第141話:東へ
砂漠の朝は、想像以上に早く熱を帯びる。
夜の冷気がわずかに残るうちに出発したはずなのに、太陽が顔を出した瞬間から、空気が皮膚に張りつくみたいに重たくなった。
僕らはさらに東へ。座標が示した方向を進む。
カヤが先頭で砂を踏みしめ、パールがその後を跳ねるように歩き、デーネは無言で本を抱きかかえ、ライネルは最後尾から全体を見ていた。
僕はその真ん中。歩調は合っているのに、胸の奥の鼓動だけはどうしても速すぎた。
⸻
「ウルス、顔こわいよ」
パールが横から覗き込んできた。
「眉間にシワ寄せてさ、完全におっさんモード」
「放っとけ」
「このままだと40歳でじじい確定。デーネに笑われるぞ?」
「……笑わない」
デーネは淡々と否定しつつも、眼鏡の奥で僕をじっと見ていた。
「でも、何か隠してる。昨日からそう」
僕は言葉に詰まった。
誤魔化しても無駄だ。デーネは全部見透かしてる。
「……団員の足跡を見た」
乾いた喉から、ようやく絞り出した。
「村の外にあった。新しい跡。……追ってきてる」
パールの顔が凍った。
「マジ……?」
「間違いない」
デーネは唇をきゅっと結んで頷いた。
「やっぱり。夜の風に混じってた音、聞き間違いじゃなかった」
最後尾のライネルが淡々と補足する。
「だが奴らはまだ仕掛けてこない。観察しているだけだ。……いずれ動く。覚悟はしておけ」
その声が妙に冷たく響き、逆に胸を締めつけた。
⸻
昼前。
地平線に揺れる岩山の影が見えてきた。陽炎の向こうに、背の低い建物の輪郭もある。
「次の村だ」
カヤが振り返って告げる。
「ここを逃せば、数日は水場がない。立ち寄るしかない」
「やったー!」
パールが両手を広げて叫ぶ。
「水! ご飯! 屋根! ぜんぶセットでお願いします!」
「順番おかしいだろ」
思わず口を突いて出たツッコミに、自分でも驚いた。
声に出したら少しだけ、胸の重さが軽くなった気がした。
だが、その時。
振り返った砂丘の稜線に、黒い点が一瞬だけ浮かんだ。
風で揺らいだ布のような影。
目を凝らした瞬間にはもう消えていた。
……やっぱり、来てる
笑うパール、静かなデーネ、前を歩くカヤ、最後尾のライネル。
その全部の背中に、影はぴたりと貼りついている気がした。
岩山の村が僕らを守るのか、それとも罠になるのか。
それはまだ分からない。
でもひとつだけ確かに言える。
影は、消えてなどいなかった。
岩山のふもとに近づくと、砂漠の風景が少しずつ変わっていった。
岩の割れ目から細い水の筋が流れ出ていて、その周りには草がわずかに生えている。
砂漠で緑を見ると、それだけで別世界に来たような気分になる。
「おおーっ!」
パールが一番に声を上げた。
「見て! 草! 緑! 文明だぁー!」
「文明って……」
僕は苦笑しながらも、同じ気持ちだった。
⸻
村は岩肌に沿って造られていた。
家々は岩を削って作られた洞穴で、ところどころに木の扉がはめ込まれている。
外壁には色とりどりの布が吊るされ、風に揺れていた。
それは飾りというより、砂よけの役割を果たしているようだ。
入口で待っていたのは、背の曲がった老人だった。
こうして壁の外に村があって、そこに住んでる人に迎えられることにも慣れた。
壁の中にいた時では、考えられないことだ。
どれだけ狭い世界で生きていたのか、思い知らされる。
「旅の方か。よう来られたな。……中へ入るがいい」
声はかすれているのに、不思議と芯のある響きだった。
村に足を踏み入れると、子どもたちが岩場を飛び回っていた。
石を積み上げては崩し、また積み直す。どうやらそれが遊びらしい。
パールが目を丸くする。
「え、積んで崩すのが楽しいの?」
「楽しいよ!」
子どもが胸を張って答えた。
パールはしばらく見ていたけど、気づけば一緒になって石を積んでいた。
「ほら、見てウルス! あたし天才じゃない!? 芸術的!」
「その形……今にも崩れそうだけど」
「だからいいの!」
子どもたちの笑い声が岩場に反響し、村全体を明るくしていた。
デーネは村の壁に刻まれた模様に目を止めていた。
「……これは」
よく見ると、岩に小さな線が繰り返し刻まれている。
波のような曲線が連なり、踊り子の足跡みたいにも見えた。
「昔からの風習だ。岩は風と水を記録する、と信じられておる」
老人が説明する。
「水の流れが絶えぬよう、村人はこうして印を刻み続けてきたのだ」
デーネは真剣な顔で線をなぞっていた。
「……リズム。パンパン、ドドドン……パンパン、ドドドン……」
小さく呟く声を、僕は聞き流せなかった。
まただ。このリズム。
一体何を伝えようとしてる?
⸻
夕方。
村人が集まって、客人の僕らに食事を振る舞ってくれた。
干した果実と焼いた魚、岩山の洞穴で育てられた小さな豆。
質素だけど、砂漠を旅する身には十分すぎるご馳走だった。
「うっまっ!」
パールが頬を膨らませながら叫ぶ。
「やっぱ外の村最高だね! あたしここに住もうかな!」
「はいはい、どうせ明日には飽きる」
「ひどっ!」
そのやり取りに、久しぶりに素直な笑いがこぼれた。
けれど、心のどこかではずっと背中がざわついていた。
村の上に広がる星空は、壁の中で見ていたよりもはるかに広く、深かった。
けれど僕は目を閉じられなかった。
デーネが言ったリズムが、頭の奥で鳴り続けていたから。
パンパン、ドドドン……パンパン、ドドドン……。
子どもたちの遊びにも、岩に刻まれた模様にも、同じ拍子が響いている。
それが偶然じゃない気がして、胸の奥がひやりとした。
村の広場は夜になってもざわめいていた。
焚き火の周りで子どもたちが歌い、大人たちは酒を酌み交わしている。
岩肌に反射する炎の赤が、村をまるごと包んでいた。
僕らもその輪の中にいたけれど、心は妙に落ち着かなかった。
みんなが笑っているのに、僕だけ背中に冷たいものを感じていた。
「ウルス、また難しい顔してる」
隣でパールが肉を頬張りながら突いてきた。
「せっかくご馳走なんだからさ、もっとこう……『うまい!』って顔しなよ!」
「……うまいよ」
「声小さっ! 団員に追われてるからって、味覚まで死んだ?」
「死んでない」
僕が苦く返すと、パールはふふんと笑ってまた子どもたちの輪に混ざっていった。
あいつの明るさは時々ずるい。
でも、救われてるのも事実だった。
少し離れたところで、デーネは壁に刻まれた模様を写し取っていた。
焚き火の明かりに照らされた線は、昼間よりもはっきり浮かび上がっている。
「やっぱり……リズムになってる。パンパン、ドドドン……」
小さく口ずさむ声が聞こえる。
「踊りの足跡に似てる。っていうか同じ」
その言葉が胸に刺さった。
なんだろう?立ち寄った村同士が干渉し合っている雰囲気なんて一切なかった。
それなのにどうして、各村が同じリズムを伝承したいるんだろう?
これには何か重大な秘密が隠されているような気がしてならない。
ライネルは焚き火から一歩離れ、村の入口を見張っていた。
光の届かない闇に目を凝らし、ずっと動かない。
その横顔を見ているだけで、不安がさらに形を帯びる気がした。
宴が終わり、人々が家に戻っていくころ。
僕らは岩肌に掘られた空洞の一室に布団を借り、横になった。
パールはすぐに寝息を立てた。デーネはノートを抱いたまま目を閉じ、ライネルは剣を手の届く場所に置いている。
僕だけ、眠れなかった。
まぶたを閉じると、あの影が砂丘に立っている光景が浮かぶ。
じっとこちらを見て、すぐに消える。
その冷たい視線が背中に突き刺さる。
耳を澄ますと、かすかな砂の擦れる音がした。
風かもしれない。でも、違う気がする。
布団の中で息を止める。
……足音だ。
1、2、3……1、2、3……。
背筋が凍りつく。
確かにここまで来ている。
「……ウルス」
小さな声。目を向けると、デーネが薄く目を開けていた。
「聞こえる?」
「……うん」
囁く声が震えていた。僕の声も、きっと同じだった。
その瞬間、外から犬の吠える声が響いた。
村人の飼っている犬だろう。
吠え声に混じって、人の気配が確かに動いた。
「やっぱり来てる……」
デーネの言葉が、闇に吸い込まれた。
朝。
岩山に差し込む光は、夜の影を一気に追い払った。
けれど、胸の奥に残った冷たさは消えない。
あの足音。夢じゃなかった。
外に出ると、村人たちがすでに動き出していた。
水を運ぶ人、岩肌に刻みを入れる人、子どもたちは昨日と同じように石を積んで遊んでいる。
まるでいつも通りの朝――のはずなのに、空気は妙に張りつめていた。
入口付近で見張りの男に声をかけられる。
「昨夜、村の外に人影を見た。君たちの仲間かい?」
その言葉に体が固まった。
やっぱり、来てる。
ここで、「仲間です」なんて言えば、僕たちの情報を話される危険がある。
かと言って正直に、「僕たちを追っている者です」なんて言ったら、変な誤解が生まれるだろう。
ここはしらを切るしかない。
「いやぁ、そうなんですか?昨夜はぐっすり眠っていて全く気がつきませんでした。他の村の人たちじゃないですか?」
よし。これでいいだろう。後は変に追及される前に出発だ。
「……他の村の人たちか……そこの若いの」
見張りの男はカヤに声をかけた。
「おまえさんだけ他の4人とは随分服装が違うようだが……」
確かにカヤだけが武器を持っていない丸腰だ。
でもそれほど不自然ではないはず。
「えぇ。俺は隣の村からこの方達をこの村まで案内した者です。服装が違うのはそのせいでしょう。昨夜見た人影というのは、きっと村の人たちが俺を迎えにきたのでしょう」
カヤは顔色ひとつ変えずにそう告げた。
「……そうか。珍しいな、他の村のやつがうちに来るなんて⸻確か隣の村は外には干渉しないはずと聞いたが?」
淡々とした声。
もしかして怪しまれてる?
見張りの男はさらに続ける。
「ここは我らの村だ。お前たちを拒みはせぬ。だが外の厄介事に巻き込まないでくれよ。よりによって隣の村と揉めるなんて勘弁だ。外の村のことはお前の責任」
見張りの男の目には揺らぎがなかった。
「……わかってる」
カヤは答えた。
2人のやりとりを見て、気が引き締まる。
そうだ。壁の外の村の人たちにとって僕たちは味方でも何でもない。
守られる義理なんてひとつもないんだ。
最初から、どの村に立ち寄っても、それは覚悟していたことだ。
ただ、一瞬でも「守られている」と思ってしまった自分が悔しかった。
村の子どもたちが、不思議そうにこちらを見ていた。
「お兄ちゃんたち、どこに行くの?」
「……もっと東へ」
「なんで?」
答えに詰まる。理由を説明できる言葉が見つからない。
代わりにパールが子どもに笑いかけた。
「冒険ってやつさ!」
「ぼうけん!」
子どもたちがはしゃいで繰り返す。その声に、胸がちくりと痛んだ。
デーネは小声で言う。
「この村、外に人たちに対して警戒心がまるでない。何でもかんでも迎え入れる民族なんだわ。それか、それがこの村の掟。いい村ね。でも……もし追っ手がこの村に寄ったら、村の人たちは私たちのことを話す可能性があるわ」
「つまり、のんびりはできないってことね」
パールが短剣を腰に差し直し、にやりと笑った。
「よーし、逃げ切ってやろうじゃん!」
岩山の影を離れると、背後にまだ子どもたちの声が残っていた。
振り返らなかったけど、確かに聞こえていた。
……守ってもらう場所なんて、どこにもない。結局、進むしかないんだ
砂を踏み出すと、心臓の鼓動と足音が重なった。
1、2、3……1、2、3……。
追跡者と同じリズム。
団にいた時に最初に習う歩調だ。
岩山の影が遠ざかると、砂漠は再び同じ顔を取り戻した。
果てしなく続く砂の波。風に削られた小さな稜線。
村の子どもたちの声は、もう背中に届かない。
僕らは東へ、座標が示す方向を進んでいた。
⸻
「ふぅー……やっぱり砂漠って退屈」
パールが頭に布を巻き直しながらぼやいた。
「景色変わんないし、砂ばっかだし、水はすぐなくなるし……」
「文句ばっかり言ってないで、早く足を動かしなさい」
デーネが呆れたように返す。
まぁ文句の一つも言いたい気持ちもわかる。
一体いつになったら辿り着けるんだ。
流石に歩くの疲れたぞ。移動手段の馬か何かあれば……
「それに退屈どころか、油断したら命にかかわる」
「はいはい、わかってますー。だからちゃんとウルスが守ってくれるんでしょ?」
いきなりこっちに振るな。
僕は苦笑しながらも、刀の柄に自然と手を置いた。
ライネルは終始黙っていた。
最後尾から砂の音に耳を澄まし、時々、振り返る。
そのたびに胸がざわついた。
……やっぱり、いる。
昼の陽炎の向こう、稜線のてっぺんに一瞬だけ影が立つ。
砂の揺らめきにすぐ飲まれてしまうけど、確かに見えた。
距離が……縮まってる
昼を越えたころ、僕らは小さな窪地に入った。
風が遮られる場所は、少しだけ涼しい。
パールがどさりと腰を下ろした。
「はぁー……生き返る……!」
「まだ休む余裕なんてないわよ」
デーネが睨むと、パールはにやっと笑って言った。
「余裕がないときほど休むの! 死んだら冒険も終わりでしょ?」
その言葉に僕は少しだけ笑った。
でも、同時に背中を撫でる冷たい視線は消えなかった。
休憩の間も、ライネルは立ったまま周囲を見張っていた。
やがて低くつぶやく。
「……動いているな。北西から回り込もうとしている」
「えっ……!」
デーネが顔を上げる。
ライネルの視線の先には、砂の稜線に舞い上がる小さな砂煙。
確かに自然の風だけではない。
「奴らは俺たちの進路を読んでいる」
ライネルの声に、喉が乾いた。
村で掟を理由に助けを拒まれたときよりも、今のほうがずっと現実的に孤独を感じた。
やっぱり……どこにも守ってくれる場所なんてない。自分たちで進むしかないんだ。
「ウルス」
パールが隣に腰をずらし、小声で言った。
「……怖い?」
「……正直、怖い」
吐き出した瞬間、胸が少し軽くなった。
パールはにっと笑い、僕の肩を拳で叩いた。
「じゃあ大丈夫! ウルスが怖がってるときは、絶対やるときだから!」
「根拠のない自信だな……」
「根拠なくても信じるのが仲間ってやつでしょ?」
彼女の笑顔に、ほんの少し力が戻った気がした。
砂漠を出発する。
背後ではまた砂煙が立ち、1、2、3……と規則正しい拍子が風に溶けていた。
振り返らなくてもわかる。
団員たちは確実に、僕らを捕らえに来ている。
読んでいただきありがとうございました。
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筆者がものすごく喜ぶと同時に、作品を作るモチベーションにも繋がります。
次回もよろしくお願いします!




