第81話:壁はもう背中にない
金属の箱——表面は焼けて波打ち、角は擦れて丸い。
ルナーア団長が神力の赤を細く差し込み、内部の輪郭をなぞる。
「空っぽだ。だが、底に粉——金属粉と、……薬の香り」
デーネが膝をつき、青い膜で手を覆って粉を採る。
「結着剤の匂いも。外壁内では使わない配合。……外の調合だ」
アル団長が箱の側面を指で叩く。
「反射板の固定穴。光で位置合わせをしてる。つまり、誰かが“見るために置いた”」
ギウス団長は短く笑い、大剣の柄を軽く叩いた。
「見られてるなら、見せてやれ。こっちが進むのをな」
風が少し強くなった。砂紋が書き換えられ、さっき付けた帰路の印が浅くなる。
僕は頭の奥で線を1本足した。
1(門)2(砂丘)3(箱)4(立木の影)——5はまだ言葉にしない。言った瞬間、戻るための線が締まる気がして。
夕刻が近づくころ、地面の色が変わった。
赤茶の岩盤が露出し、ひびの間から黒い草が針の束みたいに立ち上がっている。
その中央に、円形に焼けた跡。焦げは浅く、線は極端に細い。まるで、絵筆で円を描いたみたいな——。
「……“囲い”だ」
ルナーア団長の声が低い。
「ここで何かを囲い、点火させた。逃げた個体のうち、少なくとも1つは壁へ向かった」
「ほらな、戻ってる場合じゃない」
ギウスが顎をしゃくる。
「輪は?」
デーネが円の縁に膝をつく。
「いくつか落ちてる。刻印は——短い線、弧、……5」
また“5”。胸の内側で小さな音が鳴る。
パールが鼻をひくつかせて顔をしかめた。
「薬の匂いが強い。人の匂い……薄いけど、残ってる。数時間前、いや半日……」
「追えるか?」
「追える。風下に逃げてる」
隊はすぐに隊列を組み直した。ギウスが前、アルが右、ルナーアが左。僕ら4人は第2列、そのさらに後ろに熟練の2人。
足音をそろえ、影を重ねない。息は浅く、吐くときにだけ深く。
夕陽が低くなり、影が長く伸びはじめたとき――砂丘の縁に、黒い点が立った。
人影。
こちらを見て、すっと消える。
「見た?」パールが囁く。
「見た」僕も囁き返す。
走りたい衝動に、膝が勝手に前へ出る。レグも同じだ。
「待て」
ルナーアの一言で、衝動が砂に吸われた。
矢が1本、音にならない速度で空を切り、消えた影の立っていた地点へ突き刺さる。——砂だけが跳ねた。
「囮、か」アルが目を細める。
「足跡なし、砂の沈みなし……“見せるための影”」
ギウスが舌打ちをひとつ。
「面倒な手合いだ。だが尻尾は出してる」
彼が指さした先、黒い針草の束の間に、小さな押し花のような痕が点々と続いていた。砂に貼り付いた、花の形の浅い印。
——“花を踏まず”。
胸の奥の線が、もう1本増える。
日が落ちる前、僕らは低い岩棚の陰に小さな幕を張った。
焚き火は焚かない。風向きだけを利用して温い空気を集め、デーネが淡い青で体温を落ち着かせる膜を作る。
パールが地面に指で簡単な地図を書いた。箱、円、花の印、囮の影。そして、風。
「明朝、影の立っていた稜線を越える。夜間は動かない。“見せる側”のテンポに乗らない」
「了解」
返事は短く、夜は薄い。砂の音が鳴り、遠くで石が1つ転がる。
眠りは浅かった。目を閉じると、壁内の廊下の湿った匂いと、外の乾いた匂いが入れ替わり、夢の境も砂に飲まれる。
夜半、微かな金属音に目が覚める。
僕は身を起こし、刀に手を伸ばす。
音は風の切れ目で止まり、また現れた。——高い、弱い、リズムが微妙にずれている。
視線だけで合図。パールが目を開け、レグが拳を握る。デーネは息を殺し、青を限界まで薄くする。
砂丘の稜線に、小さな光点。瞬き、消え、また瞬く。
信号、だ。誰かに向けて、ここに“獲物”がいることを知らせるための。
ギウス団長が音もなく立ち上がった。赤黒は灯さない。大剣の重さだけが影を作る。
アルは槍の石突きを砂に立て、ルナーアは矢を1本だけ弦にかける。
僕の喉は乾いているのに、唾は飲み込めた。
1、2、3、4——帰る線を数えながら、前の線を増やしていく。
夜が薄く、風がわずかに温む。
光点は、なおも瞬いていた。
こちらに「来い」とも「来るな」とも言わない。ただ、そこに“ある”ことだけを、丁寧に知らせ続けていた。
——迎えに来る。
誰かが、何かが。
壁の外で、僕らを“試す側”が。
「夜明けを待つ」
ギウスの囁きは短く、確かだった。
僕は刀の柄に手を置いたまま、視線だけで東の空を見る。
まだ暗い。でも、暗いままではいられない色が、そこに薄く滲みはじめていた。
読んでいただきありがとうございました。
面白かった、続きが気になると思ったら評価、ブックマークよろしくお願いします。
筆者がものすごく喜ぶと同時に、作品を作るモチベーションにも繋がります。
次回もよろしくお願いします!




