第66話:風の縫い目を探せ
明け方、外壁の白が夜の青を追い払い始めた。
兵舎の戸口に立つと、冷えた風が首筋を撫でる。紫の神力を薄くまとい、体の芯まで空気を通すみたいに深呼吸した。胃の底が静かになる。結び直した髪の束が、背で小さく揺れた。
中庭には、もう人の流れができていた。
“標”班は東門側の回廊へ、“梢”班は見張り棟の下へ、“根”班は補給倉庫前に。
3つの輪は互いに混じらないけれど、気配の糸だけが遠くで結び合っている。
ギウス団長は大剣を肩に、欠伸をかみ殺しながらも足取りに迷いがない。
ルナーア団長は紙片を数枚だけ、必要な順に並べ直す仕草を繰り返す。
アル団長は白いマントの留め具を指で弾き、鈴でも確かめるように微かな音を作ってから、周囲の顔色を一巡で読み取る。
「ウルス、こっちだ」
レグが手を振った。
袖口が少し裂けていて、デーネの言葉を借りれば“角を落としていない”服は、もう今日の午前中には2枚目に着替える運命だろう。僕は並んで歩く。
通用門の前で短い確認があった。
合図の確認、後退の幅、戻りの合言葉。
鈴は3つ——停止、散開、集合。
音を先に鳴らすな、というギウスの言葉が腹に落ちたまま、僕らは門番の頷きを合図に、さらに奥の小扉へ進む。
ルナーアの号令が風に溶ける。
「前へ。“標”、半歩先。——“梢”、半歩下がれ。——“根”、影を切らすな」
鉄の閂が外れる音は、冷えて澄んでいた。
扉がわずかに開いた瞬間、外の空気が一枚、内側の空気を押しのける。
匂いが変わる。砂、乾いた草、どこかに残る冷たい石の粉。
僕は刀の柄に軽く触れ、鞘口を指二本分だけ上げた。刃が朝の光を一本だけ返す。
外壁を出た。
足裏が砂を噛む。
まだ日が浅く、影が長い。
風はあるが、方向が落ち着かない。
旗が上から押される角度を、パールは視線で拾っていた。
彼女は“梢”の先頭、ルナーアの斜め後ろ——約束どおり、半歩、絶対に前へ出ない位置。
「——ウルス」
背中で声がした。デーネだ。
彼女は青の神力を指先だけに灯し、昨夜作ってくれた対照表の端を軽く叩く。
「“1を数える水”の表——ここ。風向きが2度以上連続で変わったら、最初の『1』に戻して数え直して。焦って『2』や『3』に飛ばすと、帰り道の『数え』が狂う」
「了解」
手の中の紙片は薄いのに、重さがある。折り目が、戻る線だ。僕はそれを胸の内側に仕舞い直し、前へ出た。
最初の一里は、いつもと同じだった。
日差しが持ち上がり、砂の粒が音を立て始める。
石灰質の小さな丘を巻き、荒れた草地を斜めに横切る。
ギウスが鈴をわずかに鳴らして停止の合図を送り、僕が並んで前の気配を確かめる。レグは黙って呼吸だけを合わせ、足の運びを僕に重ねてくる。足跡は2つで1つに見えるくらい近い。
2つ目の丘を越えたところで、空気の手触りが変わった。
——砂の間に、粉が混ざる。
それはパールの言っていた“砂を噛む音”を、僕の鈍い耳にもわかる形にしてくれる。
呼吸が薄くざらつく。僕は手を上げた。ギウスの鈴が一度。停止。
「風が……」
パールが囁く。
「上から押す感じが消えて、今は斜め。斜めの——」
「西から北へ、そしてまた西へ戻る」
ルナーアの声は低い。
「“数え”開始。ウルス、合図」
僕は首だけで頷き、胸ポケットから短い木片を出した。
返しのついた楔。
それを砂地に、線の向きと一緒に残していく。
1本で『1』。僕らの足は、その横を踏みすぎないように迂回する。戻るとき、ここへ戻るために。
5本目の楔を打ち終えた時、足の裏が、沈んだ。
ほんの少し。だけど、砂の粒が下から吸い上げられるみたいに、靴底にまとわりついて放さない。
レグが横で足を止め、肩に力を入れた。
「不味い足場だな」
「“沼砂”だ」
ギウスが鈴を2度、散開。
「踏み固めず、広がれ。足を取られたら、前じゃなく“上”へ抜けろ」
上へ——つまり、体を持ち上げて、砂との接地面を減らす。
僕は神力を足からふくらはぎにかけて厚く纏い、膝を使って体を浮かせる。
レグは逆に、踵で砂を押さず、足の甲で空気を掴むみたいにして抜けた。
鈍い音も立てない。身体が勝手にやっている。
彼の体には、砂漠の理屈がもう入っているのだ。
「右は駄目。左も駄目」
パールの声が早くなる。
「真正面——3歩先、砂の音が変わる。空洞。たぶん——」
「“割れ目”が走っている」ルナーアが続けた。
「“梢”は一歩下がれ。“標”、遅い方だ。——ウルス」
僕は息を飲み、ギウスを見た。
団長は顎で左の丘の陰を示した。
早く抜ければ目の前の空洞を越えられる。遅く迂回すれば、体力を削る。迷いは一瞬。僕は迂回を選んだ。楔の1本前に戻り、左へ大きく流れる。
遠回りは、ゆっくりだ。砂は歩幅を奪い、足首から熱を引き出す。
でも、戻れる。僕は肩越しに、楔の角度と自分の足跡の重なりを確認する。紙片の『1』に合わせるみたいに、歩幅を整える。
やがて、砂の音が軽くなった。
沈むのではなく、弾く音。僕は手を上げ、止まる。
レグが前に出て、膝で砂を払う。
そこには——溝があった。細い、幅一足分にも満たない亀裂。けれど、奥が暗い。風が、そこから吹き上がる。冷たい匂い。錆。石粉。
「よく気づいた」
ギウスの声が低くなる。
「こいつは“呼吸”してる。夜になったら、もっと開く」
「……呼吸」僕は思わず繰り返した。
砂が生き物みたいに感じられる。この“割れ目”は、地面の呼吸の縫い目みたいだ。
パールが短刀の鞘で砂の表面を軽く叩き、耳を傾ける。
「中から音。……数えの音に似てる。規則がある」
「下へ入るのは、今日は無し」
ルナーアが即答する。
「境界の座標だけ取る。——アル、記録」
背後から、紙の音。
“根”班の方角で、アルが軽く手を挙げた。
「記録。風向、温度、匂い。——それと、神力の残滓。薄い……灰か」
胸の奥がわずかに縮む。
灰色。昨日の会議室でアルが口にした、嫌な色。
僕は刀の柄を握り直し、呼吸を整えた。
紫の膜を皮膚の下に薄く張る。
デーネが一歩寄ってきて、僕の肩にそっと手を当てた。青の冷たさが、熱を撫でる。
「戻れる線は、ここ」
彼女は楔の方向と、紙片の『2』の記号を重ねて示す。
「帰りは“数え”の『1』に引き戻されがち。『2』の向きに体を“ずらす”意識を忘れないで」
「……うん」
頭では分かっているのに、体が知るまで時間がかかる種類の注意だ。
僕は自分の足の小指の位置を、ひとつ内側に寄せる。こうすると、戻る時に“戻りすぎない”。些細だけど、命を分ける。
そこから先は、線を拾う作業だった。
「風の変わり目」を探し、楔を打ち、数えを進め、また戻して確かめる。パールの耳が、ルナーアの目が、アルの記録が、僕らを薄い糸で導いていく。
ギウスは鈴の音を最小に保ち、合図を手振りに変えた。音が風に取られるからだ。
小さな笑いもあった。
レグが2枚目の服に袖を通した時、デーネは「予備は何枚?」と眉を上げ、レグが「3枚」と答えると、後ろでアルが「4枚にしておけ」と即答して、ギウスが「5枚だ」と笑った。
パールは旗の影を指でなぞり、「雨は夜」とだけ告げた。誰も疑わない。彼女が言うなら、そうだ。
正午前。
太陽が高くなり、砂の照り返しが皮膚を刺し始めた頃、僕らは“×”の印の近くに着いた。
第8の楔の線が、地図の『×』の向きと一致する。
立ち止まって、息を整える。
汗が目に入り、塩の味がした。遠く、熱で揺れる地平線の端に、黒いものが浮いている。丘か、岩か。——いや、塔だ。壊れた塔。半分、砂に呑まれている。
「……見えたか」
ギウスが目を細めた。
「今日はそこまで。近づかない。風が、悪い」
悪い。
言葉の意味が、体で分かった。
さっきまで右頬を撫でていた風が、左の襟元へ逆から入ってくる。
旗は上から押されず、地面の方から布を持ち上げる。
匂いが変わる。冷えて、濁る。
胸の内側で、紙片の『数え』が、いったん全部『1』に戻されるみたいな感覚がした。
鈴が一度。停止。二度。散開。三度。集合。
ギウスは手短に指示を出し、「戻る」を口にした。
僕は胸の内側の対照表を指で叩く。『2』の向きへ体をずらす。戻りすぎない。足跡をなぞりすぎない。楔に頼りすぎない。——戻れる道は、選ぶものだ。
帰路は、行きより遅く、しかし乱れなかった。
パールが一度だけ足を止め、「今、低い音がした」と言った時、僕らは全員その場で膝を落とした。
砂の下で、何かが息を吐いた。空洞の呼吸。表面の砂が1枚だけずれて、また元に戻った。
外壁が近づく頃、空に薄い布がかかった。
パールの言った通り、雨の気配。
砂漠の雨は滅多に降らないけれど、旗の影と匂いが告げる。城門の上で見張りが手を振り、鎧のきしみが近づいてくる。戻る鈴。最後の楔。『1』の紙片を、胸の内側で折り畳む。
内側に入った瞬間、空気の重さが変わった。
湿り気が増し、人の匂いが戻る。
僕は刀の柄から手を離し、息を吐く。
デーネが青の神力で僕の手のひらの擦れを冷やし、レグは3枚目の服に手を伸ばして「まだ破けてねえ」と残念そうに言った。
パールは「ほらね、雨」と指さし、最初の大きな一滴が中庭の石に暗い円を描いた。
報告は簡潔だった。
「“風の変わり目”を記録。割れ目を確認。亀裂は“呼吸”する。灰の残滓、微弱。未踏域の端に塔状の残骸を視認——接近は明日以降」
ルナーアは頷き、アルは記録を補い、ギウスは「上等」とだけ言って大剣を壁に戻した。たったそれだけなのに、背中の力がゆるむ。
生きて戻って、この“ただいま”を言える距離にいる。その事実が、一番重い。
——そこで終わるはずだった。
外灯がひとつ、早めに灯った境内で、雨の匂いを吸いながら、僕は刀を拭いに武具庫へ向かった。
パールは髪をほどき、デーネは紙片を乾いた箱へ移し、レグは「飯!」とだけ叫んで走っていった。
いつもの動線。いつもの笑い。そこに、ほんの小さな狂いが混ざる。
武具庫の扉の前。
床板の1枚が、昨日より半分だけ沈んでいた。
足を乗せると、わずかに、きしむ。湿りではない。砂。——砂?
僕はしゃがみこみ、指で板の端を持ち上げようとして、やめた。
紫の神力を指に纏わせ、音を殺して、板と板の間の隙間に薄く滑り込ませる。
押さえつけるのではなく、撫でるように。
板は持ち上がらない。代わりに、冷たい空気が、指先に触れた。外壁の外で嗅いだ、石の粉と錆の匂い。
——砂の呼吸。
背後で、足音。
振り向くと、アルが立っていた。濡れたマントの裾が、石畳に暗い線を作っている。彼は僕の目線の先を見て、ほんの少しだけ笑った。
「雨だ。床は湿る」
そう言って、彼は踵を返した。
歩き去る靴の音が、いつもより2歩分、軽かった。 僕はもう一度床板に指を触れた。冷たい。砂の匂いは——消えていた。
夜。
飯の湯気と笑い声と、遠くで鳴る鈴の小さな音に包まれながら、僕は刀を丁寧に拭った。
今日、僕は「遅い方」を選んだ。戻れる道を残した。明日もそうする。けれど、壁の“内側”にも、戻り方のわからない小さな亀裂が走り始めている。
窓の外、雨脚が少し強くなった。
旗は上からではなく、横から押されて揺れる。
——風の縫い目は、1つじゃない。
床下の冷たい空気の感触が、指に残っている。
僕はその指で、胸の内側の紙片をなぞった。
『1』。『2』。
戻る線は、まだ切れていない。
だから、明日、もう1本、線を足しに行く。
読んでいただきありがとうございました。
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