第1話: 異世界で花屋を始めました
朝日が差し込む小さな店内で、私は深呼吸をした。
木の香りと、花の甘い香りが混ざり合って、心地よく鼻をくすぐる。カウンターの上には、今朝摘んだばかりのマーガレットが白い花弁を広げている。
「よし、開店だ」
扉の札を『準備中』から『開店』にひっくり返す。
ここは、異世界エルフィリア大陸の王都クリスタリア。表通りから一本入った、西南の静かな路地。
そして私、花村咲は今日から――この世界で花屋を営む。
***
私がこの世界に転生してきたのは、十年前のこと。
前世では東京で普通のOLをしていた。何の変哲もない、ごく平凡な二十五年間。仕事はそこそこ、友達もそこそこ、恋人も……いた。
婚約者、と呼べる人が。
でも、その人は私を裏切った。
婚約指輪を買ってもらった二週間後、彼の浮気が発覚した。相手は職場の後輩。笑顔で「おめでとうございます」と言ってくれたあの子だった。
「咲は真面目すぎるんだよ。息が詰まるっていうか」
彼はそう言った。
真面目に働いて、真面目に愛して、真面目に未来を考えていた私が、息苦しかったらしい。
婚約は破棄された。
その帰り道、信号を渡ろうとして――私はトラックに轢かれた。
***
気がつけば、ここにいた。
赤ん坊として生まれた私は、この世界で「咲」という名前をもらった。偶然にも、前世と同じ名前。運命なのか、それとも単なる偶然なのか。
十五歳になった時、突然前世の記憶が戻った。
最初は混乱した。ここは異世界なのか、夢なのか、それとも死後の世界なのか。
でも、時間が経つにつれて受け入れることができた。
そして気づいた。
今度こそ、自分の好きなように生きようと。
***
「いらっしゃいませ」
ドアベルが鳴って、最初の客が入ってくる。
見れば、パン屋の娘のミラだった。明るい茶色の髪をショートカットにした、元気いっぱいの女の子。私より二つ年下で、一年前に知り合ってから親友になった。
「咲ー! 開店おめでとう!」
ミラは両手いっぱいに焼きたてのパンを抱えていた。
「これ、お祝い。うちのパン屋の看板商品よ!」
「ありがとう、ミラ」
私は笑顔で受け取る。
ミラは私が転生者だと知っている数少ない人間だ。前世のこともです。婚約破棄のことも。だから、私が今回「ひとりで生きる」と決めたことも理解してくれている。
「それで、お客さん来た?」
「まだだよ。開店したばかりだし」
「そっかー。でもさ、咲の花って魔法で育ててるから綺麗でしょ? 絶対人気出るって!」
「そうだといいんだけど」
私は植物魔法の使い手だ。
この世界には魔法が存在する。火や水、風や土。そして私が持っているのは「植物魔法」。
珍しい適性らしく、全人口の五パーセントしか持たない。戦闘には向かないけれど、花を育てるには最高の能力だ。
触れるだけで花の成長を促進できる。一週間かかる成長を、一日で終わらせることも可能。
だから私の花は、いつも新鮮で、いつも美しい。
「マーガレット、綺麗だね」
ミラがカウンターの花を指差す。
「花言葉は『信頼』と『誠実』なんだよ」
「へえ。咲、前世でそういうの詳しかったんだっけ?」
「趣味でね。花屋になりたかったから」
前世では叶わなかった夢。
OLとして働きながら、いつか花屋を開きたいと思っていた。でも、現実は厳しくて、婚約して、結婚して、普通の人生を歩むはずだった。
それが、こんな形で叶うなんて。
「今度こそ、咲の夢が叶うといいね」
ミラは優しく微笑む。
「うん。今度こそ」
***
午後になって、ぽつぽつと客が来始めた。
近所の主婦が一輪のカーネーションを買ってくれた。若い冒険者が、恋人へのプレゼントだと言ってバラの花束を注文してくれた。
一つ一つの出会いが、嬉しくて、心が温かくなる。
夕暮れ時、店を閉めようとしたその時。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃい――」
言葉が途切れた。
入ってきたのは、騎士だった。
紺と銀の制服。背筋が伸びた立ち姿。そして、鋭い青い瞳。
銀色の短髪に、整った顔立ち。身長は高く、体格も良い。一目で「騎士」だと分かる雰囲気。
でも、何より印象的だったのは――その冷たい眼差しだった。
「……花を」
低い声。無表情。
私は少しだけ緊張しながら、笑顔を作る。
「はい、どのような花をお探しですか?」
「マーガレット」
彼はカウンターのマーガレットを指差す。
「一輪」
「かしこまりました」
私は丁寧にマーガレットを一輪選んで、包装紙で包む。
「十銅貨です」
彼は無言で銅貨を置くと、マーガレットを受け取った。
「……ありがとう」
ぼそりと呟いて、彼は店を出て行く。
ドアベルが鳴って、静寂が戻る。
「……なんだったんだろう」
私は首を傾げた。
怖かった、というわけではない。でも、あの鋭い眼差しと、無口な態度。近寄りがたい雰囲気があった。
騎士なら、きっと王都の騎士団の人だろう。この国では騎士は尊敬される存在だと聞いている。
「まあ、いいか」
私は店を閉めて、二階の自宅へと上がる。
***
夜、ベッドに横たわりながら、私は天井を見つめた。
今日から始まった新しい生活。
花に囲まれて、静かに暮らす日々。
前世では叶わなかった夢が、今こうして叶っている。
幸せだ、と思う。
恋愛は、もういい。
前世で十分傷ついた。婚約破棄の痛みは、今でも心に残っている。
誰かを愛して、誰かに裏切られて、傷ついて――そんなことは、もうこりごりだ。
だから今世では、ひとりで生きる。
花に囲まれて、穏やかに、静かに。
それが私の選んだ道。
「……そうだよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
でも、心の奥底で小さな声がする。
――本当に、それでいいの?
――また誰かを信じてみたいと、思わないの?
私はその声を無視して、目を閉じた。
***
翌朝、店を開けると――またあの騎士が来た。
「いらっしゃいませ」
私は驚きながらも笑顔で迎える。
「マーガレット」
また、同じ花。同じ一輪。
「かしこまりました」
包装して、渡す。
彼は無言で受け取り、また去っていく。
「……?」
そして、その次の日も。その次の日も。
毎日、同じ時間に、同じ騎士が来る。
毎日、マーガレットを一輪買っていく。
一週間が過ぎた頃、私はミラに相談した。
「あのね、毎日来る騎士さんがいるんだけど」
「え、毎日? それって……」
ミラは目をキラキラさせる。
「咲に気があるんじゃない?」
「まさか」
私は即座に否定する。
「ただの常連さんだよ。きっと誰かにプレゼントしてるんだと思う」
「でも毎日って、普通じゃないよ?」
「……そう、かな」
正直、私にも分からない。
あの騎士が何を考えているのか。なぜ毎日マーガレットを買っていくのか。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
あの鋭い眼差しも、無口な態度も、きっと彼なりの優しさなのかもしれない。
……いや、考えすぎか。
「とにかく、私は花屋。お客様が来てくれるのは嬉しいことだよ」
「そうだけどさー」
ミラはニヤニヤしている。
「咲、恋愛もういいって言ってたけど、もしかして運命の人が来たりして?」
「しないよ」
私は笑って否定する。
運命なんて、信じない。
前世で散々裏切られたのだから。
でも――。
マーガレットの花言葉は『信頼』と『誠実』。
もしかしたら、いつか。
もしかしたら、また。
誰かを信じることができる日が来るのかもしれない。
そんなことを、ほんの少しだけ、思った。
***
その日の夕方、またあの騎士が来た。
もう十日目。すっかり見慣れた顔。
「いらっしゃいませ」
「……マーガレット」
私は笑顔で花を包む。
渡す時、少しだけ勇気を出して言った。
「毎日ありがとうございます。大切な方へのプレゼントですか?」
騎士は一瞬、目を見開いた。
それから、静かに頷く。
「……ああ。大切な人に」
「そうなんですね」
やっぱり、誰かにプレゼントしているんだ。
きっと恋人か、家族か。
少しだけ、胸がちくりとした。
――あれ?
私は自分の気持ちに戸惑った。
なんで、今、胸が痛くなったんだろう。
「……その人、幸せですね」
私は笑顔でそう言った。
「毎日、こんなに綺麗な花を贈られて」
騎士は何も言わずに、マーガレットを受け取る。
そして、店を出る前に――。
ほんの一瞬だけ、彼は振り返った。
「……ありがとう」
いつもより少しだけ、優しい声だった。
私はその背中を見送りながら、小さく息をついた。
「……さて、明日も頑張ろう」
花に水をやりながら、私は独り言を呟く。
静かで、穏やかで、誰にも縛られない日々。
それが私の選んだ道。
そう、自分に言い聞かせた。
でも、心の奥で――小さな予感がした。
この穏やかな日常が、少しずつ変わっていくような。
そんな、甘くて、少しだけ怖い予感。




