第143話:恵の水
夜明けは、いつもより遅い気がした。
空が白むまでが、こんなに長いなんて。
きっと眠れなかったからだ。
瞼は重いのに、頭の奥はやけに冴えていて、心臓の音だけがずっと耳に残っていた。
縛った団員は岩陰に置き去りにした。
助かるかどうかは運次第だ。
でも、放してやればまた刃を向けてくる。
……結局、あの夜で僕らの逃げ道は全部潰された気がする。
⸻
東の空が赤く染まった。
砂漠の影がゆっくりと伸び、白んだ世界に色が戻っていく。
風は冷たくて、火を消した唇に砂の味を運んでくる。
「急ぐぞ」
ライネルの声で、僕らは歩き出した。
体は鉛みたいに重い。
足の裏の皮は擦り切れて、砂を踏むたび痛みが走る。
でも止まるわけにはいかない。
逃げた団員が戻ってくるのは時間の問題だから。
「ふぁぁ……ねむ……」
パールが大あくびをしながら歩いていた。
「ていうかあたし、夢の中でまで追っかけられてたんだけど。団員に! マジで悪夢!」
「現実でも追われてるから、夢に出ても不思議じゃないわ」
デーネが冷たい声で返すけど、目の下に薄い隈を作っていた。
彼女だって眠れてない。
僕もだ。
まぶたが落ちそうになるたび、あのリズムが耳を叩く。
1、2、3……1、2、3……。
団員の足音が、まるで幻聴のように聞こえる。
眠ることすら許されない気がした。
⸻
昼になると、太陽は遠慮なく背中を焼き始めた。
砂は白く光って、視界がぐにゃぐにゃ揺れる。
パールは頭に布を巻いてもなお文句を言い続ける。
「ちょっと、もう無理。足の裏が溶ける……」
「歩けなくなったら置いてく」
「ひどっ! ほんとに言う!?」
そのやり取りが、逆に救いだった。
声を出さなければ、砂に飲み込まれそうだったから。
何度目かの丘を登った時、空気が少し変わった。
湿っている……?
砂漠で湿気なんて感じるはずがないのに。
胸の奥で、何かが跳ねた。
「……あれを見ろ」
ライネルが顎をしゃくった。
視線の先、地平線に黒い帯が横たわっていた。
砂漠を真っ二つに割るように、一直線に。
光を反射して揺らめいている。
「ガイド川……」
デーネが息を呑む。
遠い。まだ遠い。
でも確かにそこにある。
砂漠の終わりと、次の試練が。
僕は思わず足を止めて、目を凝らした。
水があるってだけで、涙が出そうになる。
あの川を渡らなきゃいけないことも分かってるのに、今はただ、そこに水があることが救いだった。
「ほら、立ち止まんな!」
パールが僕の背中を叩く。
「冷たい水、ぜったい飲むんだから! 行こ!」
彼女の声に、足がまた前へ出た。
怖さも、疲れも、全部消えるわけじゃない。
でも確かに今、進む理由は目の前にある。
⸻
夕暮れ、川はまだ遠いのに、確かに音が届いていた。
ざわ……ざわ……と揺れる水の音。
幻かもしれない。
でも、それでもよかった。
その音を胸に抱えながら、僕らはまた歩いた。
太陽がじりじりと昇っていく。
川を遠くに見つけたとはいえ、まだ歩き続けなきゃ辿り着けない。
足は棒みたいに重いし、喉は砂を噛んでるみたいに乾いていた。
それでも進むしかないんだ。
「ねぇ、あの川……ほんとに渡れるの?」
パールが布で汗を拭きながら言う。
「今のままじゃ無理だ」
ライネルが即答する。
「幅も深さも規格外だ。泳いで渡ろうとすれば流される。
川を渡る手立てを見つけるしかない」
分かってる。だからこそ、胸の奥が重くなる。
せっかく水の気配を感じたのに、まだ“壁”みたいに僕らの前に立ちはだかってる。
「でも! 飲めるだけでも最高じゃん!」
パールが元気よく言い切った。
「足も喉ももう限界! あたし、川に飛び込んで泳ぎながらでもいいから飲む!」
「……やめなさい。溺れ死ぬわ」
デーネが呆れ声を出した。
だけど、そのやり取りでほんの少し笑いが戻る。
そんな空気が変わったのは、昼を過ぎた頃だった。
砂の丘を越えたとき、そこに不自然なものが残っていた。
爪痕。
砂に浅く刻まれているけど、何度も繰り返し通った跡のように見える。
人間の靴跡と混ざり合って、ひとつの道を作っていた。
「……魔物の足跡?」
僕がそう呟くと、デーネが膝をついて跡をなぞった。
「そう。でも……変だわ。これは“ただ歩いてる”んじゃない」
「どういうことだよ」
「見て。爪の刻みが揃ってる。一定の間隔で。
まるで……リズムを刻むように」
胸の奥がざわついた。
まただ。
あのリズムが耳に蘇る。
——パンパン、ドドドン。
村の踊り。
スサの風の唸り。
全部が重なって、背筋を凍らせた。
「……これ、誰かがわざと残したのかもな」
ライネルが低い声で言った。
「人か……それとも、人語を操る魔物か」
その言葉にパールの目が丸くなる。
「ちょ、ちょっと待って! 魔物が喋るとかやめてよ! 怖すぎる!」
「でも、あの男……」
デーネが言葉を濁した。
言わなくても分かる。
スサ。あの異形。確かに人の言葉を話していた。
足跡は川の方角へと続いていた。
まるで僕らを先導するかのように。
心臓が早鐘みたいに鳴る。
これを追っていいのか? 罠かもしれないのに。
でも、他に道なんてない。
「……行こう」
結局、口から出たのはそれだった。
背中を押されてるみたいに。
リズムに合わせて、足が砂を踏んでいた。
1、2、3……1、2、3……。
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