第88話:砂に埋まらぬ結び
外の砂漠に足を踏み戻した瞬間、視界が少し広くなった気がした。
——いや、広くなったんじゃない。
狭い廊下と門の暗がりから解放されて、目がようやく外の光に慣れただけだ。
それでも、胸の中の重さは変わらない。
門の中で見たあの赤い結び目が、まだ脳裏に焼き付いていた。
「ここからは足跡を二重に残すぞ」
ルナーア団長の声が、乾いた風の中で冷静に響く。
指示通り、パールが青で地面を薄くなぞり、僕は後ろから紫で重ねた。
足跡を消すための工夫だ。
ギウス団長は、しばらく後ろを振り返ったままだった。
その目は門を見ているようで、もっと遠く、何か別のものを見ているようだった。
「アル、周囲を見張れ。影がついてきてないか確認だ」
「任せなさい。こう見えて、後ろ姿を追うのは得意なんだ」
軽口を叩くアル団長だが、その赤黒の神力は絶えず漂っている。
油断は一つもない。
僕は歩きながら、無意識に自分の手のひらを見つめていた。
——この感覚を、忘れたくない。
指先に残る、あの結び目の温度。
父さんの指が、僕の小さな手を導いた時の重さ。
「ウルス、さっきの……」
隣のパールが小声で言う。
「何か、知ってる感じだったよね?」
僕は答えられなかった。
口を開けば、何かがこぼれ落ちそうで。
それに——まだ確信はない。
けど、この感覚は、偶然じゃない。
⸻
壁までの帰路は、行きよりも速かった。
太陽は西に傾きかけており、砂の色も金色から赤茶色に変わっていく。
部下たちも疲れてはいたが、門の中で感じたあの冷たさを思えば、砂漠の暑さの方がまだ安心できる。
「団長たちはどうするつもりなんだろうな」
レグが後ろからぼそっと呟く。
「国に報告は……しない感じか?」
パールとデーネも無言で耳を傾けている。
ギウス団長はすぐには答えず、しばらく砂を踏みしめる音だけが続いた。
やがて、低く落ち着いた声が返ってきた。
「報告するかどうかは、まだ決めてない。だが……あそこは、何度も行く価値がある」
ルナーア団長が補足するように言う。
「“外に人がいる”かもしれない。それも、我々の歴史にない形で生き延びてきた人間だ。軽率に報告すれば、潰される可能性がある」
アル団長が薄く笑う。
「つまり、国の耳に入れる前に、俺たちだけで先に掘り下げる……ってわけだな」
ギウス団長がそれに頷いた。
「……次は、もっと奥まで行く。ウルス、お前も来い」
胸が熱くなった。
あの結び目の先に何があるのか——知るためには、行くしかない。
⸻
日が沈みきる前に、外壁が見えてきた。
門番たちがこちらに気づき、慌てて開門の準備に入る。
巨大な扉が開く音は、やっぱり何度聞いても胸を揺さぶる。
内側の空気はひんやりしていて、砂漠の熱を剥ぎ取ってくれる。
だけど僕の中の熱は、まだ収まらなかった。
パールが僕の肩を軽く叩いた。
「……あんた、さっきからずっと手、握ってるよ」
気づけば、左手は無意識にぎゅっと拳を握っていた。
中に何もないのに、まるで何かを守るみたいに。
——そうだ、僕はこの手の中に、あの“記憶”を持ち帰ったんだ。
父さんの結び目。門の奥の紐。
それらを繋げる線が、まだ見えなくても、確かに存在している。
「……絶対、もう一度行く」
誰にも聞こえない声で呟くと、手のひらの熱が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
***
報告を終えると、団長たちは部下を下がらせた。
厚い扉が閉まる音が、部屋の空気を一段と重くする。
僕たち4人は外の廊下で待機することになった。
遠くで聞こえる話し声は低く抑えられていて、内容まではわからない。
けれど、時折混じる短い単語だけが耳に残る。
——“外の人間”
——“可能性”
——“記録にない”
壁に背を預けながら、僕は足元を見ていた。
その視界に、さっき見た花型の足跡が、鮮明に蘇る。
偶然じゃない。
父さんを見送った日も、同じ形があった。
「……ウルス、あの足跡、やっぱり……」
パールが小声で切り出す。
だけど僕は首を横に振った。
「まだ、言えない。確証がないから」
すると、レグが苦笑いしながら僕の肩を叩く。
「お前が“言わない”って時は、だいたい何かある時だろ」
否定できなかった。
僕の心は、ずっと門の奥の暗がりに引きずられていた。
⸻
その頃、会議室の中では地図が広げられ、机の上に複数の印がつけられていた。
ギウスが赤黒の神力を抑えながら地図を押さえる。
「……公式報告は、巨大魔物の討伐と、足跡の存在だけに留める。詳細は隠す」
その声は低く、決意がこもっていた。
ルナーアが眼鏡の奥から視線を送る。
「つまり、次回も我々だけで進む、ということだな」
「そうだ。だが次は、部隊を絞る。少数精鋭……俺、アル、ルナーア。それと——あの4人も連れて行く」
アルが軽く笑う。
「珍しいな、ギウス。新人をそう簡単に危険地帯に連れて行くなんて」
「必要だ。……あいつらは何かを知ってる。特に、ウルス・アークト」
その名が出た瞬間、ルナーアの目がわずかに細まる。
「アークト……どこかで聞いた名だと思っていたが」
棚から古い記録簿を引き出し、手早くめくる。
埃をかぶった紙に、薄く消えかかった文字が浮かび上がった。
——【チャンタルホーク村 騎士団長 レオン・アークト】
記録は十数年前で止まっており、備考欄には「任務中行方不明」とだけ記されている。
ルナーアはそのページを閉じ、静かに言った。
「……あの足跡、似ているな」
ギウスも頷く。
「もしそれが本当なら——ウルスにはまだ話すな。確証がない」
その隣でアルが静かに微笑んだ。
⸻
廊下の空気が急に重くなったのは、会議が終わった合図だった。
扉が開き、ギウス団長が出てくる。
その表情はいつものように無愛想だが、どこか決意を帯びている。
「次の任務だが……しばらくは外壁周辺の警戒だ」
短く言い、僕らを見渡す。
「だが覚えておけ。お前たちは、また外に出ることになる」
胸の奥で、何かが跳ねた。
その“また”が、どこを意味しているのかは分からない。
けれど、父さんの姿を追うなら、あの門の奥しかない。
パールもデーネも、レグも、視線だけで互いに何かを確認し合った。
この話は、まだ誰にも言わない。
でも——僕らの中では、もう決まっていた。
——必ず、行く。




