第68話:塔まで走ろうって言ったのは誰だ?
朝練が終わって、汗が引く前。中庭の石畳が、昨夜の雨でまだ少しだけ冷たい。
——今日はさすがに休もう。そう思って、水袋を口に運んだ、その時。
「おい、ウルス。塔まで走ろうぜ」
レグの声は、まっすぐ脳に刺さってくる。
僕は水をむせかけ、咳を2回。3回目でやっと止まった。
「……え、なんで?」
「理由がいるのか?」
レグは胸を張った。
「そこに塔があるからだ」
「山登りの人の理屈を勝手に持ってこないでよ」
パールが腰に手を当てる。
「汗くさいまま走る気? あんた、いま馬小屋と同じ匂いする」
「おい、馬に失礼だろ」
デーネが淡々と言った。
「馬は草の匂いがするけど、レグは鉄と汗。あと、昨日のスープ」
「褒めてる?」
「褒めてない」
僕は小さく溜め息を吐いた。レグの“行こう”は命令に近い。
「いや、今日は準備も——」
「準備は走りながらする!」
なぜだ。
「ほら、パールも行くだろ?」
「行かないわよ」
「行くよな、デーネ?」
「私は読む本が——」
「塔の上で読めばいい!」
「……風でページが飛ぶ」
「押さえればいい!」
「誰が?」
「ウルス!」
矢印がこちらに刺さる。僕は水袋を握ったまま空を見上げた。雲は薄く、旗は東へなびいている。……走るにはいい風だ、というのが悔しい。
「じゃ、出発!」
レグは宣言を待たない。大股で門の方へ。
「ちょ、ちょっと!」
パールが慌てて短刀の位置を直し、デーネは本と筆記用具を抱えて小走りで続く。
僕は刀の鞘口を指2本分だけ上げて戻し、結局その背中を追った。
◇
外壁の内側の大通りは、朝市の匂いで満ちていた。焼き魚、揚げパン、香草の束。呼び込みの声が左右から飛んでくる。
「ちょっと寄ろうぜ」レグが唐突に右へ。
「寄らない!」パールが首根っこを掴む。
「串1本だけ」
「1本って何?」
「2本」
「増えてる」
「3本」
「交渉って知ってる!?」
結局、僕らは露店の串焼きを1本ずつ受け取った。炭の香りと脂の照り。噛むと、塩気が舌に広がる。走る前に食べていいのか分からないけど、体が勝手に「正解」と言った。
「デーネ、食べる?」
「……1本だけ」
彼女はほんの少し口角を緩め、串の先をきれいに片付ける。
パールは素早く2本目を確保していて、レグは「4本目……」と露店の前で名残惜しそうに立ち止まった。
「走るんじゃなかったの?」パールが肘で小突く。
「糖質は燃料だろ」
「じゃあ燃やして」
大通りを出ると、人の少ない路地に入る。
石畳が細くなり、日差しが斜めに差し込む。僕はふと、視界の端に動く影を見た。
黒い外套、深いフード。
こちらを見たように思った瞬間、影は角の向こうに消えた。
「……いま、誰か——」
「猫?」パールが覗き込む。
「いや、人……だと思う」
「追う?」
「いや——やめておこう。走るんだろ」
胸の奥に小さな違和感をしまい込み、僕らは足を速めた。
◇
塔のふもとに着く頃には、僕の息は少し荒くなっていた。
レグは相変わらず平然。パールは額に薄い汗、デーネは眼鏡の位置を直しながら「心拍、上昇……」と小声で言う。
「よし、登るぞ!」
レグが先頭へ。
「待って、段差数えたい」
デーネが即座に拒否。
「帰りの歩幅に使う」
「じゃあ数えながら登れ!」
「……やれと言われればやるけど」
彼女は本当に数え始めた。「1、2、3、4——」
螺旋階段は狭く、足音が壁に跳ね返る。パールの髪が風を含み、僕の顔の前でふわりと揺れる。
「ごめん」
「髪は軽いからいい。レグの息が重い」
「重くねぇ!」
「重い」
デーネが冷静に合いの手を入れた。
踊り場が1つ、2つ。途中で小窓から外が見えた。 壁の外の砂色、内側の屋根、朝の光。
「ねえ、これ誰が掃除してるんだろ」
パールが小窓の埃を指で拭う。
「レグじゃない?」
「俺じゃねぇ。俺は階段を鍛える係だ」
「なにそれ」
最上段まで上がると、風が一気に頬をなでた。塔の上の見張り台は四角く、腰の高さの欄干が四方を囲っている。
広がる景色。外壁の向こう、乾いた丘と浅い谷の連なり。空は高く、昨日より澄んでいる。
レグが欄干に両手を置き、珍しく声を落とした。
「やっぱ、ここはいいな」
パールは目を細めて、遠くを見ている。
「——あそこ、見える?」
彼女が指した先、地平の端に、細い黒い線。煙。
僕は目を凝らした。
「焚き火にしては……遠い。量も多い」
「風向きは?」
デーネが素早く答えを組み立てる顔で問う。
「今は東。煙は南へ流れてる。あの位置なら……外壁から半日」
パールは短刀の柄に触れる癖を出しかけて、すぐに離した。
「今は見るだけ。近づくなら、準備してから」
見張り台の床に、薄い傷が何本か走っているのに気づいた。
規則的な間隔。楔の跡じゃない。——金属の何かを“引きずった”跡。
僕は膝をついて指でなぞった。
「新しい」
「雨の後に乾いた線。昨日以降ね」
デーネが屈んで目を近づける。
「幅は指二本分。車輪ではない。……担いで運ぶには重い」
「人が来てたってことか」レグが唸る。
「見張り台の合鍵、誰が持ってる?」パールがぽつり。
僕ら4人は顔を見合わせて、同じ名前を思い出していた。
——団長たち。
でも、彼らが“わざわざ”ここへ来る理由は? 昨日、接近だけで戻ると決めたはずだ。
「まあ、今は……」
僕は立ち上がり、煙から視線を外した。
「降りよう。長居はよくない」
「せめて叫んどくか?」
レグがいきなり深呼吸。
「おーい、誰かいるかー!」
「やめろ! 反響がすごい!」
塔の中に、レグの声がぐるぐる回って戻ってきた。
階段下から「静かに!」という見張りの声。僕らは一斉に肩をすくめた。
◇
降りる途中、踊り場の隅に木箱が置かれているのを見つけた。
古い箱だが、留め金だけ新しい。パールが耳を当て、デーネが指でほこりを拭う。
「からっぽ?」
僕は慎重に留め金を起こし、蓋を少しだけ開けた。
中には麻袋が1つ。小さな、硬いものが何個か触れ合う音。
デーネが目を細める。
「……音、昨日の金属片に似てる」
「開ける?」
パールが短刀の鞘で箱の縁を軽く叩く。
「いや、今はやめよう。印だけつけて戻る」
僕は箱の下、見えない場所に、指で小さな『・』を2つ刻んだ。戻ったときに動いていたか分かるように。
「子どもみたい」とデーネが言い、でも口元は少しだけ緩んだ。
◇
塔を出ると、レグが両手を広げて伸びをした。
「よし、昼までにもう一往復」
「しない!」僕とパールとデーネの声が重なった。
「じゃあせめて坂ダッシュ」
「しない!」
「じゃあ——」
「帰る!」
ようやくレグは肩をすくめ、「しょうがねぇな」と笑った。
彼が素直に引くのは珍しい。……とはいえ、足は帰り道でも自然と早い。体がまだ走りたがっているのだろう。
市場に戻ると、行商人の声がさらに増えていた。
「お、さっきの串の店!」レグの目が輝く。
「だめ」
「1本だけ」
「だめ」
「見るだけ」
結局、僕は財布を取り出していた。パールは横で「弱い」と呟き、デーネは「塩分は必要」と小声で肯定してくれた。味方が1人いるのは心強い。
串を受け取ったところで、さっきと同じ黒い外套の背中が視界を横切った。
人混みの向こう、露店の布の隙間。
今度こそ見間違いじゃない。
「待って、あれ——」僕が言い終える前に、外套は角を曲がって消えた。
パールが走り出そうとする。
「追う?」
僕は一瞬迷って、首を横に振った。
「やめよう。人混みで揉めるのはよくない。……それに、向こうが“見せてる”気がする」
パールは眉を寄せ、「うん、わかった」と短く返した。
レグは串を食べ終えながら、「追うと逃げるからな。逃げられると追いたくなるからな。だから追うな」と独自理論を披露した。
「それ、理屈として成立してる?」
「成立してる!」
◇
兵舎に戻ると、ギウス団長が中庭の端で腕組みして空を見ていた。
「お、走ってきたのか」
「はい」
「よし、次は荷運びだ」
「えっ」
「塔の上まで?」
パールが目をむく。
「内側の倉庫だ」
ギウスは笑った。
「冗談だ、半分は」
「どっちだよ」
「半分は本気だ」
レグが親指を立てる。
「任せろ!」
僕は肩を落としながらも、ギウスの目の奥を観察した。冗談の影に、本当の何かが覗いていないか。——わからない。けれど、昨日より“何か知っている目”になっている気がした。
そこへ、アル団長がゆっくりと歩いてきた。
衣の裾は乾き、靴は砂ひとつ付いていない。
「朝から元気だね、君たち」
「健全ですから」
パールが胸を張る。
「健全なら、午後の文書整理も手伝ってくれるかい?」
アルは微笑んだまま言った。
「塔で拾った“形の似たもの”の照合だ」
デーネがわずかに身をこわばらせる。
「金属片のこと、知ってるんですね」
僕が問うと、アルは肩をすくめた。
「知らないほうがおかしい。——見せて、とは言わない。今は。ただ、匂いだけ教えてくれ」
「……匂い」
「古い油か、新しい油か」
彼の目は笑っていない。僕は正直に答えた。
「新しいと思います」
「そう」
アルは短く頷き、去っていった。残ったのは、淡い香料の香りと、答えを言ってしまった自分への小さな後悔だけ。
◇
昼食。食堂はいつもより賑やかだった。レグは3皿目のシチューを前に「あと5皿」と宣言し、パールはパンを2つに割って僕の皿に半分押し込んだ。
デーネは、例の包みを足元に置き、スープを冷ましている。
「ねえ、さっきの箱」
パールが声を落とす。
「戻ったら、印が動いてるか見よう」
「うん。夕方、人が減ったら」
レグがスプーンを止めた。
「俺も行く」
「静かにできる?」
「できる……たぶん」
「たぶん、が怖いのよ」
◇
夕方。
塔へ向かうと、石段の影が長く伸びていた。風は昼より冷たく、旗は西へ。
塔の中は、昼よりも静かだ。螺旋階段の途中ですれ違う見張りはいない。
踊り場に置いた箱は——そのままの位置にあった。
けれど、僕が刻んだ見えない印は、1つだけ消えていた。
「……消えてる」
「蓋を開けて確認」
デーネが囁く。
僕は深呼吸し、音を立てないように留め金を起こす。蓋を持ち上げると、麻袋は——ひとつ、減っていた。
「やっぱり、誰かが触ってる」
パールが低く言う。
レグは拳を握った。
「見張りは——」
「やめよう」
僕は首を振った。
「ここで騒いだら、向こうの思う壺だ。印を新しく付け直して、戻る」
僕は箱の裏に、今度は『・』を3つ刻んだ。2つだった印が3つになれば、次に見た時すぐ分かる。
◇
戻る途中、塔の外階段の踊り場で、僕は足を止めた。
欄干の下、石の隙間に何かが挟まっている。指でつまんで引き抜くと、小さな紙片が出てきた。
湿りで端が丸まり、字が少し滲んでいる。
デーネがそっと受け取り、目を細める。
「……これ、神代文字に似てる。でも違う。『出』の数え——“3つ進んで、2つ戻れ”。古い旅の合図」
「誰に向けて?」
パールが風の匂いを嗅ぎ、「……外」と言った。
僕は紙片を折り、胸の内ポケットに入れた。軽い紙なのに、重く感じる。
◇
夜。
僕は寝台で目を閉じ、今日の線を心の中で数え直した。
塔の上の煙。踊り場の箱。減った袋。欄干の紙片。市場の黒外套。アルの目。ギウスの笑いの奥の静けさ。
そして、武具庫の床板に残っているはずのない、冷たい息の記憶。
隣の部屋から、レグのいびきが薄く聞こえる。
どこかでパールが小さくくしゃみをして、デーネが本を閉じる音が続いた。
外壁の上で、風見の旗が1度だけ向きを変える。
——明日も走るのかもしれない。塔まで。あるいは、塔の中まで。
僕はゆっくり息を吸って、吐いた。心の中の線が、一本増える音がした。
読んでいただきありがとうございました。
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