第139話:オアシス
砂漠を進むたびに、背中の汗が冷たくなった。
太陽のせいじゃない。
後ろに刻まれた足跡のせいだ。
振り返ればすぐそこに団の影が立っていそうで、足が勝手に速くなる。
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「ねぇ、ウルス。ちょっと走りすぎ!」
パールが息を切らして追いついてくる。
「そんなに急いだら死ぬって! 砂漠マラソンじゃないんだから!」
「……でも」
言いかけて、口をつぐんだ。
“追いつかれるのが怖い”なんて言えば、余計に不安を煽るだけだ。
ライネルは落ち着いていた。
「追っ手は砂嵐で足を取られただろう。まだ距離はある。焦って体力を削る方が危険だ」
その声は理屈として正しい。
でも、心臓は理屈を聞いても落ち着いてくれなかった。
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しばらく歩くと、空気が変わった。
熱風の中に、微かに湿った匂いが混ざる。
砂の色も淡くなり、地面に緑の筋が走っていた。
「……水場だ」
デーネが指差した先に、小さなオアシスと、それを囲むような集落が見えた。
家は日干し煉瓦でできていて、背の低い木々が影を落としている。
「やっと人の気配!」
パールが両手を広げて叫んだ。
「死ぬ前にご飯にありつける!」
……いや、まずは休む方が先だと思うんだけど。
村に入ると、人々が不思議そうに僕らを見た。
外から来る者は珍しいのだろう。
でも拒絶される空気はなかった。むしろ、遠い旅人を見る目に近い。
「旅の方々、どうぞ」
年配の男が声をかけてきた。
涼しい布の日陰に案内され、水を差し出してくれる。
口に含んだ瞬間、喉が生き返った気がした。
けれど、心の奥は休まらない。
背後の影は、ここまで追ってきていないのか?
本当に撒けたのか?
僕が落ち着かない顔をしていたのか、デーネがそっと囁いた。
「……まだいるわよ。足跡の向きが同じだった。彼らもこの方向に進んでいる」
胃が重くなる。
オアシスの涼しさも、一瞬で砂漠に溶けていった。
パールは干し果物を頬張りながら言った。
「じゃあ次の村でもまた逃げるってことか。……なんかもう、かくれんぼ大会みたいだね」
「命がけのな」
ライネルの冷たい突っ込みに、誰も笑えなかった。
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夜。
村の灯りの外、闇の中で砂がざらりと崩れる音がした。
振り返ったけど、何も見えなかった。
でも確かに感じる。
——影は、まだ消えていない。
オアシスの村は、砂漠の中とは思えないほど賑やかだった。
小さな水路が張り巡らされ、子どもたちが足を浸して笑い声をあげている。
日干し煉瓦の家には草の屋根がかけられ、風鈴のような装飾が揺れていた。
砂漠の真ん中に、まるで別世界みたいな静かな涼しさがあった。
「うわぁ……ここ、天国じゃん!」
パールは目を輝かせて水路に飛び込もうとした。
「ちょ、勝手に入るな! 村人が見てるだろ!」
「だって! 足がもう限界! 冷たい水にジャボンってやったら絶対生き返る!」
「行儀って言葉を辞書で調べてこいよ……」
僕が止めても、結局パールは靴ごと足を突っ込んで、声にならない声をあげていた。
「ひゃあああ! 冷たっ! でも最高!」
村の子どもたちが真似をして一斉に水に足を入れ、あっという間に小さな騒ぎになった。
デーネは落ち着いて村の中央にある石碑を見上げていた。
「……水を讃える歌詞が刻まれてる。村の人々は水そのものを神聖視してるのね」
指で文字をなぞりながら、小さく呟く。
「“水は道を示し、砂を越える鍵となる”……」
「また歌?」
僕はため息をついた。
でも心のどこかで理解していた。これまでの旅は歌や調べに導かれてきた。
ここも例外じゃないのかもしれない。
ライネルは村長らしき人物と話をしていた。
やがて戻ってきて、短く告げる。
「この村は外部の争いに干渉しないのが掟らしい。追っ手が来ても、彼らは助けてくれん」
「え……」
パールが水をはね散らしながら振り向いた。
「じゃあ、追跡者がここに来たらどうなるの?」
「ただ見ているだけだそうだ」
「見てるだけ!? いやいや、それ絶対見物感覚じゃん!」
……その可能性、笑えない。
⸻
夕暮れ。
村の広場で、楽器を鳴らす音が響いた。
素朴な笛と太鼓のリズムに合わせ、村人たちが踊り出す。
輪になって、軽やかに、楽しげに。
パンパン、ドドドン。パンパン、ドドドン。
また例のあのリズム。
胸がざわつく。
ただの舞かもしれない。
でも、あまりにも繰り返し現れる“同じ拍子”に、背筋が冷たくなった。
⸻
夜。
村に宿を借りて横になったけど、眠りは浅かった。
外からかすかに笑い声がする。
祭りの名残か、それとも……。
ふと窓の外を見た。
闇の砂漠に、また遠く小さな光が揺れていた。
焚き火。
昨日と同じ、いや、確実に近づいている。
僕は喉を鳴らした。
影は……やっぱり消えてない。
⸻
朝。
オアシスの水面は鏡みたいに静かで、太陽の光を反射して眩しかった。
村人たちは水路の掃除をしたり、壺に水を汲んだり、いつもの生活を淡々と続けている。
昨日の祭りの賑やかさが嘘みたいに落ち着いていて、僕は少し拍子抜けした。
「やっぱり平和そうだよなぁ……」
パールが水をすくって顔を洗い、気持ちよさそうに声を上げる。
「ほら見てウルス! 砂でバキバキだった肌がぷるっぷるに戻った!」
「知らねぇよ」
……でも彼女の笑顔を見ていると、砂漠の疲れが少し和らぐ気がする。
その時、後ろから声がかかった。
「旅人よ」
振り向くと、昨日広場で踊っていた若者が立っていた。
褐色の肌に、首には青い布が巻かれている。
「村長は“外の争いには干渉しない”と告げたはずだが……」
彼の目は鋭かった。
「俺たち全員が、その掟を守りたいわけじゃない」
「どういうこと?」
デーネが一歩前に出た。
若者は低い声で答える。
「俺の兄は昔、甲冑を着た連中に連れていかれた。水を守る戦士になれと。……帰ってきたのは、骨だけだった」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
「村長は“水を守れればよい”と言う。外の争いに首を突っ込めば、また誰か死ぬからだと。だが……俺は納得できない」
パールが珍しく真剣な声を出した。
「……あんた、悔しいんだな」
「当たり前だ」
若者の拳が震えている。
「だから言う。追っ手が来ても、村長は何もしない。だが俺は……お前たちに味方する」
ライネルがじっと彼を見据えた。
「名は?」
「カヤ」
「カヤ、お前の助けは頼もしいが、命を張る覚悟はあるのか」
「ある。……俺はもう、水に映る自分の顔に背を向けたくない」
彼の目は真剣だった。
掟に従う村と、抗おうとする若者。
この村も一枚岩じゃない。
僕はオアシスの水面を覗き込んだ。
そこには砂だらけの自分の顔が映っている。
見慣れたはずなのに、どこか別人に見えた。
……僕も、もう壁の中にいた自分とは違うのかもしれない。
その時、村の外から砂煙が上がった。
ライネルが即座に剣に手をかける。
「……来たか」
遠くに黒い影がいくつも動いていた。
まだ距離はある。
でも間違いなく、こちらに向かってきている。
カヤが低く呟いた。
「やはり来たな。……俺は逃げない」
オアシスの静けさが、一瞬で緊張に飲み込まれていった。
砂煙は確かに近づいていた。
黒い影がいくつも動き、オアシスの空気を一気に張り詰めさせる。
僕は喉の奥がきゅっと締めつけられた。
昨日まで遠くの焚き火だった気配が、今はすぐそこに迫っている。
「来るぞ」
ライネルの声は低く鋭かった。
村人たちも異変に気づいたらしく、水路の掃除をしていた手を止め、ざわざわと広場に集まっていく。
誰も大声を出さない。
ただ、水面に映る影をじっと見つめている。
「村長!」
カヤが声を張り上げた。
「追っ手だ! 兵が来てる!」
だが、白い布を頭に巻いた村長は首を横に振った。
「我らは掟を破らぬ。“外の争いに干渉せず”。ただそれだけだ」
「でも——!」
「だが、だがと繰り返すな。水を守るのがすべてだ」
村長の声は硬かった。
その場の空気が凍りついた。
パールがこっそり僕の袖を引っ張る。
「ね、ねぇ……これってさ、マジで“見てるだけ”で終わる感じじゃない?」
「……その可能性が高い」
「ちょっと! 笑いごとじゃないって!」
いや、僕も笑ってない。胃がひっくり返りそうなほど緊張してる。
デーネは落ち着いた声で言った。
「ここにいれば……見つかるのは時間の問題」
「じゃあどうする?」
「逃げるしかない。けど……」
彼女の目がオアシスの水面を映した。
「彼らの進路を変えるには、この村の協力が必要よ」
カヤが拳を握り、僕を見た。
「俺が案内する。裏手に抜け道があるんだ。水路を辿れば、砂丘の影まで行ける」
村長がすぐに鋭い目を向ける。
「カヤ、それは掟に背くことになるぞ」
「知ってる! でも俺は……旅人を見殺しにしたくない!」
その声は震えていたけれど、真剣だった。
僕は思わず答えていた。
「頼む。……僕らは捕まるわけにいかない」
その瞬間、砂漠の空気が重く唸った。
遠くで、確かに足音が響いた。
1、2、3……1、2、3……。
村人たちが一斉に水路を見つめる。
僕の背筋は氷の刃で撫でられたみたいに冷たくなった。
「行け」
ライネルが短く言った。
「ウルス、デーネ、パール。……カヤに従え」
僕らは荷物を抱え、水路の影へと走り出した。
背後で、村人たちの声がざわめきに変わっていく。
誰も助けてはくれない。
でも——ひとり、確かに力を貸してくれる者がいる。
⸻
オアシスの涼しい空気が、一転して焦げつくように重かった。
影はもうそこまで来ている。
砂に刻まれた足音が、心臓の鼓動と重なっていた。
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