第87話:古代の建物
灰色の塊は、近づくたびに「建物」から「門」へと印象を変えていった。
壁ではない。塔でもない。
砂に半ば呑まれながら、なお通路の口だけは意志を持って開きつづけている——そんな形だ。
喉が勝手に鳴った。乾いているのに、息が重い。
足の裏で砂の音が細く伸び、やがて消える。
風も音も、門の前で一度ほどけて、奥へ吸い込まれていくようだった。
「入るか、戻るか」
ギウス団長が言う。
声は低いが、単語の選び方に迷いはない。
「戻って報告もできる。だが、戻った先で誰がこの“招待状”の意味を繋げられる?」
アル団長は門の縁の石に指を滑らせた。
赤黒の神力を針のように細めて、微細な傷をなぞる。
「刃物の跡……いや、金属で擦った痕だ。昨日の箱と同じ匂いがする」
ルナーア団長は、風の切れ目を読むみたいに眼鏡の位置を直した。
「帰路の印は二重に。外の風は正午に反転する。
内部で道を間違えたら、外の砂が私たちの足跡を消す」
レグが拳を握って、門の暗がりを覗き込む。
「やるなら早くやろうぜ。待ってるところに走って行く方が性に合う」
「性に合うだけで決めない」パールが冷やす。
「でも、行くしかないわよね」
僕はただ頷いた。
胸の奥では、もっと別の言葉が渦巻いていた。
行きたい、でも怖い。
怖い、けれど行かなきゃいけない。
——そんな風に輪になって、出口を失った感情たち。
「役割を分ける」
ルナーアが短く指示を刻む。
「先行はパールとウルス。探知と足運び。
レグは2列目、万一の押し返し。
デーネは後列で記録と回復。
私は印、アルは右の壁、ギウスは左で“重し”。いいな」
「はい」
僕は髪を結び直し、紫を脚に薄く纏った。
濃くすると踏み抜く。薄く、でも踏み換える速さは落とさない。
刀の柄に指をかけ、深くは握らない。
——影の門で覚えた型どおりに、呼吸の奥に「1、2、3、4」を置いた。
門の影に入った瞬間、音が変わった。
世界全体に綿をかぶせたみたいに鈍くなり、呼吸の音だけが自分の耳の内側で大きく響く。
空気はひんやりして、鉄と油の匂いが鼻腔にすべり込む。
床は砂ではなく、平らな石の板だった。
白、灰、黒——3色の石が交互に敷かれ、途中途中に「花」の象が嵌められている。
花弁は5。
中心はわずかに凹んで、周囲の石よりも磨耗していない。
——踏ませたくない花。
パールの青が床に薄く広がり、目に見えない膜のように凹凸をなぞる。
「踏んだら落ちるやつ、じゃない……けど、触ると“反応”する。
さっきまでの金属箱と同じ系統」
デーネがしゃがみ込み、花弁の縁を指で撫でる。
青の膜が指先にまとい、彼女は目だけで短く読んだ。
「古い文字……『花を踏まず』。
それから、『5より先に“戻れ”』」
5。
胸の奥で、小さな音がした。
——僕はいつからか、息の数を4で止め、5を言葉にしない癖がついている。
「先を行け」
ギウスの声が背に落ちる。
「お前の足は壁の中じゃ育たない。外の床で覚えろ」
「……はい」
僕らは花を避ける線を探して進んだ。
白石から灰石へ、灰から黒へ。
パールは一歩先で青を伸ばし、段差や割れ目を示す。
僕は紫を脚だけに留め、刀に力を入れない。
肩で押さず、腰でさばく。
最初の角を曲がると、狭い踊り場に箱があった。
金属の小箱。
鏡片が1枚、角度を変えれば扉の奥へ明かりを投げる構造。
蓋の裏には短く刻まれた線と弧、そして——5。
「やっぱり、同じ“手”だね」デーネが呟き、短くスケッチを取る。
「『草/砂/油/汗/影』……あの時と同じ語の並び」
「汗、ね」
アルが小さく笑って前髪を払う。
「じゃあ私の出番じゃないな。私は汗をかかない」
「はいはい、あとで鏡見れば」
パールの突っ込みは素っ気ないけれど、声がわずかに軽くなった。
緊張で固まった空気が、ほんのひと呼吸だけ柔らぐ。
通路は緩やかに下っていた。
壁には刻み目が少しずつ増え、同じ花の象が等間隔に現れる。
ところどころ、金属の棒が壁から突き出ていて、それぞれの基部に細い針のようなものが覗いている。
「触るな」ルナーアの静かな声。
「“汗”に反応する仕掛けの匂いがする」
僕は掌を握ってから開いた。
汗はない——ように自分では思うけれど、実際はどうだろう。
刀の柄に触れた皮膚の感覚が、妙に鮮やかだった。
二つ目の角の先で、通路は広い間に開けた。
天井は低いが、横に広い。
床の石はところどころ剥がれ、砂が入り込み、花の象は半分砂に埋もれている。
間の中央には低い台。
木ではない、石でもない、灰色の金属。
台の上には……赤い紐が1筋。
紐と呼ぶには古びすぎている。
繊維がほつれ、砂の粒に絡んでいる。
それでも結び目だけは、綺麗なままだった。
二度回して、最後に指先で芯を内側へ押し込む——チャンタルホークの騎士団で教わる結び方。
僕に最初に教えてくれたのは、父さんだった。
指先が勝手に伸びる。
触れたらほどける気がして、寸前で止めた。
胸の底の方で、何かが折りたたまれて、またひらく。
「ウルス?」
パールの声が遠い。近いのに、遠い。
僕はうなずいた。
「……知ってる結び方だ」
デーネが台の縁を撫でて、目を凝らした。
「刻印……『戻る線を数え、5を越える前に戻れ』。
そして小さく、『花を踏まず』……繰り返しだね」
「繰り返すのは、覚えない奴がいるからだ」
ギウスが鼻を鳴らす。
「俺たちだ」
冗談みたいな口ぶりなのに、声が低く、笑いはない。
団長は台の周囲を1周し、壁に掌を当てた。
赤黒が薄く滲み、石の向こうの空洞の形が“触るように”伝わってくる。
——この人は本当に、重さで聞くんだ。
「右の壁、空洞」アルが指で示す。
「薄い。そこが“先”だろう」
先。
喉の奥で言葉が膨らむ。
先に何がある。誰がいる。
——誰が、置いた?
パールの青が、壁の薄い部分に触れて静かに鳴った。
高い、金属のよれる音。
ルナーアが矢を1本だけ番えて、壁の継ぎ目にそっと添える。
矢は放たれない。
代わりにギウスが少しだけ赤黒を濃くし、アルが槍の石突きを軽く当てる。
音が重なり、壁が一瞬、息をするみたいに膨らんで——ひびが走った。
乾いた崩落ではなく、布の裂けるような小さな音。
薄い壁が1枚、向こう側へ倒れる。
砂煙は上がらない。
代わりに、冷たい空気が肩口から胸へ流れ込んできた。
開いた先は、狭いがまっすぐな廊下だった。
床には、また花。
だがここには2種類——白い花と、黒い花。
白は花弁が5、黒は4。
白の中心は凹み、黒の中心は出っ張っている。
デーネが小さく息を呑む。
「『4で歩み、5で帰る』……そう読める」
4で歩む。
僕は無意識に、呼吸の中の「1、2、3、4」をなぞった。
5を言わない。言ったら戻る。
——そういう“約束”に触れた気がした。
「白は踏むな。黒を踏め」
ルナーアが結論だけを置く。
「順路に“黒4つ”が1組。5組目に入る前に戻る」
「律儀に道案内とは、親切な罠だ」アルが笑う。
「だがまぁ、乗ってやろう」
僕らは黒い花弁の位置を確かめながら進んだ。
黒——4。
白は避ける。
踵で軸を作り、つま先で次の黒に触れる。
パールの青は先の黒を探し、レグは後ろの白を踏まないよう、体の大きさを不自然に小さくして足を運ぶ。
「押すなよ」
「押してない」
短い囁きが何度か往復し、そのたびに喉の渇きが少し紛れた。
黒4つを1組。
廊下の壁に刻まれた傷が数を教えてくれる。
1本、2本、3本——4本の傷で1組。
5本目の傷の手前で、壁に小さな金属片が差し込まれていた。
鏡片。角度は固定されていない。
誰かがここで1度立ち止まり、角度を変えて“外”に合図を送った——そんな痕。
——見られている。いや、見せている。
三組目の終わり、壁の角にごく小さな印があった。
線を2度折って、最後にちいさく丸める。
結び目の印。
僕の指先がそこに重なる。
父さんが、僕の小さな手を取って教えてくれたときの、指の温度が、掌の重さが、急に骨の裏側から甦ってくる。
掌が汗ばむ。
“汗”。
壁の針の列を見ないふりをして、指を離した。
4組目の終わりで、空気の密度が変わった。
耳の奥で低い唸りのような振動。
ルナーアの眉がわずかに動く。
「……音だ。地の下で何かが回っている」
機械じかけの車輪みたいな音。
けれど、そんなものを僕は実際には見たことがない。
だからこそ、不気味だった。
人の手で作られたはずの何かが、この暗闇の奥でまだ動き続けている。
ここは何だ。誰が作って、誰が今、動かしている。
5組目の傷が壁に現れた。
そこで僕らは止まる。
デーネが指で“戻る”の文字をなぞる。
意味は明確だ。これ以上は、招待ではない。
ギウスが肩を回して、こちらを見ずに言った。
「戻るぞ。今日はここまでだ」
……そのはずだった。
背の方で、風が鳴った。
廊下に風などない。
なのに、誰かが息を吹いたみたいに、襟首が冷たくなる。
パールの青が跳ね、レグが振り返り、デーネの手から紙片が1枚、静かに落ちた。
——目の端。
5組目の先の“白い花”の上に、赤いものがひらりと落ちている。
布。古い紐と同じ色。
結び目は、やっぱり同じ。
二度回して、芯を内側へ押し込んで……それから、最後にほんの少しだけ余りを左に倒す——それは、父さんが僕にだけ教えた、小さな“癖”だ。
喉の奥が熱くなる。
声が出ない。
刀の柄に置いた指が震えた。
「ウルス?」
パールの声。遠い。近い。
5を越える前に戻れ。
そう刻んであるのに。
僕の足は、一歩、前に出そうになった。
黒い花ではない。白の、反対側。
——踏んだら、何かが始まる。
たぶん、悪いことが。
ギウスの掌が僕の肩を掴んだ。
重い。止まる。
「戻る。これは——“また来い”の合図だ」
息を吐く。
紫が脚から薄れて、膝が笑う。
僕はうなずくしかできなかった。
引き返す道は、来た時より短かった。
黒、黒、黒、黒。
花を避ける。
印に触れて、鏡片の角度を戻す。
台の上の紐は、そのまま。
触れない。
触れたら、ほどけてしまう気がするから。
倒した薄壁をまたぐと、空気がわずかに温かくなった。
門の外の砂の匂いが、かすかに戻ってくる。
背後で、遠い、金属の鳴りが1度だけ。
誰かがそこにいるみたいに。
外に出ると、風が頬を切った。
乾いているのに、今は救いみたいだ。
ルナーアが帰路の印を二重に刻み、アルが砂の斜面に目を細め、デーネが息を整えながら記録の末尾に1行を書き加える。
パールは振り返らない。
振り返ったら、戻りたくなるから。
ギウスが僕の横に立った。
大剣の影が、僕の影に重なる。
「見えたか」
「……見えてはいない。でも、感じました」
「なら十分だ」
団長は短く笑って、髭の下で言葉をほどく。
「帰る線を数えろ。言葉にするな。戻って、また来る。5を越える前にな」
うなずく。喉が痛い。
息は、落ち着いているのに。
1、2、3、4。
僕は言葉にしない「5」を胸の奥に抱えたまま、門に背を向けた。
砂の上に、花の足跡はなかった。
けれど、足の裏が確かに覚えていた。
黒い花の場所と、白い花の縁の冷たさと、赤い結び目の手触りを。
——その時、風の中で、誰かが笑った気がした。
息より小さい、声より近い、懐かしい音。
「……遅いぞ、坊主」
振り返ったとき、砂はただ砂で、門はただ門だった。
僕は歯を食いしばり、前を向き直る。
帰る線を数える。
戻って、また来る。
結び目はほどけていない。ほどけさせない。今はまだ。
空は明るい。地平は揺れている。
壁は、もう背中にはなかった。




