第86話:火影に立つもの
焚き火がぱち、と弾ける。
その瞬間、暗闇に立つ布を被った人影の輪郭が、ほんの少しだけ鮮明になった。
背丈は僕とそう変わらない。だが、その足元に残る花型の足跡が、視界のすべてを支配する。
「誰だ……?」
思わず問いかけた僕の声は、喉の奥でざらついていた。
返事はない。
その代わり、ゆっくりと、焚き火の光の境目まで歩み出てくる。
顔はすっぽりと布で覆われ、目元すら影になって見えない。
それでも――なぜだろう、僕はその視線をはっきり感じた。
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ギウス団長が大剣の柄に手をかけ、低く命じる。
「動くな。名を名乗れ」
しかし、人影は動きを止めることなく、さらに一歩踏み込んだ。
焚き火の炎が、布の端を揺らす。
そして、その瞬間だけ、唇の端がかすかに覗いた気がした。
——笑っている?
⸻
「お前……」
僕の中の何かがざわつく。言葉にならない感覚が、喉を塞いだ。
初めてではない。この視線、この間合い――どこかで、確かに。
レグが前に出ようとした瞬間、布の人物はふっと身を引いた。
砂を蹴る音もなく、その姿は闇の奥に溶けるように消えていった。
⸻
「追うぞ!」
ギウス団長の号令で、僕らは一斉に駆け出す。
だが足跡は、たった数歩分だけ残し、途中で途切れていた。
砂に覆われたわけでも、風で消えたわけでもない――まるで、最初からそこに続きがなかったみたいに。
「……なんだこれ」
パールがしゃがみ込み、途切れた場所の砂を指先ですくう。
その表情には、怒りとも不安ともつかない色が混じっていた。
⸻
野営地に戻ると、焚き火の火は少し小さくなっていた。
僕は座り込んだまま、夜空を見上げる。
冷たい星の光が、胸の奥に妙な痛みを落としていく。
あの目――いや、あの気配。
なぜ、僕を見ていた?
***
夜は、思ったよりも長く感じた。
あの布の人物の残像が、まぶたの裏に何度も浮かび、眠気を押しのけてくる。
眠れないまま、僕は何度も焚き火の火を突いていた。
隣ではレグが背中を丸め、まるで眠っているかのように見えたが……
ときおり、その指が小さく握られたり開かれたりしているのに気づく。
あいつも眠れてはいないのだろう。
⸻
東の空がかすかに白み始めた頃、ギウス団長が焚き火の向こうで立ち上がった。
寝ていたはずの部下たちが、団長のその動き一つで起き上がる。
あの人の指示には、迷いも間もない。
「予定変更だ」
ギウス団長の声が、夜明け前の空気を切り裂いた。
「今日の調査は延長。あの足跡の人物を追う。――全員、準備しろ」
砂漠の冷気を吸い込んだ声は、火を通さずにそのまま胸に突き刺さってきた。
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「団長、危険では?」
ルナーア団長が眉を寄せて問う。
「相手は魔物ではない。人間であれば、交渉の余地も――」
「魔物より厄介かもしれねえだろ」
ギウス団長は振り返らず、腰の大剣を軽く持ち上げる。
「自力で外壁の外を生き延びてる人間なんざ、相当な化け物だ。だからこそ、今逃したらもう二度と会えねえ」
⸻
アル団長は薄く笑った。
「面白くなってきたじゃないか。……まぁ、俺はどちらかというと、こういう狩りは嫌いじゃない」
その瞳は笑っていても、光は冷たい。
パールが僕の腕を小さくつつく。
「ねえ……ウルス、もしかして、あの人……」
声が揺れている。
「……わからない」
僕は首を振った。
でも胸の奥では、否定しきれない予感がじわりと広がっていく。
⸻
朝日が地平線から顔を出す。
砂漠の砂粒一つ一つが、金色に光り始めた。
僕たちは装備を整え、昨日の足跡の残る方角へと向き直る。
――もう、戻れない。
そう思った瞬間、胸の奥が妙に静かになった。
***
足跡は、昨日と同じく花びらを並べたような形をしていた。
乾いた砂の上に、それだけはやけに鮮明に残っている。
最初のうちは、ただその痕を追っていけばいいと思っていた。
でも――数百メートルも進まないうちに、僕は違和感に気づく。
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「……おかしい」
思わず口に出すと、すぐ隣を歩くデーネが振り向いた。
「何が?」
「いや……これ、まっすぐ過ぎるんだ。砂漠の地形なら、もう少し迂回するはずだろ?」
パールも首をかしげる。
「確かに……。風避けになる岩とか、わざと避けてるみたい」
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ギウス団長も足を止め、腰を落として跡を観察する。
赤黒の神力が薄く足元に滲み、砂粒が僅かに震えた。
「……間違いねえ。これは“見せる”ための足跡だ」
ルナーア団長が眉を寄せる。
「つまり、誘っている?」
アル団長は口元を歪めた。
「歓迎の印か、罠か……それを確かめるのが我々の役目だな」
⸻
僕はもう一度、足跡の先を見た。
地平線まで続くその道は、まるで僕らを“呼んでいる”みたいだった。
しかもその曲がらなさが、胸の奥のざわめきをさらに煽る。
風が吹くたび、砂が足跡を覆い隠そうとする。
それでも、次の瞬間にはまた別の新しい跡が現れる。
まるで、僕らが近づくのを待って、そこに踏みつけていくような――そんな感覚。
⸻
数時間の行軍の末、視界の先に奇妙な影が見えた。
それは砂漠の色とは違う、低く広がる灰色の塊。
「……建物?」
パールの声は半分息を呑んでいた。
でも、それは壁や屋根のある“家”というより……
砂に沈みかけた、巨大な石の門のように見えた。
ギウス団長が歩みを止め、低く言った。
「……あれは、古代の遺構だ。だが、この場所は地図にも記録にもない」
⸻
僕の背中を、冷たい汗がつうっと伝った。
足跡は、その門の奥へとまっすぐ続いている。
――これ以上、進んでいいのか。
そう思った瞬間、門の影の奥で、何かがこちらを見て笑ったような気がした。
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