第71話:鼻で数えて、拳で抜けろ
朝の空気は乾いていて、昨日より少しだけ冷たかった。
外に出る前、パールが僕の前に立ちはだかり、人差し指を鼻の前で振る。
「今日は“鼻で数える”からね。いい? 1は草、2は砂、3は油。混ざったら、強い匂いを“後に置く”。戻るときは弱いほうへ」
「うん……つまり、鼻で楔を打つわけだ」
「そう。鼻楔。命名、私」
「語感がひどい」
デーネが即座に切り捨てる。
「でも理屈は正しい。匂いの層で道を“記録”するの」
「任せろ!」
とレグ。胸を張った瞬間、ボタンが1個どこかに飛んだ。
「任せない。まず留めて」
僕は拾ったボタンを押しつけた。
とりあえず荷物を確認する。
昨日と同じ道具に加えて、今日はデーネが薄い布袋に薬草を詰めていた。
「目潰し用」「止血」「消毒」ときっちりラベルが貼ってある。
パールは短刀の位置を微調整し、僕は刀の鞘口を指2本ぶん上げて光を1本だけ確かめてから、戻す。
準備を整えて門まで行くと、前でギウス団長が待っていた。
「昨日と同じ丘の線の先だ。匂いが強くなるなら、深追いはするな。異常があれば“戻れ”。異常がなくても“戻れ”。いいな」
「はい」
すれ違いざま、アル団長が肩越しに言った。
「今日は鼻を信じて、目を疑え」
⸻
外壁の外。
風は低く、乾いていて、旗は西へ。
砂は昨日より軽い。
パールが鼻をひくひくさせる。
「1草、薄い。2砂、濃い。3油、……弱いけど筋がある。東斜め前」
僕らは“鼻楔”を置くように前へ進む。
心の中の紙片に、匂いの線を1本ずつ書き足す感覚。
デーネが一定のテンポで数え、僕は遅い方を選びながら歩幅を整える。
レグは僕の半歩後ろ、足跡を重ねすぎない距離でついてくる。
丘を1つ巻いたところで、匂いの“筋”が急に濃くなった。
パールが手を上げた。
停止の合図だ。
耳を澄ます。
「……低い音。砂の下で何かが擦れる」
⸻
その時だった。
足元の砂が、ぶく、と泡みたいに盛り上がる。
次の瞬間、砂を割って、**砂蜥蜴**が顔を出した。
腕ほどの太さ、長い尾、眼は白濁しているのに、動きは速い。
さらに、左右から2体、3体。背に黒い硬い板を背負っている。
「来るぞ」
僕は刀の柄を握り、紫の神力を脚から腰に厚く纏った。
体が軽く、芯が重くなる。
地面に沈まず、踏み抜ける足。
「正面、3。右、2。左、——1!」
パールが叫ぶや、短刀が逆手に抜かれる。
音より先に影が走る。
最初の1体が跳ねた瞬間、僕は踏み込み、刃を最短で走らせた。
尾の基部——動きの軸。
刃が硬板の隙を探り、紫の圧で押し分ける。
浅い。弾かれた。
振り下ろす角度を半歩ずらし、尾の付け根に2撃目。切断。
「おりゃああッ!」
横でレグが拳を落とした。
砂が炸裂し、蜥蜴の顎がめり込む。
拳に纏った神力が砂の層を押し広げ、衝撃が中で爆ぜる。
体表より中身が先に壊れる音。
レグの喧嘩は、いつも理屈以上に分かりやすい。
「レグ、踏み込み深すぎ!」
デーネが叫ぶ。
「砂に足を取られる!」
「任せろ、腕で走る!」
「走るな、殴れ!」
レグが軽口をたたいている間、パールが右側の2体にすでに絡みついていた。
短刀が斜めにすべる。
切るのではなく、裂きを誘う角度。
蜥蜴が身をひねる瞬間を先取りして、筋を狙って刃を置く。
動きが止まる。
喉へ、手首へ、的確に2刺し。
軽い、でも深い。
左から来た1体が僕に飛びつく。
牙が開くと同時に、僕は半歩だけ後ろにずらす。 噛み合わせの線から外れる。
顎が空を噛んだ瞬間、柄頭で顎をはたき、脳天へ切先。
紫の圧を一瞬だけ尖らせて、刺して抜く。
脳天から噴き出した血は、砂が吸った。
「後ろ、くる!」
パールの声。
影が背後から伸びてきた。
僕は振り返らない——刀を水平にして、後ろへ滑らせる。
刃が砂の表面を撫で、跳びかかってきた2体の足首を揃えて刈る。
体勢が崩れたところに、レグの横拳がめり込み、2体まとめて転がった。
「レグ! やったな」
「当然だ! 俺は階段で鍛えてるからな!」
「階段は関係ない!」
そこに、音が混じった。
——カチ、カチ、カチ。
砂蜥蜴の背板の隙間から、刻むような小さな音。
デーネがすばやく近づき、青の神力で僕らの足元に薄い膜を張る。
「踏み込みライン、ここ。これ以上前に出ないで!」
僕は最後の1体の尾を切り落とし、レグが顎を打ち抜いたところで、一旦、場が静まった。
砂の上に倒れた蜥蜴の背板には、金属が埋め込まれていた。
小さな輪と、薄い板。
塔や見張り小屋で見たものと、同じ系統。
「……誰かが“付けて”る」
パールが眉を寄せる。
「動物に、運ばせてる?」
「それだけじゃない」
デーネが青い光で砂を払う。
「これ、受け口を探す“口”。匂いの筋を濃くするための“油”が内側に塗られてる。だから、匂いで辿れる」
レグが背板を指でこじ開けた。
「つまり、こいつらが“道しるべ”ってことか? 運んで、匂いを撒いて、隠す?」
「隠す場所がどこかは、受け口が教えてくれるはず」
デーネが僕を見る。
「昨日の輪と板、合わせたい」
「ここじゃ危ない。——パール、鼻は?」
「1草薄い。2砂は普通。3油、さっきより濃い。前」
彼女は少しも迷わず指差した。
鼻楔。
匂いの線が、ほんのわずかに南へ曲がるのを、僕も感じた。
そのとき、砂がもう一度盛り上がった。
今度は大きい。
背板に丸い穴が空いた巨体——砂喰い(ワーム)。
口縁に黒い輪が複数固定され、油が滴っている。
匂いの源だ。
「でっか!」レグが笑う。
「任せろ、俺が——」
「レグ、突っ込むな!」
僕とデーネとパール、3人分の声が重なった。
僕は刃を低く構える。
直線では届かない。
砂喰いが口を開くと、周囲の砂が足首をさらう。
どうやらあの口、吸い口みたいになってるみたいだ。
前に出るのをやめて、横へ流れる。
紫の膜を足の外側に厚くして、吸い込みから逃れた。
パールの短刀が輪を狙って飛ぶ。
カン、と硬い音。輪が1つ外れて、油の筋が砂に垂れた。
レグは吸い込みの縁に拳を叩き込む。
砂が逆風になって噴き出し、ワームの頭がわずかに仰け反る。
「今!」
デーネが叫ぶ。
「口の“縫い目”!」
僕は吸い込みが弱くなった半瞬に踏み込み、刃を縫い目へ滑らせ、押し込む。
紫の圧が内側で広がる。
突いて、広げて、抜く。
ワームが砂を吐き、身をよじった。
砂柱が立ち、視界が白くなる。
レグが僕の肩を片手で引っ張り出し、片腕で僕を投げ飛ばしながらもう片方の拳でワームの側頭を撃った。
鈍い破裂音。
「ウルス、鼻は大丈夫か!」
「砂入った!」
「鼻水は実質、神力だ!」
「違う!」
パールが2本目の短刀で最後の輪をはじき飛ばし、デーネが青の膜で吸い込みを弱める壁を作る。
「10秒だけ! 呼吸止めて!」
僕は再度踏み込み、刃を縫い目へ。
最後は下から上に断つ。
ワームが崩れ、砂に沈んだ。
静かになった。
匂いだけが残った。油の、金属の、血の。
僕は膝に手をつき、呼吸を整えた。
鼻の奥がひりつく。
パールが布を差し出してきて、僕は鼻をかんだ。
「レグ、左肘、切れてる」
デーネが言う。
「こんなもん、どうってことねーよ」
「消毒する」
「はい」
デーネの手は迷いなく、でも優しい。
青い神力が沁みて、熱を冷ます。
パールはワームの口縁から輪を2つ回収し、油紙に包んだ。
「これ、塔の“口”に合うかもしれない」
ワームの腹の中から、布切れが出てきた。
砂と油にまみれて色が分からない。
でも、繊維の編み方に見覚えがある。
「……鐘の縄の繊維と、似てる」
デーネが囁く。
「太さも、節の位置も」
「小屋の鐘の縄、切れてたよな」
レグが眉をひそめる。
「つまり、誰かが“縄を餌にして”誘った?」
「匂いを運ぶには、縄は都合がいい」
パールが頷く。
「油を含ませて、動物にくわえさせて、運ばせる」
「誰が、何のために」
僕の言葉は、自分でも薄いと感じた。
答えはまだ遠い。
でも、線は増えた。
塔——輪——受け口——見張り小屋——縄——砂の中の“刻む音”。
耳の奥で、またカチ、カチと小さな音が鳴った気がした。
その方向は——南。
パールが鼻で3を嗅ぎ分ける。
「“3”が、濃くなる。鼻楔、前」
デーネが短く頷く。
「でも、今日はここで戻る。回復の神力、残量が少ない」
僕は刀を拭い、輪を包んだ油紙を背負い袋の小箱に収めた。
塔の口を開ける鍵は、たぶんこの手の中で増えていく。
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帰り道。
鼻で数え、耳で刻みを拾い、目で影の長さを測る。
匂いの層が薄くなっていくのを確認しながら、僕は“遅い方”を選んで歩いた。
戻れる道を、匂いで残しながら。
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外壁が見え、門をくぐった。
内の空気が肺に落ちる。
中庭でギウス団長がこちらを一目見て、「砂まみれだな」と笑い、アル団長は「匂いは?」だけを尋ねた。
「3が濃くなってます。輪を2つ、回収。ワームに装着されてました。鐘の縄に似た繊維も」
僕の報告に、アルは短く目を伏せ、「そう」とだけ言って去った。
足音は、昨日よりほんの少しだけ速い。
急がないふりをして、急いでいる時の音だ。
それにしても疲れた。
手掛かりはいくつか拾った。
さぁ、謎解きの開始だ。
読んでいただきありがとうございました。
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