第12話 祝福の後で
レナが発したひと言で、周囲の音がすっと消えた。
笑っていた大人の口元が止まり、誰かが息を吸ったまま固まる。
クララは、反射みたいに母親の影を探した。
母親はクララの肩に手を置こうとして、途中で止めた。触れれば、余計に目立つと知っている手つきだった。
レナは、ただ首をかしげていた。
けれど、周りの空気が変わったのを見て、目を瞬かせる。
レナの視線が、ルシアへ、ロルフへ、クララへと忙しく移った。
誰も笑っていない。誰も口を開かない。
「……え、あの」
言い足しかけて、言葉が続かない。
口元がきゅっとすぼまり、肩が小さくすくむ。
悪意はない。
むしろ、悪意がない言葉ほど、場を切り裂く。
大人はなにも言わない。
ここでは、司祭が整えるまで、誰も波を立てない。
そうやって穏やかさを守ってきたのだと、沈黙が語っていた。
ロルフは膝を折りかけていた。
しゃがんで、子どもの目線で言葉を選ぶ。そう決めた、その瞬間。
ロルフより早く、ルシアがクララの前に膝をついた。
同じ目線。まっすぐな優しさで、顔を上げさせる距離。
「なんで、そうしたと?」
ルシアの声は軽い。
けれど、軽さで押し切らない。
クララは冷えた空気を飲み込みきれず、目尻に涙を溜めた。
背後の大人たちの視線が、棘みたいに細くなる。
「騎士様がね、剣を抜かずに帰れますように、ってお祈りしたの。お母さんも、してたから……だから………」
言い終えた瞬間、クララは自分の手を見下ろした。
小さな指が、十字をなぞる形のまま固まっている。
「そっか。そう、祈ったんやね」
肯定しない。否定もしない。
その返し方が、ここではいちばん角が立たなかった。
誰かの息がつく音がして、つられてもうひとつ、呼吸が落ちる。
ロルフはその間を逃さず、一歩だけ距離を詰め、膝を折って子どもの目線まで落ちた。
「その気持ちだけで、十分だ」
十字を切っても、切らなくてもいい。
子どもが自分の無事を願った。
それだけで、胸の奥に溜まっていた冷えがほどける。
クララは、やっと笑っていいのだと悟ったみたいに、ほっと口元を緩めた。
その時、教会の戸がわずかに軋み、司祭が顔を覗かせた。
様子を見に来たというより、音が変わったのを聞き取った顔だった。
ロルフは子どもたちの輪から二、三歩だけ外へずれる。
それ以上離れない距離のまま、戸口の司祭へ声を落として寄った。
必要なところだけ、短く。責める言い方はしない。
子どもたち……特に、レナの耳に届かない高さで、顛末を渡す。
司祭の眉がわずかに上がり、それから小さく頷いた。
ロルフが戻るのと入れ替わるように、司祭が戸口から外へ出る。歩幅は急がない。だが迷いもない。
司祭は子どもたちの輪を崩さぬよう、クララの前までそっと寄る。それから膝をついた。
視線はまっすぐ、クララへ向く。
「優しい子に祝福がありますように」
司祭はクララの頭にそっと手を置き、短く祈った。
その光景に、大人たちの表情が遅れて柔らぐ。
母親は今度こそ、クララの肩に手を置いた。
この場は、いったん収まった。
ロルフはルシアを見る。ルシアはクララと一緒に笑っていた。
力で押さえつけずに、場をほどく。
そんな方法もあるのかと、思わされた。
「ルシア殿も、ありがとうございました」
「私は何もしとらんよ。そもそも騎士に十字を……」
言いかけて、口を止めた。
今ここでそれを言えば、さっきの温度が消える。
ルシアはそれを、直感で嗅ぎ取った顔をした。
「ルシア殿?」
「いやぁ、なんもなんも」
司祭が首を傾げる。
「ルシア」
ロルフは低く名を呼んだ。
叱責ではない。だが、“礼を正せ”という圧があった。
にへらっと笑いかけたルシアの口元が、途中で止まった。
その声は、自分を黙らせるためのものだと遅れて理解した。
そこでようやく思い出す。
昨夜の特訓。図々しさが場を壊すこともある、と。
「司祭様、お役に立てましたなら幸いでございます」
頭を下げ、言葉を整える。
そのまま静かに一歩、二歩と後退りした。
「不調法があり、申し訳ございません」
「いえいえ。
飾らぬところが見れて、かえって安心しました」
司祭は笑って受け流す。
受け流す仕草が、慣れている。
「ご寛大なお言葉、痛み入ります」
ロルフは心の中で小さく息をついた。
特訓は、まだ足りない。
司祭は話を切り替えた。
「騎士殿。しばらく村に滞在なさいますか?」
司祭は穏やかに尋ねた。
ロルフは頷きを小さく返す。
「一先ず、数日は。
宿があるなら、そちらを借りたいと考えています」
司祭は一拍だけ目を伏せた。
困っているというより、この村の事情を思い出す仕草だった。
「宿はありません」
言い切ってから、すぐに続ける。
断るためではなく、段取りを出すための声だ。
「ですが、教会に一室をご用意できます。どうぞお使いください」
それから視線をルシアへ移す。
押しつけず、選択肢として置く。
「ルシア殿は、司祭館の離れを。差し支えなければ」
「なにからなにまで、ありがとうございます」
ロルフは司祭との会話を終え、ルシアの方へ向かった。
「いやー、焦った。つい口が」
ルシアは笑って見せたが、指先が落ち着かず、自分の袖口をつまんでいた。
「……やってもうたな」
ロルフが特訓の追加を告げると、ルシアは顔をしかめる。
「増えるのは勘弁……」
昨夜、焚き火の前で言葉遣いを叩き込まれたのを思い出す。
「郷に入っては郷に従え。
そう言っていたのは誰だ?」
「あらぁ記憶力いいなぁ」
軽く返して、笑いで流すつもりだった。
けれど次の言葉が喉まで来て、そこで一度だけ止まる。
この場で大きな声にしていい話ではない、と身体が先に判断した。
「……私、知らんやったんやけどさ」
ルシアは指を立て、耳元へ招いた。
ロルフは眉を寄せつつも、身をかがめる。
「騎士に十字って切るんやね。
それに意味があるのも、初めて知った」
ロルフの身体が一瞬固まった。
ルシアはさっきの光景を思い出していた。
ロルフに向けて、クララが小さな手で十字を切った。
その意味が分からず、ルシアはその場でクララに聞いたのだ。
今、耳元でしているのは、その確認にすぎない。
ここでは、説明の要らない所作として通っている。
知らないのは、外から来た証拠になる。
ロルフは、その事実をひとつ、飲み込んだ。
胸の奥に小さな重さが落ちる。
息を吐くより先に、考えが立つ。
——教えなければ、火種になる。
思考が一段増え、眉間がわずかに寄った。
特訓の項目を更に増やす必要がある。
ロルフは額に手をやりかけて、やめた。人前だ。
そのロルフをよそに、ルシアは周囲を見渡した。
「レナ、どこいった?」
言われてみれば、視界にいない。
「あの子がどうした?」
「司祭様はクララには優しい言葉をかけた。
でも、レナには声をかけんやった」
ロルフは思い返す。確かにそうだ。
司祭はクララに祈りを終えると、すぐこちらへ来た。
場を壊さず、ロルフやルシアが収めたことが嬉しかったのだろう。
それだけで、司祭の余裕は尽きる。
その事実が、逆に胸に刺さる。
「レナ、きっと後味残ってる。心配やわ」
諍いは、小さな棘から始まる。
ロルフはそれに気づいたルシアの速さに驚きかけて、すぐに考えを改めた。
諍いがどうこうじゃない。
ルシアはただ、取り残されていた子どもを気にしている。
「手分けして探そう」
ロルフは視線を走らせ、村の中心を指した。
井戸のある広場。子どもが集まりやすい場所だ。
「俺は広場を見る。
あなたは家並みのほうを頼む。裏へ回り込みやすい」
「了解」
ルシアとロルフは別れ、レナを探して走り出した。




