第65話:曇る地図、澄む呼吸
朝の鐘が2度鳴る頃、僕は兵舎の裏手にある井戸の縁に腰を下ろしていた。
石に染みた夜露がズボンの裾を冷やす。水面はまだ眠そうに揺れていて、覗き込むと赤毛が少し伸び過ぎた僕が映る。
束ねた髪の結び目を指で確かめ、刀の柄に触れてから、ゆっくりと息を吐いた。
紫の神力が、朝の冷気と混ざり合って薄い靄みたいに広がるのを、皮膚の内側で感じる。
今日の任務はない。けれど、心は落ち着かない。未踏域に入る前の準備日は、やることが山ほどあるのに、どれも「最後の確認」ばかりで、逆に時間が余る。
余った時間は、考えなくていいことまで考えさせる。
外の地形の変化。裂け目をえぐる誰か。地図にない風の境界。灰色の神力の残滓。全部、まだ点のままだ。
「おっ、いたいた!」
背中に乾いた声が弾んだ。
振り向く前に分かる。パールだ。
白銀の髪を高い位置でざくっと束ね、腰の短刀が昨日よりほんの少しだけ後ろに下がっている。
きっと走った拍子にずれたのだろう。本人は気にしていない。
「ねえウルス、今日の朝市、アジが安い。行こ」
「アジより先に装備の点検だろ」
「やだ、真面目。じゃあ行きながら点検しよう。ほら、マントの留め具、片方だけ逆さまにつけてる」
「……ほんとだ」
言われて手元を見る。留め具の矢印が上下逆。慌てて直す僕を見て、パールは得意げに鼻を鳴らした。
「探知だけじゃなく、観察眼も鍛えてますから」
「はいはい、さすが」
軽口を交わしながら中庭を抜けると、訓練場の端でレグが逆立ちのまま前進していた。
肩の筋肉が石像みたいに盛り上がり、砂地に逆さの足跡が一定の間隔で刻まれていく。
日が昇り切っていないのに、もう額に汗が滲んでいる。
「レグ、朝飯は?」
「逆立ちしてる時は食わねぇ!」
「してない時は?」
「食う!」
なんのやり取りだろう。
パールが肩を震わせて笑い、僕は小さく手を振って通り過ぎる。
兵舎の脇を流れる小運河を渡ると、市場のざわめきが近づいてきた。
屋台の布が風に鳴り、干した魚の列が鋭い匂いを放つ。いつもより少し湿った匂い。パールは鼻をひくひくさせて足を止めた。
「西風。雨、夕方から」
「根拠は?」
「旗の揺れと、魚屋のおじさんの膝」
「膝?」
パールは真顔で頷く。
「おじさん、雨の前は膝が痛いって顔するの」
魚屋に寄ってアジを二尾だけ買い、戻る途中、古道具屋の前で僕は足を止めた。
店先に昨日は見なかった黒い布がかかっていて、その下に金属片がいくつも並んでいる。
どれも形はまちまちで、薄いもの、曲がったもの、穴が空いたもの。
指先が勝手に反応する。触れてはいけない、と身体のどこかが囁く感触。
「見るだけだぞ」と店主が笑う。
「手に取ると、欲しくなる」
「買わせたいだけだろ」
「まあな。だが、欲しくなる種類の“古さ”だ」
パールがひとつ、楕円の金具をつまみ上げた。
表面に細い筋が走っている。刻印……ではない。
何か、圧痕だ。規則的で、でも読めない。僕は無意識に刀の鞘口に親指を置いた。
「やめとけ、パール」
「触るだけ。ほら」
彼女は金具を光に透かし、次の瞬間、眉を寄せてそっと戻した。短刀の柄に触れる指先が、いつもより強い。
「……嫌な“音”がした」
「音?」
「頭の奥で、砂を噛むみたいな。探知に砂粒が混ざる感覚」
店主は目を細めた。
「耳がいい娘だ。そいつは壁の外で拾われたものだよ。だから薄汚れて見えるけど、本当に汚れてるのは中身の方だ」
「中身?」
「言葉の綾だよ、若いの」
店主の声が急に軽くなった。
僕は礼を言って店を離れる。背中に布の擦れる音が付いてくる。パールの横顔が、ほんの少しだけ硬い。笑いを混ぜる余地のない硬さ。
「……ごめん、変なもの触らせた」
「大丈夫。味噌汁飲めば治る」
「何の治療だよ」
笑ってみせると、彼女もようやく唇の端を上げた。
戻り道、レグはまだ逆立ちしていた。今度は早歩き。砂地に2列の線が伸び、彼の腕が軽く震えている。
「レグ、やめろ、血が頭に上る」
「上げとくと、パンチが速くなる!」
「理屈が分からない」
兵舎に戻ると、食堂の隅でデーネが木の箱を開けていた。
中には布で包まれた小瓶が行儀よく並び、ラベルに「鎮痛」「止血」「消毒」「目薬」などと丁寧な字で書かれている。
青い神力が箱の周囲に薄膜を張って、埃を寄せ付けない。
「補給物資の詰め直し。砂に弱い薬は全部二重封にしたわ」
「二重……?」
「袋の中に袋。異物が入らない。あと、包帯は角を落としてある。ほつれにくいから」
「角を落とす……」
「レグの服も、角を落とせれば破けないのにね」
最後の一言だけ、少しだけ笑いが混ざっていた。
僕はデーネの向かいに座り、買ってきたアジを皿に置く。
デーネは一瞬だけ目を輝かせ、すぐに真顔に戻った。
「ありがとうございます。塩焼きにします」
「僕は味噌汁がいい」
「じゃあ両方。出立前の塩分と水分、重要」
デーネは家の母親みたいな口調になる時がある。本人は否定するけど、僕は少し安心する。
昼過ぎ、各班の最終打ち合わせが行われた。
広間に三つの円。ギウス団長の円は笑い声が大きく、アル団長の円は紙の擦れる音が絶えず、ルナーア団長の円は静かで、しかし密度が濃い。
僕とレグはギウスの円だ。大剣が壁に立てかけられ、柄の先に紐が結ばれている。紐の先は木製の小さな鈴。わざと軽く打って音を出し、風の向きを見ているのだと、誰かが囁いた。
「前衛の合図は三種。一本線は“停止”、二本は“散開”、三本は“集合”。上げ方で左右を指す。暗闇では音で代用。鈴は上げる前に鳴らすな」
ギウスの説明は簡潔だが雑ではない。僕の肩の位置を目で測り、レグの歩幅を足音で推し量る。3歩、2歩、半歩。短い言葉が、身体に入ってくる。
「ウルス」
「はい」
「迷ったら、遅い方を選べ」
「遅い方?」
「早い判断は当たることもあるが、早い動きは戻らない。お前は戻れる男だ。戻れる道を選べ」
肝の奥に落ちる言葉だった。頷いた僕の横で、レグがこっそり囁く。
「俺は?」
「お前は早い方を選べ。止まると爆発する」
「了解!」
方針が決まる。笑いが起きる。短い休憩。僕は広間の端で、紐の結び目を2度結び直した。指先に汗が滲むのが、今日は少し早い。
夕刻前、鎧戸の隙間から斜めの光が差す頃、ルナーア団長が僕を手招きした。
机の上の地図に、新しい薄墨の円が描かれている。未踏域に入る直前の地点。そこに小さく「×」が打ってある。
「ここ、昨日から風向きが一定しない。鐘楼の旗、見たか?」
「朝、パールが見てました」
「彼女が言うなら、確かだ」
ルナーアは眼鏡を押し上げ、低く続ける。
「未踏域の“風の変わり目”は目に見えない。だが稀に、音と匂いが先に来る。今朝の市場で、古道具屋の前を通ったろう?」
「……見ていたんですか」
「見てはいない。君の靴に、古い錆の匂いが残っている」
僕は言葉を飲み込んだ。パールが金具を持ち上げた時の、あの“砂を噛む音”。
「君はこの任務で、前に出るが、前に“出す”役でもある。……戻れる道を探しながら、出す。できるか?」
「やってみます」
「やれ。やってみる、は家で言え」
言い切られて、背筋が勝手に伸びた。
ルナーアは最後に1枚の薄い紙片を僕に渡した。神代文字に似た曲線が、いくつか連なっている。読めない。だが、見ているだけで胸の奥がざわついた。
「何ですか、これ」
「……君の友人が読める。彼女に見せろ」
「デーネに」
頷く彼の横顔は、薄い光の縁取りで硬く見えた。
日が傾くにつれて、城壁の外から吹き込む風が冷えてきた。
訓練場の砂が低く鳴り、門番の鎧が小さくきしむ音が重なる。
僕はデーネのもとへ向かい、紙片を渡した。彼女は内容を見た瞬間、一度だけ眉を寄せ、すぐに表情を消した。
「読める?」
「似ている。……でも完全には。神代文字に近いけれど、別の規則。たぶん“方向”と“数え”」
「1、2、3の……?」
「“1を数える水”みたいな。位置を確かめるための、古い“数え方”。未踏域の中で、これがあれば、“戻れる”」
喉の奥が熱くなった。さっきのルナーアの言葉と、同じ場所が熱を持つ。
「時間をくれれば、簡易の対照表を作れる。夜までには」
「頼む」
その時、廊下の向こうから、アル団長の声が小さく響いた。
誰かに命じる声。軽いのに、重い。耳に残る種類の声。
続いて、奥の方で金属がぶつかる音がして、すぐに静かになった。何事もなかった顔でアルが通り過ぎ、僕らに「良い夜を」と微笑みを投げた。胸の内側で、何か小さな鈴が鳴る。
日の入り。食堂は人であふれ、熱と匂いで空気が濃い。
パールが配膳を手伝い、冗談で塩を二倍かけようとしてデーネに止められる。
レグは3杯目の汁を飲んで、ギウスに「明日もその胃で戦え」と笑われていた。
笑い声と、皿の触れ合う音と、遠くの見張り台の交代の合図。
僕はそれらをまとめて胸に入れて、ゆっくりと息を吐く。音が整う。呼吸が澄む。
夜。兵舎の廊下は、外灯の光が帯になって伸びている。デーネが作った対照表を受け取り、礼を言うと、彼女は小さく首を振った。
「お礼は、帰ってきてから」
「帰ってくる」
「うん。……帰り道の印は、あなたがつけるのよ」
その一言が、僕にとって祈りみたいに聞こえた。
自室の扉を開けると、机が窓際に移動していた。
レグの仕業だ。窓の外、城壁の上には濃い影。風向きが時々わずかに変わって、旗の影が壁の曲面に短く斜めの線を描く。
僕は刀を鞘から指2本分だけ抜き、薄く油を延ばした。
刃が光を一本線で返す。その線を、心の中の地図の外縁にそっと重ねる。まだ線のない場所に、最初の道筋を。
床板がきしむ。扉が、わずかに動いた。
振り向くと、パールが立っている。
白銀の髪をほどき、いつもより静かな顔。
「寝る前に、言っとこうと思って」
「なんだ」
「明日、旗の揺れ、私が見る。あなたは前だけ見て。後ろは任せて」
「頼んだ」
「頼まれた」
短い会話。
その奥で、彼女はふっと笑った。昼の古道具屋の硬い表情は、もうどこにもない。
「……あ、そうだ。レグのベッド、さっき私が元の位置に戻したから」
「助かる」
「うん。代わりに、あいつの机を窓の外に出しといた」
「出すな」
笑いながら、彼女は手を振って去っていく。
静けさが戻る。外の風がほんの少し湿って、遠くに雨の匂い。窓の端に、最初の小さな滴が触れて、消えた。
灯りを落とし、寝台に横たわる。
目を閉じたら、昼間の金属片が一瞬、瞼の裏に浮かんだ。
砂を噛む音。錆の匂い。古い“数え”。戻れる道。ギウスの声。「遅い方を選べ」。ルナーアの声。「やれ」。デーネの声。「帰ってきてから」。パールの声。「後ろは任せて」。
耳の奥で、鈴が1度だけ鳴った気がした。風が変わる。呼吸が澄む。
僕はその澄んだ呼吸を、胸のいちばん奥に仕舞い込んで、眠りに落ちた。
――明日、線のない地図に、最初の線を引く。
迷ったら、遅い方を選ぶ。
でも、戻れる道だけは、必ず残していく。
読んでいただきありがとうございました。
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