第32話:帰郷
1年半ぶりに、僕は村へ帰ることにした。
理由は単純で、「母さんの顔が見たくなった」からだ。学校に入ってからずっと慌ただしい日々を過ごしてきて、気づけばずいぶん長い間、家に帰っていなかった。
村の入口に足を踏み入れた瞬間、胸の奥に懐かしい匂いが広がった。乾いた砂の香りと、魚を焼く匂い。子どもの頃から嗅ぎ慣れたはずの匂いなのに、胸がぎゅっと掴まれる。
——ただいま。
そう口に出したわけじゃないのに、胸の奥で小さく呟いていた。
◇
「ウルス兄ちゃんだー!」
子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。昔は僕より背が低かった子が、今は肩に届くくらいに成長している。
「神力見せて!」「必殺技とかできんの!?」
「ひ、必殺技は……まだないかな」
苦笑いを浮かべて手を広げると、青い神力がぼんやりと灯る。
——それだけだ。派手なことは何一つできない。
子どもたちは「ふーん」とあっさり興味を失い、また遊びに戻っていった。
……なんか、すごく惨めだ。
◇
家の戸を開けると、母さんが鍋の前で腕を組んでいた。
白髪が少し増えている気がしたけど、目の鋭さは昔のままだ。
「……あんた、やっと帰ってきたんだね」
「ただいま」
僕は小さく頭を下げる。母さんは口元だけで笑って、すぐに背中を向けた。
「ご飯、冷める前に座りな」
◇
夕食は魚の干物と野菜の煮込み。懐かしい味に胸が熱くなった。
箸を進めながら、僕は学校でのことを一気に話した。入学してからの騒動、レグにタイマンを挑まれ続けていること、パールやデーネとの出会い、そして必死に神力を鍛えている日々。
母さんは黙って聞いていたけれど、僕が「もっと強くなりたい」と口にしたとき、驚いたように目を見開いた。
「……あんた、そんな顔する子じゃなかったのにね」
「え?」
「前はどこか、流されてばかりで。悔しいとか、怒ってるとか、そういう色を出す子じゃなかった。でも今の顔は……悔しさでいっぱいだ」
図星を突かれた気がして、僕は言葉に詰まった。確かに、あの頃の僕はただ「弱いまま」だった。でも今は——弱い自分にイラついて仕方がない。
◇
食事が終わると、母さんは小さな箱を持ってきた。
蓋を開けると、中には銀色のバングルが入っていた。
「これ……」
「父さんから預かってたのさ。いつか、あんたが“悔しさに耐えられなくなる時”が来たら渡せってね」
静かな声だったけど、心臓が跳ねた。
僕は震える指でそのバングルを掴む。ひんやりと冷たいのに、不思議と熱が宿る。
「……父さんが?」
「そうさ。何の意味があるのかは知らない。けど、あの人は本気でそう言ったんだよ」
母さんは少しだけ笑った。
「悔しいなら、その気持ちを燃料にしなさい。それが、あんたを一番強くする」
◇
夜が更け、布団に潜り込んでも眠れなかった。
バングルは枕元に置いた。
月明かりに照らされて、銀色の輝きがまるで僕を見つめ返しているように感じた。
——父さんは、何を見てきたんだろう。
——このバングルに、どんな意味があるんだろう。
答えはまだわからない。
けど、母の言葉とこの重みだけは、しっかりと胸に刻まれた。
◇
翌朝。
「お土産持っていきな!」
母さんは笑顔で、干物を袋いっぱいに詰めて僕に押し付けてきた。
「ま、またこんなに……」
「育ち盛りなんだろ。友達と分けな」
背中を押されるように村を出る。
袋の中で干物がガサガサと鳴って、なんだか賑やかだ。
バングルの重みと干物の重み。
どちらも僕にとって、たしかな「帰郷の証」だった。
僕は小さく息を吸い込み、学校への道を歩き出した。
——強くなる。絶対に。
***
1年半ぶりに村へ帰って、母さんから“父の形見”を受け取った僕は、妙な高揚感と、妙な不安を抱えたまま学園に戻ってきた。
腕には冷たい金属の感触。——そう、父さんが残したバングル。
母さんは真剣な顔で「お前が自分を信じられるようになったら使いなさい」と渡してくれた。
正直、まだ“信じられる”なんて自信はない。
でも、持っているだけで胸の奥が熱くなるような気がした。
学園の門をくぐると、待ち構えていたのは——。
「ウルスーッ! やっと帰ってきたか!」
声量だけでガラスを割れそうなレグの声だった。
正面からタックルされ、僕は尻もちをついた。
「ぐえっ……!」
「お前がいなくて俺の毎日がどれだけ退屈だったか! 殴り合いの練習台がいないと筋肉が泣くんだぞ!」
「僕は練習台じゃないから!」
周囲の生徒がくすくす笑っている。なんか、ちょっと恥ずかしい。
「ウルス! 帰ってきたのね!」
パールがぱたぱたと駆け寄ってくる。
いつもの元気な笑顔。けどその瞳の奥に、ほんの少しだけ安堵が見えた。……気のせいかもしれない。
「どこ行ってたのよ。寂しかったじゃない」
「ただの里帰りだよ。母さんが心配してたから」
「ふーん……まぁいいけど」
パールは腕を組んでそっぽを向いた。耳が少し赤いのは、気のせいじゃないだろう。
「おかえりなさい、ウルス」
デーネは相変わらず落ち着いた口調で眼鏡を押し上げた。
「村での暮らしはどうだった?」
「うん、懐かしかったよ。……でも、やっぱりここに戻ってきてよかった」
「そう。なら、ちゃんと勉強の遅れは取り戻してね」
「うっ……」
彼女の言葉が一番痛い。現実的すぎる。
そんな再会劇のさなか、僕の心臓はずっとバクバクしていた。
理由は一つ——バングル。袖口から見えないように、必死で左腕を押さえている。
「なぁウルス、その手どうしたんだ?」
……レグの視線がピンポイントで突き刺さる。さすが脳筋、変なところに勘が鋭い。
「えっ!? な、なにが!?」
「その腕! 怪我してるのか!? 見せろ!」
「だ、大丈夫! 何もないから!」
僕は慌てて袖を握りしめ、後ろに隠した。
けど、こういう時のレグの行動力は異常に高い。
「隠すな! 友の体調は筋肉にとっても大事なんだ!」
「筋肉にとっては関係ないだろ!」
もみ合う僕らの横で、パールが眉をひそめる。
「なによ? 何か隠してるの?」
「ち、違う! 本当に違うから!」
僕の声は裏返り、余計に怪しさが増してしまった。
やばい。完全に追い詰められている。
ここでバングルを見せるわけにはいかない。母さんとの約束だ。
でも、このままじゃ——。
「ウルス!」
突然デーネが僕の肩を叩いた。
「宿題、出してないでしょ」
「えっ」
「今日までのやつ。今すぐ私に見せなさい」
え、えぇぇ……!?
まさかの勉強ネタで救われるとは思わなかった。
その場の空気は一瞬で「宿題サボり犯ウルス」にシフトし、レグとパールの関心は完全にそっちに移った。
「やっぱり! ウルス、また忘れたんでしょ!」
「こいつ! 筋トレの時間はあるくせに勉強はサボるとは! 俺の拳で叩き込んでやる!」
……助かったのか、助かってないのか分からない。
その夜、寮のベッドでバングルを外し、僕はじっと見つめた。
銀色の光がランプに反射して、ぼんやりと部屋を照らす。
父さんは、なぜこれを僕に託したのだろう。
母さんは「信じられるようになったら」と言った。
でも僕はまだ、自分を信じきれていない。
それでも。
レグやパールやデーネと出会って、ここまで来れた。
弱い僕でも、少しずつ変わってきた。
だったら、きっと——。
「僕は……負けない」
小さな声で、誰にも聞かれないように誓った。
バングルを握りしめながら。




