第64話:線のない地図に、最初の線を
会議室の扉を押した瞬間、乾いた紙と木炭の匂いが鼻を刺した。
長机が3つ、コの字に並べられ、その内側いっぱいに地図が広がっている。
壁の白灰を写したような紙面に、東西南北の線は引かれているのに、外壁の外側に出た途端、ただの空白に変わる。
境界線だけが濃い墨で強調され、あとは茶の滲みと、ところどころの点。
そこに、今日、僕らが最初の線を引くらしい。
ギウス団長は、いつもの崩れた姿勢で椅子に腰を落とし、柄の太い鉛筆を親指と人差し指で弄んでいた。
ルナーア団長は地図の端に文鎮を置きながら、眼鏡を押し上げる。緑の長髪が肩で静かに揺れ、視線は一切迷わない。
アル団長はマントを背もたれに預け、腕を組んで黙っていた。顔は整っているのに、机上の何かの反射で瞳が硬い金属色になって見える。
「座れ」
ルナーアの短い指示で、僕らは手前の席に腰を下ろした。
レグは落ち着きなく拳を握ったり開いたりしている。
パールは短刀の鞘が椅子に当たらないよう位置を微調整し、デーネは膝の上に小さなメモ帳と筆記具を整然と置いた。
青い神力が、彼女の指の関節で微かに脈打っている。
ルナーアが木炭で地図上に小さな円を描く。
「ここが昨日、裂け目を発見した区画。北東外縁。補修から1年も経っていないのに、基礎が内側からえぐられている」
「自然じゃねぇ掘り方だ」
ギウスが言う。
「硬い層を避けて、弱いとこだけを選ってる。人か、よくできた魔物か……あるいは、その両方だ」
アルが腕を解き、指先で別の地点を軽く叩いた。
「もう1つ。外壁から二里離れた岩棚で、不自然な切り傷と、神力の残滓。色は判別困難——薄い灰に近い。赤でも青でもない。……嫌な色だ」
神力は基本、緑→青→紫→赤と、練度の色で語られる。
灰、なんて聞いたことがない。背筋の皮膚が、薄く逆立つ。
ルナーアは地図を三分割する形で、さらさらと線を引いた。
「今回の編成。先行の“標”班が道筋を作り、主力の“梢”班が調査・警戒・記録。殿の“根”班が補給・救護・回収。名前に意味はない、覚えやすいからだ」
「覚えにくいが?」
とギウスが笑い、ルナーアは無視した。
「“標”班の隊長はギウス。“梢”班は私。“根”班はアル」
その割り振りに、僕は無意識に息を整え直した。
先行にギウス。荒事の匂いが一番濃い位置だ。
「個別の配置——」
ルナーアの指先が、紙上で僕らの上に止まる。
「ウルス・アークト、レグ・ルースリアは“標”。ギウスの下だ」
「おうよ」
ギウスが大剣の柄を軽く叩き、ニヤリとする。
「パール・アジメークは“梢”。探知の中心。私の斜め後ろ——半歩、絶対に前へ出るな」
「了解」
パールの返事は短いけれど、声の芯が固い。
「デーネ・ボライオネアは“根”。医療・記録・補給のサブリーダー。移動と陣形のメモは全て君に任せる」
デーネはわずかに目を見開き、すぐに頷いた。
「承知しました」
分かれていく。
たった今、同じ椅子に並んで座ったばかりなのに、地図の上で線が僕らを別々のレーンへ押しやる。喉の奥がきゅっと縮み、指先の皮膚が熱くなる。
——でも、これが一番いい。僕とレグは前で殴り合う方が性に合ってる。パールは気配を拾って隊全体を守れるし、デーネは後ろに構えていることにこそ価値がある。
「目的は3つ」
ルナーアが指を1本ずつ立てる。
「1、裂け目の原因特定。2、外部の“人為”の有無確認。3、未踏域の境界線——“風の変わり目”の座標採取」
「風の変わり目?」
僕は思わず口に出した。
「行けば分かる」
ルナーアの眼鏡に朝の光が反射した。
「空気の手触りが変わる地点がある。そこから先は、羅針と影と、個々の“内側”の強度が試される」
アルが補足した。
「未踏域は、道具が裏切る。視界も、音も、匂いも、時には自分の思い出さえ。——恐怖は連鎖する。前に出る者は、後ろに伝染させるな。後ろにいる者は、前の背中に嘘を見つけるな」
教本には載らない種類の注意だ。
僕は指先で刀の鞘口をそっと撫でる。皮の縁の感触が、現実を教えてくれる。
ギウスが手の甲で口を拭い、椅子の背から前へ体を起こした。
「時間はない。出立は明朝。今日と明日は準備と訓練。各自、持ち物を最小に、帰る気で選べ」
帰る気で——当たり前の言葉が、妙に重く落ちる。
会議はそこで一度切れた。
細かい補給表や隊列の間隔、合図の取り決めなどは各班ごとに詰めることになり、部屋は3つの小さな輪に割れた。
僕とレグはギウスの前に立つ。パールはルナーアの横に滑り込み、デーネはアルに呼ばれて紙束を受け取っている。
ギウスが、僕の束ねた髪を顎で示した。
「結び直せ。首筋が汗で冷える」
「はい」
「レグ、拳。腫れが残ってる。冷やせ。夜までに抜けねえなら、俺の軟膏やる」
「いや、俺は——」
「やる」
言い返す隙を与えない、仕事の顔。
酒の匂いはするのに、嗅ぎ分けたら、その奥に金属の匂いがある。戦いに行く前の、油と鉄の匂いだ。
“標”班の簡易訓練は短かった。
前進と後退の号令、合図の手順。
砂地での踏み換え、斜め後退の幅、視界の重ね方。 レグは視線だけで僕を拾い、僕は呼吸で彼のタイミングを合わせる。
2人で2年間、嫌でも身体に入った動きだ。
終わるとすぐ、補給倉庫へ。
背嚢は小さく。乾燥肉と薄いビスケット。水袋は多くて2つ。火種は最小。糸・針・布。滑車紐。小型のフック。地図は折り畳みの簡易版。
僕は刀油の小瓶を最後の最後で迷って、やっぱり入れた。
パールならきっと「重い」と言う。でも、刃の手入れを怠ると、気持ちが削れる。
中庭に戻ると、パールが一人、柵にもたれて空を見ていた。
「風、変わってきた」
「なにが分かる?」
「壁の上の旗の揺れ。朝よりも、角度が浅い。上から押されてる」
言葉が面白かった。風に“押される”なんて、考えたこともなかった。
パールは横目で僕を見た。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。けど、行く」
「知ってる」
彼女は短刀の柄を2本、同時に軽く指で叩いた。カン、カン。音が2つ重なって、1つに溶ける。
昼過ぎ、訓練場の隅で“根”班の講習に混じる。
デーネは木箱の上で、落ち着いた声で話していた。
「包帯は出しっぱなしにしない。砂が入る。水袋は口を上に。寝かせない。薬瓶は色で区別、紛らわしいのは“触感”で印を付ける」
彼女の手際は見事だった。青の神力が、彼女の周囲の空気を薄い膜のように整えていく。
僕が並ぶと、彼女はふっと笑った。
「迷子にならないでね」
「“標”だからな。迷子になったら笑い話じゃ済まない」
「そういう時は笑うのよ。恐怖は連鎖するって、さっき言われたでしょう?」
言われて、僕は笑う練習をしてみた。うまくいったかは分からない。
夕刻、志願の名簿が締め切られた。
紙の端に、僕とレグの名前。
違う紙に、パールとデーネの名前。
横に各班の印。墨が乾く前に、風がページを捲ろうとして、文鎮がそれを押し留めた。
ギウスがざっと名簿を見て「上等」と短く言い、アルは人数と役割の比率を一瞬で頭に入れた顔をした。ルナーアは名前の順番を静かに眺め、何かの配置図と重ね合わせているようだった。
夜。
外灯が順に灯り、石畳の上に丸い光の島が並ぶ。兵舎の廊下を歩く靴音が重なって、やがて遠のく。
僕は武具庫の隅で、刀身を半分だけ抜き、布で油を薄く延ばした。刃が灯りを一本線で返す。その線が、紙の上の線と、どこかで繋がって見えた。
扉が小さく軋む。
レグだった。肩に大きめの布袋を担いでいる。
「替えの服、3枚」
「2枚じゃなかったのか」
「ギウスが“お前は3枚”って」
「正しい判断だな」
2人で笑って、すぐに黙る。
沈黙が怖い時と、沈黙が味方になる時がある。
今は後者だった。言葉を詰め込むと、どこかがはみ出しそうな夜だ。
兵舎に戻る前に、壁を見に行った。
白灰の巨壁は、夜になるとわずかに青く見える。天の色を吸って、内側で冷やして、また外に返しているみたいに。
見上げていると、隣にパールが立った。
「ねえ、ウルス」
「うん」
「昔、ここを“越える”って言った時、あたし、半分は本気だったけど、半分は冗談だったんだ」
「今は?」
「9割本気。残り1割は、みんなが死なないって信じる分」
それは計算の合わない割合だけど、答えは言わなかった。
風が髪を揺らして、白銀が光にほどける。僕はローブの紐を結び直し、刀の重さをもう一度だけ確かめた。
部屋に戻ると、デーネが卓上に小さな包みを置いた。
「睡眠用のハーブ。必要な人がいたら分けて」
「お前は?」
「私は緊張すると眠れるタイプ」
「強い」
「違う。疲れを翌日に持ち越すのが嫌なだけ」
そう言って、彼女は青い神力をほんの少しだけ目の下に流した。薄い冷たさが皮膚の熱を撫で、目が軽くなる。
「応急。ほんの気休め」
消灯。
寝台に横たわると、耳の奥にまだ昼間の号令の残響があった。
“帰る気で選べ”。ギウスの声。
“内側が試される”。アルの声。
“半歩、絶対に前へ出るな”。ルナーアの声。
それらが、胸の下で層になって重なり合い、呼吸と一緒に上下する。
眠りに落ちるその手前、床がほんのわずかに鳴った気がした。
夢か現か、扉の向こうで、遠い鐘の音が一度だけ。
——気のせいだ。そう思って目を閉じる。
夜の深いところで、風向きが変わった。
旗の布が、見えないところで、ほんの少し、別の方向へ押された。
2日後、僕らは線のない地図に、最初の線を引きに行く。
“ただ越える”んじゃない。
越えて、戻って、壁の内側に、線を持ち帰るために。
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