第2話: 氷の騎士がやってくる
あの騎士が来るようになって、二週間が経った。
毎日、同じ時間。夕暮れ時に、ドアベルが鳴る。
そして彼は、マーガレットを一輪買って、無言で去っていく。
もうすっかり日課になった。私も、彼が来る時間になると自然とマーガレットを準備するようになっていた。
***
「ねえねえ、咲!」
ある日の午後、ミラが息を切らしながら花屋に飛び込んできた。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「聞いて聞いて! あの騎士様のこと!」
ミラは目を輝かせている。
「調べてきたの! 咲が気になってるみたいだったから」
「気になってないよ」
私は即座に否定したが、ミラは聞いていない。
「あの人ね、レオンハルト・フォン・エーベルハルトっていうの! フェルディア王国騎士団の第三隊隊長なんだって!」
「隊長……」
騎士団は全部で三百人。そのうち隊長は十人だけだと聞いたことがある。
つまり、彼はかなりの実力者だということだ。
「それでね、異名があるの。『氷の騎士』って呼ばれてるんだって」
「氷の……?」
「そう。冷酷で、無慈悲で、笑ったところを見た人がいないって」
ミラは少し声を潜める。
「魔物討伐では容赦ない戦い方をするらしくて、敵は一瞬で凍りついて、粉々になっちゃうんだって」
「それは……」
私は少し戸惑った。
確かに彼は無口で、無表情で、近寄りがたい雰囲気がある。
でも、冷酷とか、無慈悲とか——そういう言葉がしっくりこない。
毎日マーガレットを買っていく姿は、むしろ優しささえ感じる。
「でもほら、咲には優しいじゃない。毎日来てくれるんだし」
「それは……ただのお客様だから」
「お客様だとしても、普通は毎日来ないよ?」
ミラは意味深に笑う。
「もしかして、咲のこと——」
「違うよ」
私は慌てて遮る。
「彼には大切な人がいるって言ってたし」
「え、そうなの?」
「うん。花を贈ってるって」
「ふーん……」
ミラは不思議そうに首を傾げた。
でも、それ以上は何も言わなかった。
***
その日の夕方、いつものようにドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
レオンハルト——今日から、私は彼の名前を知っている。
銀色の髪、氷のような青い瞳。紺と銀の騎士団制服が、彼の凛とした雰囲気を一層引き立てている。
彼は無言で店に入ってくる。
私はいつものようにマーガレットを準備しようとして——手を止めた。
なぜなら、彼が見ているのはマーガレットではなく、店の奥にある赤いバラだったから。
「……バラを」
低い声が響く。
「赤い、バラを。一輪」
「……はい」
私は驚きながらも、赤いバラを一輪手に取る。
今日は初めて、マーガレット以外の花を選んだ。
包装紙で丁寧に包みながら、私は小さく呟いた。
「赤いバラの花言葉は『愛情』と『情熱』です」
レオンハルトは一瞬、目を見開いた。
それから、静かに頷く。
「……そうか」
「大切な方に贈られるんですよね」
私は笑顔でそう言った。
でも、心の奥で小さな痛みがあった。
赤いバラ。愛情と情熱。
きっと、彼は誰かに恋をしているんだ。
マーガレットから赤いバラに変えたということは、関係が進展したのかもしれない。
「……ああ」
レオンハルトは短く答える。
そして、銅貨を置いて——。
「ありがとう」
そう言って、赤いバラを受け取った。
彼が去った後、私は小さく息をついた。
「……何を考えてるんだろう、私」
彼に恋人がいるのは最初から分かっていたこと。
それなのに、なぜか胸が痛い。
これは、何だろう。
羨ましいのか。それとも——。
***
その夜、二階の自宅で紅茶を飲みながら、私は考え込んでいた。
氷の騎士、レオンハルト。
街では冷酷だと噂される男。
でも、私が見た彼は違う。
無口で、不器用で——でも、優しい。
毎日花を買いに来る姿は、大切な誰かを想う気持ちに溢れている。
赤いバラを選んだ時の、ほんの少しだけ迷う仕草。
「ありがとう」と言う時の、わずかに柔らかくなる声。
それは、冷酷な騎士の姿ではなかった。
「人は、見た目だけじゃ分からないんだな」
前世でも、婚約者の本性が分からなかった。
笑顔の裏で、何を考えているのか。
でも、レオンハルトは逆だ。
怖そうな外見の裏に、優しさがある。
そんな気がする。
***
翌日、また彼が来た。
今日も赤いバラを一輪。
「いらっしゃいませ」
私は笑顔で迎える。
包装しながら、少しだけ勇気を出して話しかけてみた。
「レオンハルト様ですよね」
彼は驚いたように目を見開く。
「……知っているのか」
「街で有名な方ですから」
私は柔らかく微笑む。
「氷の騎士、って」
彼の表情が、わずかに曇った。
「……そうか」
何か、言いたそうな顔だった。
でも、彼は何も言わない。
「街の人たちは色々言いますけど」
私は花を包みながら続けた。
「私は、毎日こうして花を買いに来てくれる、優しいお客様だと思ってます」
レオンハルトは、静かに私を見つめた。
その青い瞳に、何か——驚きのような、安堵のような——そんな感情が浮かんだ気がした。
「……ありがとう」
いつもより、少しだけ長い沈黙の後。
彼はそう言った。
そして、赤いバラを受け取る。
「また、来る」
「はい。お待ちしてます」
ドアベルが鳴って、彼が去る。
私はその背中を見送りながら、小さく笑った。
不思議な人だ、と思う。
無口で、無表情で、怖いと噂される騎士。
でも、毎日花を買いに来る。大切な人のために。
そんな一途さが、なんだか——。
羨ましい。
彼が想いを寄せる相手が、少しだけ羨ましかった。
***
それからも、レオンハルトは毎日来るようになった。
最初の一週間はマーガレット。
次の週からは赤いバラ。
そして——少しずつ、会話が増えていった。
「今日も、赤いバラで?」
「……ああ」
「大切な方、お喜びになりますね」
「……そう、だといい」
彼の声は相変わらず低くて、無表情だけど。
でも、確実に——言葉が増えている。
ある日、彼が聞いてきた。
「花言葉は、いつも違うのか」
「はい。花によって違います」
「……教えてくれるか」
「もちろんです」
私は嬉しくなって、店にある花を一つ一つ紹介した。
カーネーションは「母への愛」。
スミレは「謙虚」と「誠実」。
チューリップは「思いやり」。
レオンハルトは、黙って聞いている。
でも、その瞳は——真剣だった。
まるで、一つ一つの言葉を大切に覚えようとしているみたいに。
「……詳しいんだな」
「前世——じゃなくて、昔から花が好きだったんです」
危うく「前世」と言いそうになって、慌てて言い換える。
レオンハルトは不思議そうに首を傾げたが、特に何も聞かなかった。
「花が好きで、花屋を開いた」
「はい。夢だったんです」
「……夢」
彼は小さく呟く。
「夢を叶えるのは、素晴らしいことだ」
「ありがとうございます」
私は笑顔で答える。
そして、包装した赤いバラを渡した。
「今日も、素敵な一日を」
「……ああ」
レオンハルトは花を受け取り、店を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は思った。
氷の騎士。
冷酷で、無慈悲だと言われる男。
でも、私の知る彼は——。
花を愛し、大切な人を想い、花言葉に耳を傾ける。
そんな、優しい人だった。
***
「咲、また来てたね、あの騎士様」
ミラが帰った後、店の掃除をしていると声をかけられた。
「うん。今日も赤いバラを」
「へえ。もうマーガレットじゃないんだ」
「最近は赤いバラが多いかな」
「それって……」
ミラは意味深に笑う。
「進展してるってことじゃない? その大切な人と」
「……かもね」
私は曖昧に答える。
そして、花瓶の水を替えながら思った。
赤いバラの花言葉は「愛情」と「情熱」。
きっと、彼の恋は——。
順調なんだろう。
それは、喜ばしいことのはずなのに。
なぜか、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……私、何考えてるんだろう」
小さく呟く。
恋愛は、もういいって決めたはずなのに。
前世で傷ついて、今世では一人で生きるって決めたはずなのに。
なぜ、彼のことが——。
気になるんだろう。
その答えは、まだ分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
明日も、彼は来る。
そして私は、笑顔で迎える。
それが——今の私にできる、唯一のこと。




