第92話:野心の影
人は、俺を「柔和な団長」と呼ぶ。
部下たちは皆、俺を「誰にでも笑顔で接する理想の上官」だと信じて疑わない。
学園の生徒に視察へ行けば、彼らは安心したように頭を下げ、教師たちは肩の力を抜く。
——だが、それは仮面に過ぎない。
本当の俺は、誰よりも冷徹だ。
俺が欲しいのは笑顔でも信頼でもない。欲しいのは——権力。
ゲーリュ団を、この手に完全に収めること。
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机の上に広げた地図を指でなぞる。
そこには外壁沿いにいくつもの赤い印が打たれている。
花のように広がった足跡。あの日、報告を受けた時から、俺の頭から離れなかった。
外壁の向こうにまだ“何か”が生きている。
それは神獣か、それとも人か。
どちらでも構わない。大切なのは、その存在を利用できるかどうかだ。
真実がどうであろうと、俺にとっては関係ない。
「外にはまだ脅威が潜んでいる」——そう示すだけで、王国も人々も、もっと俺たちを必要とする。
恐怖ほど人を支配する道具はない。
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ギウスは力で兵をまとめる男だ。だが単純すぎる。
酒と剣を愛するあの獣には、盤面全体を見る目がない。
だから利用する。
外壁調査を名目に、彼を外に釘付けにすればいい。
戻れぬ状況を作ってしまえば、残る兵たちは必然的に俺の指揮下に入る。
ルナーアは頭が切れる。だが切れ者は、孤立する。
規律と記録に固執しすぎる彼は、味方を得る前に敵を増やす。
俺は笑顔で人を繋ぎ、同時に彼の立場をじわじわと削ってやる。
王国への報告書ひとつで、彼女の信頼など崩すのは簡単だ。
両輪を失えば——ゲーリュ団は俺のものになる。
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窓の外で風が鳴った。
ランプの炎が揺れ、机の上に置いたペンの影が長く伸びる。
その影はまるで獣が牙を剥いているようで、俺の胸を妙に高鳴らせた。
「……もうすぐだ」
思わず声が漏れる。
ここまで積み重ねてきた。表では柔和に、裏では冷酷に。
人の信頼も、恐怖も、真実も、全部ひとつの駒に変えてきた。
俺が欲しいのは「団長の座」なんかじゃない。
欲しいのは——世界の盤上そのもの。
もし、外に生き残りがいるのなら。
もし、神獣の正体が塗り替えられた歴史の通りでないのなら。
その全てを利用して、俺は王国を動かす。
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ドアが叩かれる。
「団長、次の会議の準備が——」
部下の声に、俺は微笑みを浮かべて答えた。
「すぐ行こう。皆を待たせるわけにはいかないからね」
柔らかい声。安心させる笑顔。
俺の仮面は今日も完璧だ。
だが、その奥で心臓は静かに獣のように脈打っていた。
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一方その頃。
北側の石造りの屋敷は、夜の月明かりに照らされて輪郭を浮かび上がらせていた。
冷たい風に霜がきらめき、広い庭木は黒い影のように並んでいる。
屋敷の奥、重厚な扉の向こう。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜ、壁一面の書物の背表紙が赤く照らされていた。
その机を挟み、向かい合って座るのは2人。
ひとりは緑髪の長い前髪を垂らしたゲーリュ団の軍団長ルナーア。
もうひとりは、ボライオネア家の当主にして、王国随一の古文書管理者でもある女性。デーネの母だった。
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「やはり……動き出しましたか」
ルナーアは眼鏡を外し、低く呟く。前髪がゆらぎ、火の光が鋭い瞳に反射した。
デーネの母は、淡々と書類を揃えながら答える。
「ええ。西軍の掌握は、ほぼ彼の思惑通りに進んでいるようですね」
机に広げられた地図の上には赤い線が描かれている。
それは軍の補給路と外壁付近の通過ルートだった。
「ギウスを排除するには、もっと外の“危険”を理由にしなければならない」
ルナーアの声は落ち着いているが、その内側には緊張が張り詰めていた。
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そこでデーネの母が問いかける。
「あなたは……アルを潰すおつもりで?」
ルナーアは視線を地図から外し、真っ直ぐ彼女を見た。
「ええ。そしてもうひとつ理由がある。——デーネ嬢を、この戦線から外したい」
その言葉に、彼女の指が一瞬だけ止まる。
紙をめくる手は再び動き出すが、その目はわずかに陰を帯びていた。
「今後、壁外任務は必ず激化する。あの子が巻き込まれれば、命を落としかねない」
ルナーアの声は静かで、それでいて確信を帯びていた。
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長い沈黙の後、彼女は小さく息を吐く。
「……やはり、あなたも同じ結論に辿り着きましたか」
その口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「私も、娘を“盤上”から降ろしたいのです。あの子にはまだ、この場所に残るべき理由がある」
彼女は机の引き出しから封筒を取り出す。蝋で固く閉じられた封。
ルナーアの前に置かれたのは、国王にも見せられない記録だった。
「これはアルの信用を崩し、選抜から娘を外す口実になるでしょう」
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ルナーアはそれを手に取り、深く頷いた。
「必ず安全な場所に退かせます。……ただし、そのためには、アルと真正面からやり合う覚悟が要る」
暖炉の炎が揺れ、2人の影が壁に大きく伸びる。
それは、もう後戻りできない密約の証のようだった。
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やがて彼らは、淡々と段取りを決め始める。
——翻刻班の設置。
——名目は「外壁調査に伴う古文書再編」。
——デーネは医療班兼務として後方へ。
——期間は未定。延長も可能。
ひとつひとつの線が迷いなく引かれていく。
「あなたは本当に速い」
「あなたの条件が合理的だからです」
互いに短く笑った。
その笑いは、夜の火に溶けていくほど小さかった。
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立ち上がる前、彼女はふとルナーアに問いかけた。
「あなたは……なぜそこまでして、娘を守るのです?」
ルナーアは一瞬だけ考え、答えた。
「駒を守るためです。——そして、盤を読むために」
その瞳は、炎よりも深く静かに燃えていた。
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夜気は冷たく、屋敷の庭に霜がきらめいていた。
だが2人が交わした密談は、確かに新しい流れを生み出していた。
利害は一致している。終点は違っていても、今はそれでいい。
夜の鐘が1度、遠くで鳴った。
それは合図のように、2人の歩幅を決定づけた。




