第53話:紫の拳と舞い上がる砂
耳の奥が、まだキーンと鳴っている。
砂煙が薄く漂って、光を曇らせていた。
僕は膝に手をつき、深く、浅く、また深く呼吸する。
肺の奥が焼ける。
喉は砂を飲み込んだみたいにざらついて、舌に鉄の味が残っていた。
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――負けた。
そう思った瞬間、胸の奥が静かに沈む。
悔しさは熱く尖っているはずなのに、不思議と今は冷たい水みたいに広がって、全身の火照りと混ざり合った。
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「勝者――レグ・ルースリア!」
審判の声が砂を震わせ、観客席が爆ぜた。
歓声、足踏み、どよめき、笑い声。
音が層になって押し寄せて、僕の肩を押す。
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中央で拳を突き上げたレグは、砂まみれの顔で、子どもみたいに笑っていた。
大きく息を吐いて、胸が上下するたび、紫の神力がまだ皮膚の下でくすぶっているのが見える。
あの紫は、最後の瞬間に一段、色を深くした。
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――《紫電裂破》。
耳朶の奥に残る、彼の低い声。
技名を口にした時、空気が硬くなった。
紫の光が重力を増やしたみたいに沈み、僕の青が押し込まれた。
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拳が胸板を打ち抜いた瞬間、肺が裏返って、世界が白く反転した。
立ち上がれたのは、神力を纏う身体の癖が、ぎりぎりで残っていたからだ。
けれど、あの一撃をもう一度もらっていたら、たぶん僕は立っていない。
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「ウルス! 生きてる!?」
視界の端から白銀が飛び込んでくる。
パールだ。
顔を近づけすぎて、彼女の髪に挟まれた砂が僕の頬をかすめた。
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「生きてる。喋ってるでしょ」
「でも頬が真っ赤、いや真紫! え、これ紫に殴られたから?」
「色は関係ないと思う……」
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パールの後ろから、デーネが歩いてくる。
眼鏡のレンズにアリーナの光がきらりと乗った。
「最後の三手、全部読みが当たっていたのに、強度が一段上がった瞬間に崩れた。……悔しいわね」
「僕もそう思う。あれ、何だったんだろう」
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「秘匿していた……というより、たぶん本人にも“どこまで上げられるか”の目算が立ってない。出た、って顔してたもの」
たしかに。
あの瞬間のレグの目は、少し驚いていた。
自分で驚いて、そのまま迷わず踏み込んできた。
迷いがない分、こちらの読みが生きる余地がなかった。
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「おーい、赤毛! まだ顔つぶれてねぇな!」
レグが笑いながら近づいてきて、遠慮ゼロの手で僕の手首をがしっと掴んだ。
反射で引っ張られると、胸に残った痛みがずきんと鳴る。
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「いって……加減しろよ」
「悪ぃ悪ぃ! でもよ、最高だったな!」
ぐい、と引き上げられて立ち上がる。
レグの掌は熱い。戦いの熱がまだ逃げていない。
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「次は負けないから」
僕は自然に口にしていた。
「やだ、同じこと言おうとしてた!」
パールが割って入る。
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「いや、次も俺が勝つけどな」
レグは白い歯を見せた。
「根拠は?」
デーネが射抜くような目で尋ねる。
「筋肉だ!」
「論理の死」
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くだらないやりとりに、思わず笑う。
笑うと、肺の痛みが少し和らいだ。
***
観客席からは、まだ熱い声が飛んでくる。
「ルースリア!」
「アークトもよくやった!」
名前が混ざり、拍手が重なる。
木造の観客席がきしみ、天井近くの窓から差し込む光が、舞い上がる砂を金色に染めた。
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汗と土と油の匂い。
誰かの革靴がきゅっと鳴り、誰かの歓声が掠れ、誰かの嗚咽が混じる。
たぶん、負けた側の友達だ。
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ふと、背中に冷たいものが撫でた。
――視線。
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観客席の上段、梁の陰。
黒いフードを深く被った影が、こちらを見ていた。
顔は見えない。
けれど、目だけは、光を飲み込んだ針みたいに鋭く、じっと――レグを追っている。
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瞬きをしたら、もういなかった。
残像のように瞼の裏に焼きついて、ひやりとした感覚だけが皮膚に残る。
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「ウルス?」
デーネが小声で問う。
「……いや、なんでもない」
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言いかけて飲み込む。
僕が見間違いかもしれない。
けれど、あの冷たさは、さっきまでの熱気から切り離された、別の温度だった。
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「はいはい、感傷は後!」
パールが僕の背中を叩く。
「打ち上げ行こ! 勝ったやつも負けたやつも、魚食べればだいたい元気になるから!」
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「俺、今日だけは10人前いける」
「毎日いってるじゃん」
僕が突っ込むと、レグは胸を張った。
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「今日のは“勝利の10人前”だ!」
「論理の死、再臨」
デーネがため息をつきながらも、口元はわずかに緩んでいる。
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控室へ向かう通路は、まだざわついていた。
見知らぬ先輩が肩を叩いてくる。
「よく耐えたな」
「次は勝てる」
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褒め言葉に、悔しさが少しずつ形を変えていく。
胸の奥に、固い種みたいに沈んだ。
芽が出るのは、たぶんそう遠くない。
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扉をくぐる直前、僕はもう一度だけ振り返る。
砂地の真ん中に、さっきの拳跡が丸く残っていた。
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僕の足跡とレグの足跡がそこに重なり、ぐしゃぐしゃに乱れて、最後は一つの濃い窪みになっている。
――負けの形だ。
でも、次に踏み込むための溝でもある。
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控室の中は、外より暗くて静かだ。
さっきまでの熱気が、壁の向こうで遠くなった。
木の香りと、濡れた布の匂い。
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椅子に腰を落とした途端、体のあちこちが遅れて痛みを訴えてくる。
額の汗を拭っていると、ドアがノックもなく開いた。
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顔馴染みの教師が顔を出す。
「お前たち、いい試合だった。……それと、結果の詳細は後で掲示する。騒ぎすぎるなよ」
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「はーい!」
パールが即答する。
教師が去る瞬間、廊下の向こうに――さっき観客席で見た黒い影と似た輪郭がちらりと映った。
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僕は無意識に立ち上がった。
「どうした?」
「いや――」
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扉の向こうには誰もいない。
廊下の隅に、夕方の光が三角形に落ちているだけだった。
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ベンチに戻ると、レグがタオルを頭にかぶって、珍しく黙っていた。
「疲れた?」
「……ちょっとな」
タオル越しの声は低い。
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「最後、出た」
「出た?」
「奥の、アレ。名前つけたやつ」
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「《紫電裂破》?」
レグはタオルを外し、目尻で笑った。
「そう。カッコいいだろ」
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「名前はな」
パールが即答する。
「中身はただの殴り合いの極致」
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「お前は褒めろよ!」
笑いながら、僕はあの一瞬を思い返す。
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紫が濃くなったとき、境界線の外側から、何かが覗いたような感覚。
神力の色は練度で変わる。
紫の次は赤。
さらに研ぎ澄まされれば、赤黒い淵へ――。
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デーネが静かに言う。
「……出力の制御は今のままだと危ない。癖がつく前に、やり方を整えたほうがいい」
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「じゃあ明日から練習だな! ウルス、付き合え!」
「え、明日って学校あるよ」
「夕方から!」
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「僕、宿題――」
「宿題は筋肉に任せろ!」
「任せるな」
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笑い声が木の壁に柔らかく跳ね返って、控室の空気に溶けた。
でもその奥で、さっきの冷たい視線の記憶が、簡単には溶けてくれない。
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誰だったのか。
なぜ、レグを見ていたのか。
浮かんでは沈み、沈んではまた浮かぶ問いの泡を、僕は喉の奥に押し込める。
今はまだ、声にするべきじゃない気がした。
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着替えをまとめて控室を出ると、廊下に夜の気配が降りかけていた。
窓の外、王城の灯りがいくつか先に灯って、風が冷たさを取り戻す。
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階段を降りる途中、壁に映る僕ら4人の影が揺れて重なった。
一瞬、影は5つに見えた。
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立ち止まって振り返る。
誰もいない。
……気のせいだ。
気のせい、なんだろうか。
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「ウルス! はやくー! いい魚、売り切れちゃう!」
パールの声に我に返る。
「はいはい」
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レグが肩に腕を回してくる。
「今日は俺の奢りだ!」
「その“奢り”って、王都の7割が聞いたことある嘘だよね」
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「ほんとほんと! ほら、デーネも!」
「……では高い店へ行きましょう」
「やめろ!」
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また笑う。
笑いながら、僕は廊下の端に落ちる三日月形の影を横目で見た。
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黒いフード。
揺れて、消える。
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祭りが終わる夜には、風が生まれる。
熱の残りをさらっていく風と一緒に、何かもまた、僕たちの方へ吹き寄せられている気がした。
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――強くならないと。
ほんとうに。
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負けの痛みを、種のままにしないために。
あの視線に、真正面から目を返せるように。
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僕は拳を軽く握って、開いた。
紫じゃない、まだ青い光が、掌の内側でかすかに揺れた。
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次は――ここからだ。