第67話:塔の影は内にも落ちる
夜の雨は朝には止み、外壁の石は薄く光っていた。
窓に残った水滴が、風に押されて斜めに流れていく。
僕は寝台から起き、後ろで髪を束ね直した。
昨日、武具庫で触った床板をもう一度確認する。……沈みはなくなっている。でも、あの時の冷たさはまだ指先に残っていた。
外へ出ると、砂がしっとりとして靴にやわらかく絡む。
中庭ではパールが門楼を見上げ、
「昼までに2回は風向きが変わる」と言う。
レグは肩を回しながら「今日の砂は軽いな」と笑った。
デーネは巻物を持ち、神力で紙の角を固めている。
会議室では、昨日の地図が広げられたままだった。
ギウス団長は大剣を背負い、ルナーア団長は方位計をのぞき、アル団長はマントの水をしぼっている。
みんなの視線は、地図の一つの場所に集まっていた——塔の方向だ。
「昨日の記録を確認するぞ」
ギウスの声で、紙の上の点と線がつながっていく。
「風の変わり目8か所。亀裂1本。呼吸は弱い。灰の痕跡は少し。塔まで半里」
ルナーアが補足した。
「今日は接近だけで内部には入らない。ただ、塔が“基準”を持っているかは確かめる」
「基準?」
僕が聞くと、ルナーアは言った。
「古い建物には、位置を示す目印があることがある。風や影の長さとか。そこを覚えれば、迷わず帰れる」
アルは「戻れる塔は、入口にもなる」とつぶやく。
その言葉が、妙に頭に残った。
準備を終え、外壁の小扉を出る。
今日の風は低い位置から吹き込み、湿った砂は締まって歩きやすい。
ギウスの合図はほとんど手だけ。
パールは影と影の重なりを見て、レグは僕の歩幅に合わせる。
デーネは小声で数を数え、ルナーアはそのテンポを聞いて歩調を合わせた。
アルは紙を風にかざし、匂いを確かめている。
やがて塔の影が近づき、輪郭がはっきりしてきた。
上は崩れ、東に梁が倒れている。近づくにつれて、足元の砂が細かくそろっているのに気づく。自然の砂とは少し違う。
「止まれ」
ギウスの合図で立ち止まる。塔から吹く風に、金属と古い油のような匂いが混じっていた。パールが「嫌な音がする」と言う。
塔の基部を回り込むと、石に刻まれた印があった。
塔の内部には3本の線と弧——デーネが「これは“出発”の目印」と教えてくれる。東に1歩、南に半歩、北に戻る——昔の人が迷わないように決めた数え方だという。
「内部は?」ギウスが聞くと、パールは耳を澄まして答えた。
「下へ続く細い道。人が1人やっと。下から弱い風が上がってきてる」
ルナーアは「今日は入らない」と決めたが、アルが「新しい油の匂いがする。最近誰かが触った跡だ」と指摘する。
基礎の砂に、小さな丸い跡——金具の輪のような形があった。僕は砂を払って小さな金属片を見つけ、油紙に包んだ。
その時、塔の奥から低い音が響いた。
息のようで、でも刻むようなリズム。
パールとデーネが身構え、ギウスの手が上がる。合図は撤退。砂が塔に吸い込まれ、灰が空に舞った。その匂いは、昨日の武具庫と同じだった。
戻る道は風が何度も向きを変えたが、デーネの「1、2、1」という数えに合わせて歩く。外壁が見えたとき、ようやく息が楽になる。
中庭に戻ると、レグが桶の水をかぶり、パールが笑い、デーネは包みを胸に抱えて歩いていた。
僕は武具庫へ行き、昨日の板を確かめる。冷たさはもうない。でも、骨の奥に残るような感覚だけがあった。
「何してるの?」
とパール。
「昨日、ここに“砂の息”があった」
「今は?」
「……隠れてる」
パールは笑って「じゃあ、出てくるまで待てば?」と言う。
意味は分からないけれど、少し肩の力が抜けた。
夜、報告が終わるとアルが「その欠片、あとで見せてくれ」と言った。
目は笑っていない。僕は「後で」とだけ答え、デーネに預けた。
食堂ではギウスが「酒は1杯まで」と言い、レグは「1杯を何回も」と返して拳骨をくらう。
パールは笑い、デーネは包みを抱えたままスープを冷ましていた。
——塔は入口にもなる。
外の呼吸は、内にも落ちる。
僕は今日の線を胸の中で数えた。『1』。『2』。そして——『3』。
***
夜が更けても、デーネは食堂の片隅で例の包みを膝に置いたままだった。
ロウソクの火は短く、外の風がガラス窓をかすかに鳴らす。
僕は向かいの席でパンをかじりながら、時々その包みを見た。布越しでも中身の冷たさがわかるような気がした。
「開けてみないの?」
僕がそう聞くと、デーネは首を振った。
「今、ここで開けるのは……人が多すぎる」
確かに、食堂にはまだ団員が何人も残っていた。
ギウス団長が酒を片手に笑い声を上げ、アル団長は壁にもたれ、ルナーア団長は帳簿を広げている。
3人とも目は別のところを見ているようで、こっちの様子はしっかりと把握している——そんな気配があった。
レグは早々に食べ終えて「ちょっと体を動かしてくる」と外へ出ていった。パールはスープを飲みながら「何かあったら呼んで」とだけ言い、僕とデーネを残した。
やがて、デーネが小さく息を吐く。
「……部屋で見よう」
僕らは食器を片付け、食堂を出た。
部屋に戻ると、デーネは机の上に包みを置き、油紙を慎重に開いた。
中から出てきたのは、小指ほどの短い金属の棒だった。片端が輪になり、表面には微かな刻みが走っている。
「鍵……かな?」
「いや、鍵にしては形が単純すぎる」
僕は手に取ってみた。ひやりと冷たい。軽いが、妙に指に馴染む感じがあった。刻みのパターンは塔の印と似ている気がする。
その時——
「何を見つけたんだ?」
突然、低い声が扉の向こうから響いた。ギウス団長だった。
デーネが慌てて金属を布で包む。
「え、えっと……ただの金属片です」
「ほう。ただの、ね」
ギウスは扉の前で立ち止まり、しばらく沈黙した後、軽く笑った。
「なら、持っておけ。だが——不用意に外に見せるな」
そのまま足音が遠ざかっていく。ドアは最後まで開かなかった。
パールが廊下の端から顔を出し、「なんか怪しい匂いするね」とひと言。僕は「言われなくてもわかる」と返す。
レグは戻ってきて、僕らを見るなり「お、何だその宝物?」と手を伸ばす。すかさずデーネが机の引き出しを閉めた。
「……まあ、いいや。それよりウルス、明日走ろうぜ。あの塔まで」
「嫌だよ」
「何でだよ」
「今日行ったばっかりだし」
「じゃあ半分まで」
「半分ってどこ」
「決めてないけど、とにかく走ろう」
レグの押しは強い。結局、僕は「明日の天気次第」という条件で約束する羽目になった。
夜、寝台に横になると、外壁の向こうの塔が頭に浮かんだ。
あの金属片は、やっぱり“ただの”ではない。触れた指の奥に、砂の呼吸のような脈が残っている。塔からの風と、武具庫の床の冷たさ——どこかで繋がっている気がした。
眠りかけた時、廊下の足音が耳に届いた。軽い、でも早い歩調。窓の外を通る影が、外壁の方へ向かって消えていく。
僕は寝返りを打ち、深く息を吸った。
——明日、また何かが動く。
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