素朴だが、洗って仕舞っていた布の匂いがした。
川のほとりまで案内され、冷たい水で泥を軽く流す。
指先がかじかみ、思わず肩をすくめた。
「冷たっ……。ほんと、冬の水やね」
袖口を叩き、泥水を切る。
布の奥に入り込んだ汚れは、まだ残っている。
笑ってごまかしながら袖をまくる手つきは、慣れていた。
生活の中で何度もやってきた動きだと、ロルフには見えた。
女性は一度だけ頷き、自宅のほうを顎で示した。
「ここじゃ限界があるわね。
ちゃんと落とすなら、湯が要るわ」
自宅に戻ると、女性は土間で足を止め、手のひらについた土を払った。
指先の泥を布で拭い、外へ向けて戸口の道具をひとつずつ整える。
踏まれない位置を選ぶのが、癖になっている手つきだった。
女性は戸を少しだけ開けて言った。
「そこで着替えていいわよ。見ないから」
ルシアは戸の陰で手早く着替えた。
脱いだ服を軽く畳んで、土間の端にそっと置く。
女性は何も言わず、その布をさっと拾い上げた。
手つきに躊躇がない。汚れを扱うのが日常の手だ。
「……えらく、いい布ね」
女性の目がわずかに細くなる。
ルシアは笑ってごまかそうとしたが、女性はそれ以上言わず、湯を沸かし始めた。
「洗っておくわ。乾いたら返すよ」
「助かります」
戸が閉まる音が小さく鳴って、家の中のぬくもりと外の冷えが入れ替わった。
借りた外套の前をきゅっと合わせ、麻の服の袖口を握り直した。
教会へ向かう道は、畑道ほど泥だらけではない。
踏み固められて、ところどころに砂利が混じっている。
雪解けの水が流れた跡だけが、細い溝になって残っていた。
砂利を踏むたび、ウェールスの蹄が小さく鳴る。
その音が一定だからこそ、村の静けさが目立つ。
家は多くない。
低い屋根が点々と並び、壁は板と土壁が混ざっている。
戸口には、空の桶が寄せられていた。
華美はない。けれど、物の置き方に乱れがない。
“暮らしを回している村”だと、見れば分かる。
ロルフは視線だけでそれを拾い、歩幅を変えない。
ルシアは道の端に残る水の跡へ目を落とし、靴先で一度だけ避けた。
「落ち着いた村やわぁ」
独り言に近い声だった。
返事を求める言い方ではない。
「だからといって、安全とは限らない」
ロルフは前だけを見て言った。
釘を刺すというより、段取りを揃える声だ。
戸口のいくつかに、松の枝を結ぶ家がある。
縄で留めただけの、冬の目印みたいなものだ。
だが、隣の家には何もない。
どちらも静かで、だから余計に、違いだけが目に残った。
縄が風に擦れて、かすかな音を立てる。
その道で、背の丸い老人が薪を抱えて歩いていた。
束は細い枝ばかりで、太い薪は混じっていない。
外套は継ぎ当てだらけだが、歩みは慌てていなかった。
足元のぬかるみを避けるのも、急がず、当然のようにやっている。
薪の端がこすれ、乾いた音が鳴った。
ロルフはその背を、長くは見なかった。
貧しさはある。
けれど、荒れてはいない。
家並みを抜けると、少し開けた場所に教会が立っていた。
石と木の混じる小さな建物で、壁の色は冬にくすんでいる。
扉の前の土は固く、ここだけ人の出入りが絶えないのが分かる。
ロルフが手綱を短く持ち直す。
ウェールスの首がわずかに揺れ、鼻先から白い息が散った。
二人とウェールスが教会の前に立った、そのときだった。
扉が控えめにきしみ、祈りを終えた司祭が外へ出てきた。
白髪はまだらで、額の皺は深い。年の頃は六十を越えているだろう。
背は少しだけ丸いが、袖口を直す指先は迷わない。長い年月が所作を整えていた。
白い息を吐き、外の光に目を細める。疲れはあるのに、表情は崩れていない。
ロルフは軽く膝をつき、司祭に挨拶する。
「境界巡察騎士団、ロルフ・フォン・ディールークルム。
巡回の途上、村の様子を伺いに参りました。
お時間を頂けますか」
「ようこそ。私は司祭アルビンです。
…こちらの方は?」
「同行している者です。
旅の途中で、しばらく行き場を失っておりまして」
「旅の者、ルシアと申します。
しばし、この村で休ませてくれたら——」
ルシアは言いかけて、言葉を切った。
背後に立つロルフの気配に、ふと我に返る。
馴れ馴れしさを、少しだけ飲み込む。
声の角を落とす。
「……休ませていただければ幸いです」
司祭は“ルシア”という名を一度だけ口の中で転がし、微笑みを整えた。
「どうぞ。ゆっくりしていってください」
ロルフはそこで、ようやく小さく息を吐いた。
初対面で図々しく映らぬよう、昨夜叩き込んだ言い回しがちゃんと出た。
司祭の反応が柔らかいことにも、胸の奥がわずかにほどける。
張っていたものが、一段だけ落ちた。
話の切れ目を嗅ぎつけたのか、先程の子どもたちがまた寄ってきた。
誰かがルシアの袖を引く。ルシアは笑って、引かれるまま一歩輪へ入った。
ロルフはそれを横目で見て、司祭に視線を戻す。
段取りを一つだけ積む。村に入った以上、ウェールスを放っておけない。
「司祭殿。馬を繋がせていただける場所はありますか」
司祭は教会の脇にある建物を指した。
その石壁の陰に、風の当たりにくい小屋があった。
「司祭館の裏手に、繋いでおけます。
旅の者が来たときに使う馬繋ぎです」
「助かります」
「水桶も用意しましょう」
ロルフは頷き、一礼した。
顔を上げると、そのまま村の方へ視線を走らせる。
「それにしても……これまで見てきた村の中では、随分と落ち着いていますね」
村人たちは皆、穏やかな表情で暮らしていた。
言葉の端に棘がない。
視線が必要以上に鋭くならない。
子どもたちの笑い声が、村に自然と溶け込んでいる。
ロルフの視線の先で、ルシアは子どもたちの輪の中にいた。
木の棒で地面にいくつもの丸を描き、片足で跳ねたり、両足で踏んだりしながら順番に進む遊びを、子どもたちと楽しんでいる。
見たことのない遊びなのに、子どもたちは迷いなく笑っていた。
誰かが転べば、すぐ別の誰かが手を貸す。
司祭はその様子を見て、わずかに目を瞬かせた。
「……もう、馴染んでおられる」
そして、微笑みを浮かべたまま続けた。
「この村も、例の件が起きて間もない頃は、いざこざがありました。
ですが、何度も話し合いを重ね、皆で妥協案を出し合いました」
穏やかな口調だ。
だが、その言葉の裏に積もった夜の数が、ロルフには見える気がした。
「他の村では、案は出しても結局譲り合えないことが多いのです。
それだけに、これまで司祭殿が村人に寄り添い、熱心に尽くしてこられた賜物と拝察します」
「……ありがたいことです」
司祭の目尻に、うっすら涙が滲んだ。
苦労を褒められたことよりも、努力が無駄ではなかったと確かめられたことが、胸に来たのだろう。
その時だった。
「ねぇお姉さん、森いこー!」
「良いところ教えてあげる!」
子どもたちは司祭の前だろうが構わず、ルシアの手を引いた。
ルシアは歩き出しかけて、すぐに足を止めた。
「森って、どこまで行っていいん?」
引かれた手を握り直し、子どもたちの顔を順番に見る。
浮かれた勢いを、一度だけ受け止める目だ。
「勝手に奥はいけんやろ?約束があるはず。誰か教えて?」
子どもたちは口を開きかけて、互いの顔を見た。
言える。けれど、言う前に大人の声を待つ癖がある。
司祭が一歩、前へ出た。
「森の中の木に紐を結んでいます。
紐が見えなくなる場所へは、昼でも入らない」
子どもたちは一斉に頷いた。
叱られた顔ではない。何度も教わった決まりを、そのまま胸にしまう顔だ。
ルシアは小さく息を吐いて、頷く。
「じゃあ、約束守れる子だけ、ついておいで。
守れん子は、今日はやめとこ」
子どもたちは競うように頷き、声を揃える。
「守れる!」
その勢いのまま、ルシアが子どもたちと駆け出す。
ロルフは反射で一歩踏み出しかける。
止めるための一歩だった。
だが司祭が、穏やかに視線を向けた。
「騎士様。この村のこと……、お話ししますね」
止められたわけではない。
ただ、順番を示された。
今は、聞いてほしい。
言葉にされなくても、そう言われた気がした。
ここで背を向ければ、村の不安は燃え上がる。
それは境界の秩序に直結する。
境界巡察騎士団の役目は、まず火種を知ることだ。
それでも、視線はルシアへ向く。
子どもたちに引かれていく背中は軽い。
昨日、光の中から現れた時と同じくらい、つかみどころがない。
——昨夜、言葉では伝えた。
だが、あの背中はまだ、この土地の軋みを肌で知らない。




