第90話:古びた留め具
花型の足跡は、壁の外の乾いた砂地に一本の細い線を描くように続いていた。
誰かが「歩きながら道を引いている」みたいに、迷いなく、一定の間隔で刻まれている。
「……妙だな」
ルナーア団長が呟き、眼鏡の奥で目を細めた。
「普通、足跡は多少でも乱れるはずだ。だが、これは——意図的に“見せている”足跡だ」
パールが息をのむ。
「じゃあ、こっちを見てる可能性が高いってこと……?」
ギウス団長が口の端を上げた。
「面白ぇじゃねえか。こっちの動きも、あいつらの計算のうちってわけだ」
そう言いながらも、大剣を握る右腕の筋肉がわずかに膨らむ。赤黒い神力が刃先を包み、砂に影を落とした。
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進むにつれ、空気が少しずつ変わっていった。
日差しは変わらないはずなのに、体感温度が下がり、耳の奥で風の音が遠ざかっていく。
——まるで、誰かが周囲の音を吸い取っているようだった。
デーネが僕の横に並び、小声で言う。
「ウルス、これ……結界じゃない?」
僕は頷く。
「たぶん……俺たちはもう、入ってる」
後ろからレグが不満そうな声を上げた。
「だったらもっと早く言えよ」
「いや、気づいたの今だって」
「おっそ」
この状況でも口げんかできるレグの胆力は、ある意味うらやましい。
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やがて足跡は、半ば砂に埋もれた岩場で途切れた。
風が一瞬、ぴたりと止まり、全員の呼吸音だけが耳に届く。
「……消えた?」
パールが辺りを見回す。
だが僕は、視線の端に“それ”を捉えていた。
岩場の向こう、淡い影が一瞬だけ揺れたのだ。人の形をしている。
間違いない——前にも見た“影の人物”だ。
心臓が大きく跳ねた。
でも、何故だろう。
その背中が、どこか懐かしく見えた。
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ギウス団長が一歩前へ出る。
「おい! そこにいるのは分かってる!」
赤黒い神力が爆ぜ、空気を振るわせる。
だが返事はない。影は揺れ、そして……砂の中へ溶けるように消えた。
残されたのは、ひとつの小さな物。
——銀色に輝く、古びた紋章付きの金具。
それは僕の家にあった古い剣帯の留め具と、まったく同じ形をしていた。
***
僕は膝をつき、その銀色の留め具を拾い上げた。
表面は細かな傷で覆われ、長い年月を経ていることが分かる。けれど中央の刻印——鋭く彫られた双翼の紋は、ほとんど摩耗していなかった。
見覚えが、ある。
僕の部屋の奥、埃をかぶった箱の中。母が捨てずに残していた古い剣帯。
そこについていた留め具と……まったく同じだった。
「ウルス、それ……」
デーネが覗き込み、眉をひそめる。
「ただの金具……じゃないよね?」
僕は返事できなかった。
指先がじわりと熱くなり、心臓の鼓動が耳の奥まで響く。
あの影は——父さんなのか?
でも、父さんはずっと前に……。
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「おい、なに固まってんだ」
レグが僕の肩を軽く小突く。
「持ち主が近くにいるなら、追うしかねぇだろ」
そう言って前へ出ようとした瞬間、ギウス団長の声が低く響いた。
「やめとけ」
振り向いた彼の眼は、戦場を何度もくぐり抜けてきた者だけが持つ冷たさを帯びていた。
「今は“追わせるつもりで消えた”足跡だ。迂闊に乗れば、全員まとめて罠にかかる」
ルナーア団長も頷く。
「それに、この紋章……記録にはない。だが、私の記憶にはある。随分昔に、壁外遠征で一度だけ目にした」
眼鏡越しに僕を見て、わずかに声を落とす。
「……君の家系と、何か関係があるのかもしれない」
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パールが僕の隣に立ち、小さく笑った。
「ねえウルス、今すぐじゃなくても、ちゃんと確かめよう。あんた……今、ちょっと顔が怖いよ」
冗談めかして言ったのに、目は真剣だった。
僕は息を吐き、留め具を握りしめる。
——そうだ、今はまだ答えを出すときじゃない。
でも、これが偶然じゃないのは確かだ。
風がまた吹き始め、砂を巻き上げて視界を霞ませた。
影は消えた。でも、確かにここにいた。
そして、何かを——僕に託そうとしていた。
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ギウス団長が背を向け、隊に声を飛ばす。
「戻るぞ。今日のところは収穫ありだ」
部下たちが一斉に動き出す中、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中の留め具は、太陽の光を反射して鈍く光っている。
それは、僕の過去と、これからを繋ぐ唯一の手がかりのように思えた。




