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第25話:揺れる日常

 眠れなかった。


 目を閉じるたび、東の森で見たものが、瞼の裏に勝手に再生される。

 焦げた匂い。湿った土に押し込まれた黒い棒。周囲を踏み荒らす複数の足跡——それなのに、どの足取りにも迷いがない。まるで、誰かが道順を知っていたみたいに。


 考えたって答えは出ない。

 けれど「何も知らないまま教室の席に座っている自分」が、ひどく薄っぺらく思えて、布団の中で何度も寝返りを打った。


 窓の外が白み始めた頃、やっと目を閉じられた気がした。けれど眠りは浅く、鐘の音で心臓だけが先に起きる。


 ——今日も“いつも通り”がやって来る。

 それが、少しだけ怖かった。



 朝。校門までの道は、どこまでも平和だ。


 パン屋の窓から甘い匂い。露店の兄さんが山菜の泥を落として、手早く束ねていく。見張り台の兵士は欠伸を噛み殺しつつ槍の位置を直し、通りの角では小さな子が鳩を数えている。

 「今、何羽?」と聞くと、指を全部使って眉まで動員しながら「たぶん12!」と誇らしげに答えた。いい加減さが愛おしい。


 その“普通”を胸の奥で何度も撫でながら、僕は学園の門をくぐった。



 中庭は、いつも通りうるさい。

 パールは今日も中心にいる。男子が2人、いや3人? 順番待ちみたいに話しかけては撃沈していく。「君、声かける順番券とか配ってる?」と聞いたら、「配ってないけど、整理整頓は大事」と謎の管理宣言をされた。


 レグは——相変わらずレグだ。

 「先生、チョーク落としましたよ!」と教室前の廊下で全力疾走し、勢いのまま職員室へチョークを返却。戻ってきたら、握っていたのはなぜかリンゴだった。「え? 先生が“ありがとう。これでいいよ”って」。善良さのベクトルが時々おかしい。


 デーネはベンチで本。

 その周りに、さりげなく男子が2人、距離を測りながら座っている。1人は咳払いの頻度が3分に1回、もう1人は本を逆さまに持っている。気まずさの実験場か。デーネは気づかないふりで、ページを丁寧にめくった。


「ウルス」

 そのデーネが顔を上げ、眼鏡の奥で僕を射抜く。


「昨日の件、頭から離れていないでしょう」

「……うん」

「結論は1つ。今の私たちにできることは限られている。だから“できること”を積み上げる。ゲーリュ団に入る準備、ね」


 淡々と、迷いなく。

 その声に胸のどこかが救われる。僕だけが焦っているわけじゃない、とやっと思えた。


「まず、目の前の授業を落とさないこと。それから——」

「それから?」

「神力制御。あなた、まだ“力の置き場”が曖昧」

 図星だった。僕の青は、湯気みたいに漏れる。

「今日は“手首だけ青くする”練習を」

「手首、だけ」

「ええ。手首は呼吸と歩幅に同期しやすい。青を“置く場所”としては扱いやすいの」

「……わかった」

 小さく頷くと、胸の中でひとつ灯がともる。小さいけど、確かな灯だ。



 1限目は歴史。


 先生は相変わらず快調だ。棒で地図をたたきながら、年号を畳み掛けてくる。

「建国から5年で第一次補強工事! 12年で外縁兵舎が増設! 37年目に南端常駐が——」

 数字が踊りすぎて目が回りそうになったところで、隣の席が小突かれた。パールが僕の肘をつんつん。


 机の上に、デーネ直伝の“語呂”がすべり込む。

 ——「ミナ見張りで南端37」

 ——「外兵しゃっきり12」

 ……くだらない。けれど、覚える。悔しい。

 先生のチョークが折れて3つに飛び、クラスの視線が一斉に床へ落ちる。僕の頭にも「3」の印が刻まれた。数字は刃物。覚えないと切られる。



 昼。


 食堂の列は長い。

 今日の主菜は肉団子の酸っぱいやつ。パールは皿の上の緑の葉っぱ(装飾)を全回収して自分の皿に移植。「野菜は正義」。

 レグは食券機に小銭を入れて、出てきた紙を読まずに「勝負!」と叫び、隣の少年と謎の腕相撲を始める。「それ、なに勝負?」と聞いたら「わからん。でも勝った!」と満面の笑みで戻ってきた。紙は落としてきた。——拾いに行ったら“味噌汁引換券”。彼の運は謎に配布される。


 席に着くと、パールが小声で囁く。

「さっき、東の森の話してる上級生がいた。『最近、外の見張りが変わった』って」

 心臓が一瞬強く打つ。

 するとデーネがすぐに肩を叩いた。

「食べる時は食べる。情報は飲み込まない。消化不良を起こすから」

 言葉の栄養配分まで考えるの、ずるい。けれど、助かる。



 午後。神力制御。


 深く吸って、浅く吐く。先生の号令に合わせ、ひとりひとりが光を立ち上げる。

 前列のレグは、やっぱりうまい。紫が薄く厚く、自由に呼吸をする。

 僕の青は、まだ震える。指先が痺れる。肩に余計な力が入る。


 ——手首だけ青くする。

 デーネの言葉を思い出す。


 目を閉じて、手首の皮膚の下、脈が跳ねるすぐそばに“置く”。

 置いて、ほどく。

 置いて、ほどく。


 視界の端で、青い糸が一本、細く長く、手首から指先へ伸びていくイメージを作る。

 糸は風に弱い。だから息を乱さない。1、2、3……4でわずかに吐く。


 ——もう少し手前。

 頭の中にデーネの声がする。自分で作った幻聴なのに、驚くほどタイムリーだ。


 手首に灯を“乗せ直す”。

 青が、ピタリとそこに座った。


 先生が列の間を通り、僕の前で足を止める。

「アークト。そのまま、10拍」

 喉が鳴る。数える。1、2、3——


 9で、青がわずかに揺れた。

 10で、まだそこにいた。


 息を吐く。世界が一瞬だけ静かになった気がした。

「……よし。成長しているな」

 先生の短い言葉が、胸に重く沈んだ。嬉しい重みだ。


 前の席でレグが振り向き、ひそひそ声で言う。

「今の、かっこよかったぞ。光が、こう……“すっと”」

 語彙の限りで褒めてくれるの、ありがたい。ちょっと笑ってしまった。



 放課後。


 訓練場は、夕焼けで赤く染まっている。

 砂の匂い。木剣の乾いた音。遠くで誰かが笑い、誰かが悔しがる。それら全部が、暮れていく空に吸われていく。


 僕は隅で、さっきの“手首だけ”を繰り返した。

 10拍を3回。間に歩幅を合わせる練習を2回。

 青がふらついたら、足の親指を地面に軽く押し付け、体の軸を戻す。

 うまくいったら、数字を1つだけ胸の中に置いておく。——「今のは7点」。

 うまくいかなかったら、砂を1つだけ指で弾く。——「次は9点」。


 そうやって、自分に静かな採点をつけていく。

 できるだけ、誰にも聞こえない声で。


「ウルス」

 背中からパール。

「さっきの、よかったよ。息の“合い方”が昨日までと違う」

「本当?」

「うん。最初は波みたいに“ざわっ”だったのが、今は“すっ”。……伝わる?」

「なんとなく」

 パールの説明は、時々擬音が多い。でも不思議と体には届く。

「それと、周りの音の拾い方。自分の音を小さくしたい時は、周りを“1つ”だけ大きく聞くといいよ」

「1つだけ?」

「風、とか。靴のきしみ、とか。全部じゃなくて“ひとつ”。そしたら、勝手に自分の音が薄くなる」

 彼女の探知のセンスは、やっぱりすごい。

「参考にする」

「参考にしなさい」

 言い方は偉そうなのに、目は嬉しそうだった。


 そこへ、レグ。

「今日の俺、転ばなかった!」

「すばらしい」

「転ばないコツを掴んだ!」

「何?」

「走らない」

「それは転ばない」

 3人で笑った。笑えるうちは、大丈夫だ。



 夜。


 寮の机に、紙を1枚置く。

 今日できたこと、できなかったことを、短い言葉で並べる。

 ——手首10拍×3。

 ——歩幅合わせ2回成功。

 ——レグ、走らない。

 最後の行は、どうしても書いておきたかったので、書いた。


 窓を開けると、夜風がカーテンを撫でた。

 星が多い夜だ。昔、母が言った「星は神の目」という言葉が、今は少し違って聞こえる。


 もし、その物語すら作り物だったとしても。

 僕は、僕の目で確かめる。


 紙の余白に、3つの短い誓いを書く。


 ——強くなる。

 ——仲間を守る。

——真実を見る。


 文字が震えた。手が震えているのだと気づいて、深く息を吸う。

 1、2、3、4。手首に青を置く。

 静かに灯り、静かに座る青い点。


 小さい。

 けれど、確かな灯。


 それが今の僕の全部で、そして、はじまりだ。



 翌日から、同じことを繰り返した。


 朝は手首10拍を2回。授業前に1回。放課後に3回。

 青は日ごとに揺れが小さくなり、指先で小さな“灯”を作れるようになる。

 パールは「その灯、かわいい」と笑って、僕の呼吸が乱れそうになるのを、視線だけで止めてくれる。

 デーネは「数値化するなら安定度は前週比で約20%向上」と言って、僕にだけ分かる誇らしさをくれる。

 レグは「転ばない走法」を近所の子どもに教えて感謝され、なぜか僕まで菓子をもらった。巻き添えの徳。


 日常は続く。

 でも、その真ん中に“小さな灯”がひとつ、確かに座るようになった。


 東の森で見た黒い棒も、血の染みも、忘れない。

 忘れないまま、僕は今日も“いつも通り”を生きる。


 いつか、必ず外に出るために。

 ゲーリュ団に入って、外で、自分の目で見るために。


 その時、僕の青はもっと静かで、もっと強い灯になっている。

 そう信じられるくらいには、今の僕は、昨日の僕より少しだけ前を見ている。


 1歩だけ。

 でも、確かな1歩だ。

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