第184話:記録庫
朝になっても、この国の空は見えない。
でも、宿舎の廊下にはちゃんと朝っぽい空気があった。
パンみたいな匂いと、人が起き始めるざわざわ。
「ウルスー!」
部屋の扉が、ドンドン叩かれる。
「起きてる!? 死んでない!?」
「人の朝一発目に聞く質問じゃないよそれ」
ノウが布団の中で、枕を頭に乗せたままぼそっと言う。
「……声で目覚ましとか、一番タチ悪いタイプだな」
「ノウ、意外と朝弱いんだね」
「夜の方が静かだからな。考え事は夜にやる」
ちょっと分かる。
扉を開けると、予想通りの顔ぶれが揃っていた。
パール、デーネ、レグ、ライネル。
「おはよ」
「おはよー。ね、ノウとケンカしてない?」
「寝起きにその確認やめて」
デーネが、僕とノウを交互に見て、安心したように頷く。
「うん、大丈夫そう。二人ともちゃんと疲れた顔してる」
「褒められてる気がしない」
「それだけ緊張してるってことだよ」
レグがぐっと拳を握った。
「今日だな、記録庫」
「今日だね……」
口に出した途端、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
父さんが見てたかもしれない場所。
サイク病の数字がぎっしり詰まってる場所。
「ウルス」
パールがぐっと近づいてくる。
「今日の任務、もう一回整理しとこ」
「任務?」
「ウルスとデーネが中のことを見てくる」
指を一本立てる。
「レグとライネルとノウが、外のこと見とく。何かあったらすぐ気づけるように」
もう一本。
「うちが、帰ってきた二人に何か食べさせる」
「最後の重要度が謎に高い」
でも、なんかその言い方に救われた。
僕一人で記録庫に潜るんじゃない。デーネがいて。グラフさんがいて。扉の外には、このメンバーがいる。
「……うん。行ってくる」
バングルをきゅっと握り直す。
ノウが短く言った。
「帰ってきてから、うるさく喋っていいからな」
「最初からそのつもりだよ」
それで、みんなで笑った。
怖いけど、ちゃんと笑えた。
その状態で、光殿へ向かう。
ーーーーーー
光殿の前に着くと、すでにグラフさんが待っていた。
白衣の裾を揺らしながら、光の塔を見上げている。
朝の光は、昨日より少し柔らかい気がした。
「来たか」
グラフさんの視線が、真っ先に僕とデーネに向かう。
デーネはノートとペンを抱きしめていて、今にも走り出しそうな顔をしていた。
「……やる気は十分のようだな」
「はい!」
デーネは即答する。
僕も、少し遅れて頷いた。
「ウルス・アークトです。今日、記録庫を見させてもらいます」
「堅いな」
グラフさんがわずかに口元を緩めた。
「緊張してる時は、無理に賢そうな言葉を選ばなくていい」
そこで、光殿の扉が開いた。
サーディさんが、いつもの疲れた顔で立っている。
でも、目だけはよく眠れてるような光をしていた。
「約束通りだ」
こっちを見て小さく頷く。
「グラフ・ニード。お前と、デーネ・ボライオネア。ウルス・アークト。三人に記録庫の限定閲覧を認める」
「はい」
デーネの返事が一番大きかった。
パールが「がんばれー!」って手を振ってくる。
サーディさんは、僕らの後ろのメンバーにも視線を向けた。
「外に残る者たち。外の空気から見える変化があれば、あとで必ず聞かせてくれ」
「任せな」
レグが笑う。
ノウとライネルも静かに頷いた。
ジルとロゼルは、こっちに親指を立てる。
その全部を背中に受けて、僕たちは光殿の中に入った。
ーーーーーー
調整階で別れて、さらに上でも下でもない中腹へ。
光の塔の腹にあたるところを、ぐるぐると螺旋通路で回り込んでいく。
途中で、さっきの“ひかちゅう”と似たような光の線が、壁の中を走っているのが見えた。
「ここから先が、記録庫フロア」
グラフさんが低く言う。
「正式名称は?」
「光殿総合記録保全区画」
サーディさんが答える。
「略して?」
「……特に略していない」
「略そうよ」
デーネが珍しく食いついた。
「長いとノートに書くスペース取るから」
「理由が実務的だな」
サーディさんが少しだけ肩をすくめる。
「好きに呼べ。ただし中では静かにしろ。記録庫の紙は、怒らせるとすぐ破れる」
「紙のせいなんだそれ」
そんなやり取りをしているうちに、重そうな扉の前に着いた。
扉には、細かい文字と数字が刻まれている。
日付。
分類番号。
「保全」「禁閲」「要許可」みたいな言葉。
サーディさんが鍵を差し込み、ゆっくり回した。
カチ、カチ、と何度も内部の錠が外れていく音がする。
「入れ」
扉が静かに開いた。
中は――想像以上に、静かだった。
音がないわけじゃない。
紙とインクの匂いの中で、どこか遠くで光が流れる細い音だけがしている。
高い天井。
ぐるりと壁を埋める棚。
棚から棚へ伸びる、光の細い線。
それはまるで、光の塔の中に、小さな紙の塔がもう一つ立っているみたいだった。
「……」
デーネが、完全に言葉を失っている。
目がきらきらしすぎて、光殿の照明より眩しい。
「これが、光殿記録庫」
グラフさんが静かに言う。
「サイク病の発生記録。患者の症状。光量の変化。無音の時間の回数。人工太陽の調整履歴。全部、ここにある」
「全部……」
その全部の重さが、空気ごと押し寄せてきた。
サーディさんが棚のひとつに手を置く。
「ルールを言う」
いつもより、声が少しだけ硬い。
「記録の持ち出しは禁止。閲覧はこの部屋の中だけだ」
「はい」
「書き写しは許可する。ただし、“誰が読んでも意味が変わらないように書くこと”。意図的な改変は、ここでは重罪だ」
「……」
デーネがペンを握り直した。
その横顔を見て、グラフさんがひと言だけ添える。
「分からないところは分からないと書け。分かったふりをするな」
「はい」
「それから」
サーディさんの視線が、僕に向く。
「ウルス・アークト。お前には、ここで父親の名前を見ることになるかもしれん」
「……」
喉がいきなり渇いた気がした。
「覚悟はいいか、とは聞かない。覚悟ができるまで待つ時間は、この国にはもうないからな」
「ひどい言い方」
自然と口から出た。
「でも、分かりました」
バングルが、袖の下で少しだけ冷たくなる。
父さんがここで何を見て、何を書いていったのか。
それを避けて通るわけにはいかない。
「案内する」
サーディさんが歩き出す。
棚と棚の間を通るたびに、背の高さが自分より高い壁に囲まれてるみたいな感覚になった。
“サイク病関連記録”と書かれた札の棚。
“光量変動記録”の棚。
“無音の時間運用報告”の棚。
サーディさんが立ち止まったのは、その真ん中あたりだった。
「まずは、ここだ」
差し示した札には、こう書かれていた。
――【サイク病発生初期報告集】
グラフさんが小さく息を吸う。
「俺が最初に“ただの疲労じゃない”と言い張った時の記録だ」
「じゃあ、グラフさんの字がいっぱいある?」
「ある。見たくないくらいにな」
それでも、彼は自分で一冊を抜き出した。
分厚い束。
表紙には、淡い青い線で塔の絵が描いてある。
その上から何重にも、日付と整理番号が書き足されていた。
「開け」
促されて、僕はその束を机の上に置く。
ページをめくると、最初に目に飛び込んできたのは、数字じゃなかった。
――『妙だ』
という、一行。
そこから始まる文章は、グラフの字だった。
細かくて読みやすいのに、ところどころインクが滲んでいる。
『一年ほど前より、診療場に「疲れが取れない」「嬉しいと感じなくなった」という訴えが増加。
通常の過労、あるいは心理的要因として処理してきたが、ここ数ヶ月で共通点が見え始めた』
僕は、その下を追っていく。
『患者の多くが、「仕事に行こうとすると足が重くなる」と表現する。身体的検査では大きな異常なし。しかし、“目”に光がない。喜びの反応が薄い。「嬉しいはずなのに、嬉しくない」と言う』
デーネが、横で黙々と書き写していく。
数字の表もある。
名前は伏せてあるけど、年齢、性別、職種、居住層、発症時期。
「ここから、症状の分類が始まる」
グラフさんがページをめくる。
『サイク病(仮称)――名称は、患者らが口にした「回っているはずなのに、自分だけ止まっている感じ」に由来』
「サイク……」
口の中で繰り返す。
「回転、循環、周期。そういう意味の言葉だ」
デーネが補足した。
「“世界は動いてるのに、自分だけ止まる”感覚。……嫌な名前の付け方としては正解」
「嫌な正解だな」
グラフさんが苦い顔をする。
「名前をつけるのは、治療への第一歩だと思ってやったが……」
「でも名前がないと、“ただの怠け”で終わってたかもしれない」
僕が言うと、グラフさんは意外そうに僕を見た。
「クロカ王国では、どうだった」
「壁の中の人は、“怠け”って言葉をよく使います。動けない人を見た時に」
「……そうか」
グラフさんは短く目を伏せた。
「ここでも、最初はそうだった。“やる気の問題だ”“甘えている”と。だからこそ、名前をつけて、“ただの性格”じゃないって刻みつけたかった」
そう言って、彼は別のページを開いた。
そこには、人数のグラフが描かれていた。
月ごとに、サイク病と記録された患者数。
右に行くほど、線がじりじりと上がっていく。
「増え方が……」
デーネが眉を寄せる。
「綺麗に“数字の線”してない。ところどころで、妙に急に増えたり、増え方が鈍くなったりしてる」
「その“急なところ”に印をつけてある」
グラフが示した箇所には、小さく丸印と日付。
そこには、小さくメモが書いてあった。
『この月より、無音の時間が増加』
『この週より、光量を一段階低下』
『この時期、地上からの移住者増加』
「……色々、重なりすぎてる」
僕は呟く。
「全部が原因ってわけじゃないだろうけど、全部が土にはなってそう」
「土?」
「サイク病って、そこに種があれば芽が出るみたいな病気かもしれないって」
自分でも言いながら整理する。
「疲れとか、不安とか、孤立とか。そういう種が、前から人の中にあって。そこに無音の時間とか、光の揺れとか、街の変化とかが、同時に降ってきたら……」
芽が出やすくなる。
広がりやすくなる。
「……巻き込まれ違和感係」
デーネがぼそっと言った。
「今の、めちゃくちゃいい比喩」
「その役職名、正式にやめません?」
でも、グラフさんも静かに頷いていた。
「病は、いつだって一つの原因なんかじゃない。だから医師は、一本だけを指さすことを怖がる。……だが、指さなければ、誰も動かない」
グラフさんの視線が、そのグラフの一番右端に移る。
そこには、赤いインクで書き足された数字があった。
『無音増加後の半年で、患者数二倍』
「上は、この数字を見て、“無音のおかげで被害が抑えられている”と言った」
グラフさんの声が低くなる。
「“本来なら四倍になっていたはずだ”とな」
「根拠は?」
デーネが即座に聞く。
「なかった」
グラフさんは肩をすくめた。
「ただ、何かしていると言いたかっただけだ。何もしていないと、怒られるからな」
その瞬間、ページの端に、別の筆跡が混じっているのが目に入った。
グラフさんの字より、少し荒っぽい。
でも、どこか整っている字。
そこには、こう書かれていた。
『“何かしている”ことで、悪くなっている可能性は考えたか?』
その下に、小さくサイン。
――【R.A.】
バングルが、ぞくりと冷たくなった。
「……グラフさん」
指で、そのサインを指す。
「これ、“レオン・アークト”ですか」
「ああ」
グラフさんは、少しだけ懐かしそうな顔になる。
「サイク病がまだ名前もなかった頃、光殿に顔を出しては、記録の端っこにちょこちょこ噛みついていた男だ」
「噛みつくって」
「“何かしていることで悪化しているかもしれない”。
“何もしていない状態の記録も残しておけ”。
“光の揺れと感情の揺れを、同じ線に乗せてみろ”」
グラフさんは、ページをめくりながら、いくつもの【R.A.】を指さしていく。
患者の一覧の端に書かれたメモ。
『なぜ下層の患者は、光量が少ないのに発症している?』
『無音の時間を増やす前と後で、“怒りの発作”の記録に差はないか』
『星の歴史に、“似たような静寂”はなかったか。宗教儀式、戦時中の「灯火管制」など』
どれも、医師の記録とは少し違う角度からの疑問だ。
「父さん……」
息が詰まりそうになった。
ここにいる。
父さんがここにいて、この紙に触って、インクを乗せていった。
その実感が、急に胸を掴んだ。
「ウルス」
デーネがそっと僕の袖をつまむ。
「大丈夫?」
「……うん」
嘘じゃない。
苦しいけど、ちゃんと息はできる。
「父さん、やっぱり“何かしてるフリ”嫌いだったみたいだね」
「だろうな」
グラフさんが鼻で笑う。
「“この星のためにならないなら、何もしない方がマシだ”って顔で、いつも光殿を見ていた」
「そのうち、その顔ごと嫌われた」
サーディさんが、少し離れた棚から別の束を持ってきた。
「光量変動記録の方にも、あいつの落書きは残っている」
落書きという言葉の割に、サーディさんの声は柔らかかった。
新しい束を机に置く。
今度の表紙には、ぎっしり数字が並んでいた。
日付。
各層の光量配分。
無音の時間の長さ。
デーネが、綺麗な顔で引きつる。
「……これは、ちょっと心折れるタイプのページ数」
「数字嫌い?」
「嫌いじゃないけど、整理されてない数字は嫌い」
と、その時だった。
ページの端っこに、見覚えのある印が目に入った。
丸に星みたいな、簡単な記号。
「これ……」
バングルの模様と、どこか似てる。
指でなぞると、その下に小さく文字があった。
『光量変動とサイク病発症率の重ね書き。現時点の仮説:“光”そのものより、“光を止めたり流したりする人間側の都合”が、心を削っている』
そして、その横にさらに小さい字で追記がある。
『星そのものの病は、“資源の枯渇”でも“気候”でもないかもしれない。“生き物の心が、光の揺れについていけなくなる病”』
「……」
ページの上で、時間が止まった気がした。
グラフさんも、サーディさんも、しばらく黙っていた。
最初に声を出したのは、デーネだった。
「……星の病、ってそういう意味でも使ってたの」
かすれた声。
「この星の岩とか水とかじゃなくて、“ここで生きてる人たちの心”の方を、病だって言ってたんだ……」
「レオンは、よくそう言っていた」
サーディさんが静かに頷く。
「“星は、そこに住む者たちの心の総和だ”とな。光をいじる側が、その心をどう扱ってきたかが、星の寿命を決める、とも」
だから、光殿を嫌ってたのか。
だから、光殿に入り浸ってたのか。
どっちも、父さんっぽい。
「でもさ」
震えそうになる声を無理やり前に出す。
「その“星の病”を治すために、父さんはここにいたんだよね」
グラフさんが、少し目を見開いた。
「そうだ」
「でも、サイク病は増えた」
「そうだな」
「無音の時間も増えた」
「ああ」
「父さんは、ここを離れた」
バングルが、手首の上でじわっと熱を帯びる。
「だから――少なくとも、父さん一人ではこの病は治せなかったってことだ」
言葉にしてしまうと、思ってた以上に苦かった。
でも、そこから続けないと、きっと父さんは怒る。
「だったら、今度は僕らの番だよね」
デーネが顔を上げた。
目の奥に、悔しさと、何か別の光が混ざっている。
「レオン・アークト一人で分からなかったことを、グラフさんと、サーディさんと、この国の人たちと、ウルスと、あたしたちで見に行く番だよね」
「……そうだな」
グラフさんの声が、少しだけ低く震えた。
「だから、こうして記録を開いた。“今さら外の子どもに頼るのか”と自分で自分に呆れながらな」
サーディさんも、肩を落としながら笑った。
「俺たちは、ずっとこの棚の前で同じ議論を繰り返してきた。“光を減らすべきか”“無音を増やすべきか”“他に手はないのか”」
棚を軽く叩く。
「この中身を、外から来た目で、一度ぐちゃぐちゃにしてくれ」
その言い方は、光殿議員というより、ただの一人の大人の声だった。
「……やります」
僕は、はっきりと言った。
「ぐちゃぐちゃにするかどうかは分からないけど、少なくとも……今のままが一番いいって顔はしません」
デーネが、息を吸う。
「じゃあ、ここからは分類タイムね」
スイッチが入った顔になった。
「サイク病初期の記録、光量の変化、無音の時間の運用。これ、まずは同じ日付のところを全部並べて見比べて欲しい……できるか?」
グラフさんがどこか心配そうに聞く。
「できます」
デーネは即答した。
「図書館の棚で鍛えたカオスをカオスのまま眺めるスキル舐めないでください」
「そんなスキル名なんだ」
僕も、自然と笑いがこぼれた。
「僕は、“違和感リスト作る係”やるよ」
「おう、巻き込まれ違和感係」
気づけば、グラフさんまでその呼び方をしていた。
「それを見ながら、医者として変だと思ったところを書き足そう」
「政治側から見る“変だ”もある」
サーディさんが、別の束を持ってくる。
「議会の議事録だ。“無音を増やすべき”と言い出した時の会話も、ここにある」
「それも見るの?」
ページの厚みを見て、思わず顔をしかめる。
「全部は無理だろう」
サーディさんが苦笑した。
「“これは何かを隠している臭いがする”と昔のレオンが赤線引いていった箇所がある。そこからでいい」
「父さん……仕事増やしてる……」
でも、その赤線は、今この瞬間、めちゃくちゃありがたい。
ーーーーーー
それから、時間の感覚があやふやになるくらい、紙と数字に囲まれた。
“無音の時間の回数”と、“サイク病と診断された件数”を並べて見る。
増え方のタイミングが、微妙にズレている。
“無音を増やしたから減った”というより、“無音を増やしても増え続けた”。
“光量を減らした月”と、“下層の不満の声が増えた月”の議事録を見る。
下層の代表が「暗くて危ない」と訴えた記録。
それを、「病のため」と押し切った光殿。
ページの端っこには、【R.A.】の文字。
『“病のため”という言葉は便利だ。だが、“病のため”と言いながら心を削る政策は、病そのものではないか』
「……皮肉がうまいな」
サーディさんが、苦笑とも溜息ともつかない声を出した。
「当時の俺は、これを読んで腹を立てた。“外から来たくせに、勝手なことを言うな”とな」
「今は?」
僕が聞くと、サーディさんは長く息を吐いた。
「今は……“正しかったのはどっちだろうな”としか言えん」
デーネが、ノートに線を引く。
「“病のため”って言葉が出てくるたびに、その横に“誰の病?何の病?”って書き足してる」
「いいなそれ」
僕も真似して、別のページに書く。
――サイク病のため?星のため?光殿のため?
書きながら、自分の胸にも問い返していた。
クロカ王国でも、そうだった。
“神のため”“ゲーリュ団のため”って言葉が、どれだけ人の口を塞いできたか。
「ウルス」
デーネが、急に声を潜めた。
「これ、見て」
差し出されたページには、サイク病の患者一覧が並んでいた。
名前の左側に、年齢と職業。
右側に、症状の始まり。
その中で、一つだけ、線が不自然に曲がっていた。
本来そこにあったはずの文字が、削られた跡。
上から別のインクで書き直されている。
「……」
グラフさんの目が細くなる。
「これは、削除だな」
「ですよね」
デーネが軽く頷く。
「インクの色が違う。消した上から書き直したやつ」
「何が書いてあったのか、推測はできるか」
グラフさんの問いに、デーネはペン先で、ページの端っこを指した。
「ここ。発症前に、地上へ出た経験あり」
「……」
そこだけ、インクの濃さが違う。
前の文字の形をうっすらと残している。
「たぶん、元の記録は、地上から戻ってきてから発症って書いてあった」
「それを、普通に働いていたが発症に変えた」
僕が言うと、グラフさんは唇をきゅっと噛んだ。
「地上へ出た者など、私の記憶ではいないはずだ」
「地上へ行った者の線を消したってこと?」
ページの一点に、視線が集まる。
「……ノウがいたら、ここで“は?”って言ってる」
思わず口から出た。
デーネがくすっと笑う。
「ね。怒り担当だったら、絶対ここで赤線引く」
「じゃあ代わりに」
僕は、自分のノートに赤い線を引いた。
――地上=誰も行っていない、と決めつけた線
グラフさんがそれを見て、小さく頷いた。
「いいな。それを見た時、“は?”って思った記憶も一緒に残る」
「頭の中で怒るだけじゃ、すぐ薄くなるから」
デーネが横から口を挟む。
「ノートに怒り書いとくの、大事だよ。将来、誰かと共有できる」
未来の“誰か”に「ここ、おかしいよね」って渡せるように。
その“誰か”は、この国の人かもしれないし、別の大陸の人かもしれない。
あるいは――この星のどこかで記録を読む、まだ見ぬネア人かもしれない。
ーーーーーー
どれくらい時間が経ったのか分からない頃。
サイク病初期の束と、光量の束と、議事録の束が、机の上で山になっていた。
「……情報の山で遭難しそう」
デーネが、肩を回しながらぼそっと言う。
「でも、だいたい整理はできたわ」
「どんな感じ?」
僕が聞くと、デーネはペン先で机の上をなぞった。
「① サイク病は、“光を浴びすぎたから”だけじゃない。② 無音の時間は、“少なくとも決定的な治療にはなってない”。③ 記録のどこかで、“見たくない線”を消してる人がいる」④ある時期を境に産まれた人達が、サイク病を発症している」
ふむふむ……これはデーネに任せっぱなしの方がいいな。
「そしてここに、まだ名前のない“何か”がある」
そう言うと、デーネは地下都市の地図の一部を丸で囲った。
その丸をじっと見る。
「ウルス?この地下都市の中で、何かが揺れてるって言ってたよね」
無音の時間の前後に、僕だけが聞いたあの音。
調整階で感じた、足元からの揺れ。
「うん……多分この地下都市よりももっと地下からの揺れのように感じた」
「それが、“光の揺れ”と“心の揺れ”を、一緒に増幅させてるんじゃないかって思って」
デーネの言葉に、バングルを握る。
中から、微かな震えが返ってきた。
父さんが“揺れ”って言葉にこだわってた理由が、少しだけ分かる気がする。
「……問題は、その揺れがどこから来てるか、だな」
グラフさんが低く言う。
「光の塔か、無音の時間か、人工太陽か、それとも――」
「これより地下だと人工山だな」
サーディさんが、残りの棚の方を見た。
さっきまで視界に入ってなかった、一番奥の列。
“古代構造物関連記録”と書かれた札。
その下に、ひときわ分厚い箱が置かれている。
箱の側面には、小さく手書きの文字。
――【アヌン地下人工山・基礎部調査記録】
――【閲覧制限:チャンタルホーク元騎士団長レオン・アークト】
バングルが、はっきりと熱くなった。
「……サーディ」
グラフさんが、少し低い声で呼ぶ。
「その箱の鍵は」
「俺は持っていない」
サーディさんは、正直に言った。
「今の光殿代表の誰も、持っていないはずだ」
「はず?」
「鍵は、レオンが――」
そこで、一瞬言葉を切ってから続ける。
「レオンが最後に持っていた。その後、レオン共々鍵は行方不明だ」
行方不明。
胸の中で、何かがごつんとぶつかった。
「鍵穴自体、封印されている」
サーディさんが箱の正面を示す。
そこには、古い錠前と、その上から打ち付けられた金属板。
板には、これまた小さな文字。
――【星の安定を乱す恐れあり】
「……」
デーネが、うっすらと顔をしかめた。
「この文言、嫌い」
「俺も嫌いだ」
グラフさんが即答した。
「星の安定を乱す恐れがあるなら尚更、中身を知らなきゃいけないはずだろう」
僕は、金属板にそっと触れた。
冷たい。
でも、その奥から、微かな震えが伝わってくる気がした。
『光は上から降りてくる。だが、下から上がってくることもある』
ノウの声が、頭の中に浮かぶ。
……下だ。
「サイク病の記録も、光量の記録も、“この箱の外側”の話だ」
サーディさんが、静かに言う。
「人工山の基礎部に何があるか――そこだけが、まだ“線の外”にある」
「父さんは、この箱の中を見た?」
自分で聞きながら、答えはもう分かっていた。
グラフさんが、遠くを見る目で頷く。
「いや、鍵は持っていたが鍵穴が封印されていたからな。レオンにも開けることが出来なかった。だから実際に人工山へ何度も足を運んでいた。“下の方の揺れが気になる”と。だが、俺たちに鍵は渡されなかった」
「渡されなかったのか、渡せなかったのか」
デーネがぽつっと言う。
「どっちにしてもさ、“星の安定を乱す”って言葉を使って、ここを封じた人がいる。その人は、“安定している今”が正しいって、本気で思ってたのかな」
サーディさんは、すぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、ゆっくり口を開く。
「少なくとも、その時にここにいた俺は、“そう思い込もうとした人間の一人だ”」
自分で自分を刺すみたいな声だった。
「だから、今、お前たちをここまで連れてきている。あの時の俺ができなかったことを、“今の俺”にさせるためにな」
箱の前に、三人で立つ。
グラフ。
サーディ。
僕。
デーネは一歩引いたところで、ノートを抱きしめながら見ている。
「鍵はない。封印もある」
サーディさんが言う。
「だが、“この箱がここにあるという事実”まで、隠されているわけではない。今日は、それを確認しただけだ」
そう言って、箱にそっと手を置いた。
「サイク病の記録も、光の記録も、“この箱の外側”で起きていることを教えてくれた。次は、“箱の中身に近づくための線”を、それぞれが持ち帰る番だ」
グラフさんが束を閉じる。
「……ウルス」
「はい」
「お前の父親は、ここで諦めなかった。揺れの記録を集め続けた。調整階、地上、地下、どこにいても」
バングルが、じんわりと温かくなった。
「なら、お前も諦めるな。鍵がなくても、“箱の外側の線”をとことん追え」
「……はい」
父さんの代わりに箱を開ける、なんて大きなことは言えない。
でも。
父さんの続きの線を、一本でも多く見つけることなら、きっとできる。
「今日は、ここまでだ」
サーディさんが言う。
「無音の時間が来る前に、一度外に出ろ。紙にかじりついた頭で見る静寂は、本当に何も見えなくなる」
「はい」
デーネが名残惜しそうに束に手を置いてから、離した。
僕も、最後に一度だけ箱を振り返る。
――【チャンタルホーク元騎士団長レオン・アークト】
箱の角に、小さく刻まれた父さんの名前が、光の線に照らされていた。
ちゃんと見た。
今日のところは、それで精一杯だ。
ーーーーーー
記録庫を出ると、光殿の廊下の光が、やけに眩しく感じた。
階段を下りきる前に、廊下の向こうから走ってくる足音が聞こえる。
「ウルスー!!」
パールだった。
全力で走ってきて、勢いのまま僕に抱きついてくる。
「ちょ、苦しい苦しい!」
「生きてる!? 頭割れてない!? 字の海で溺れてない!?」
「質問の種類がひどい!」
でも、抱きつかれた瞬間に、記録庫の冷たい空気が一気に吹き飛んだ。
後ろから、レグとノウとライネルもやってくる。
ロゼルとジルも少し離れてついてきていた。
「どうだった」
ノウが短く聞く。
「“は?”って言いたくなる場所、あったか?」
僕は、自然と笑ってしまった。
「めちゃくちゃあった」
「だろうな」
ノウも口元を少しだけ緩める。
「人工山の箱も見た」
僕が言うと、レグの眉がぴくりと動いた。
「箱?」
「鍵かかってた。でも、父さんの名前がちゃんと刻まれてた」
バングルを軽く叩く。
「だから――まだ行ける」
パールが、ぐっと僕の腕を掴んだ。
「よし、とりあえず!まずごは」
「まずはごはんだよね?」
デーネが先に言った。
パールが「取ったー!」って顔をする。
「ごはん食べながら、全部聞かせて。は?って言っていい場所、一緒に探そ」
「任せて」
記録庫の紙の上で見つけた線。
消された文字。
父さんの【R.A.】。
それを全部、この騒がしいメンバーに投げて、“人間の言葉”に一回変換する。
そうやって、数字と文字だけの記録を、“生きてる人たちの話”に戻していく。
サイク病のことも。
無音の時間のことも。
星の病のことも。
その全部を、僕たちでまとめて、もう一回見つめ直す。
光殿の中の光は、まだ真相を隠してる。
人工山の箱も、まだ開かない。
それでも――
僕の隣を歩いているこの関係だけは、どんどんあったかくなっていく。
光の塔の揺れよりもずっと確かに、僕の中で何かが動き始めていた。




