第138話:嵐の中で迫る気配
昼の砂漠は焼けるように熱いのに、背中に流れる汗とは別に、もう一つ別の冷たいものが張りついていた。
振り返るたびに、誰かの視線が追ってくる気がする。
けれど、砂丘の向こうに人影はない。
ただ、風が砂を巻き上げているだけだ。
⸻
「ねぇ、また立ち止まった」
パールが不満げに僕の横顔を覗き込む。
「そんなにトイレ近いタイプだったっけ?」
「違うわ!」
即座に否定したけど、心臓が跳ねてるのは事実だ。
……だって、確かに感じる。誰かがつけてきている気配を。
ライネルが低い声で言った。
「……やはり感じているか。視線だ」
彼は砂漠に目を細め、剣の柄に手をかけていた。
やっぱり僕の気のせいじゃなかった。
「ゲーリュ団?」
デーネの声がひそやかに震えた。
「まだ断定はできん。だが、魔物の気配ではない」
ライネルの言葉に、喉がカラカラになる。
足音を早める。
砂を蹴るたびに、背後の気配が近づくような錯覚に襲われる。
頭の中で、団の隊服を着た追跡者たちの姿が浮かんだ。
あの冷たい目、規律の声、無慈悲な命令。
捕まれば、強制的に壁の中へ戻される。
……帰りたくない。
僕は歯を食いしばった。
「怖いの?」
パールが隣で小さく囁いた。
その声はからかう調子じゃなく、真剣だった。
「怖いさ」
嘘はつけなかった。
「でも、戻されるのはもっと怖い」
パールは一瞬黙った後、笑った。
「なら大丈夫。あたしらは進むって決めたんでしょ?」
その笑顔に、砂漠の太陽よりも強い光を感じた。
やがて、デーネが足を止めた。
「……見て」
砂丘にうっすらと足跡が残っていた。
僕らのものじゃない。形も深さも違う。
ライネルがしゃがみ込み、砂を指でなぞる。
「……3人、いや4人か。武具を持った歩き方だ」
砂がまだ崩れきっていない。つまり――
「ほんの数時間前に通った跡だ」
空気が一気に張りつめた。
団の追跡者が、確実に僕らの後ろにいる。
ただの想像じゃなく、証拠がそこに刻まれていた。
背中に冷たい汗が流れた。
さっきまで「仲間と一緒なら進める」なんて思っていた。
けど、現実は想像以上に速く、重く、迫ってくる。
「……進もう」
自分でも驚くほど低い声が出た。
ビビってるはずなのに、刀を握る手は震えていなかった。
「捕まるわけにはいかない。絶対に」
ライネルが短く頷き、デーネが眼鏡の奥で強い光を宿した。
パールはにっと笑って、腰の短剣を構えた。
砂漠の風がまた、あの不気味なリズムを刻む。
1、2、3……1、2、3……。
今度ははっきりと分かった。
あれは風の音なんかじゃない。
僕らを追う足音だ。
日が沈むと、砂漠は嘘みたいに冷え込んだ。
昼間の焼けつく熱が嘘だったみたいに、吐く息が白くなりそうなほど。
岩陰に身を寄せて、小さな火を囲んだ。
乾燥肉を炙り、ほんの少しの温かさを分け合う。
静かな夜。
でも、僕の胸の奥では昼間から続いている冷たい感覚が消えなかった。
「……なんか、落ち着かないね」
パールが火を見つめながら呟いた。
いつもなら食べ物に夢中なのに、今日は手が止まっている。
「そりゃそうだ。追っ手がいるかもしれんからな」
ライネルが短く答える。剣は膝に置いたまま。
「……“かもしれん”じゃないわ」
デーネが低い声で言った。
「いるわ。間違いなく」
その言葉に、背中がぞくりとする。
風が途切れた瞬間だった。
遠くで、かすかな光が揺れた。
火だ。
僕らの小さな焚き火じゃない。もっと離れた、別の焚き火。
胸の鼓動が跳ねる。
「……見える?」
声が勝手に震えていた。
「あぁ」
ライネルが短く答えた。
「数は分からんが……間違いなく誰かがいる」
パールがごくりと唾を飲み込んだ。
「え、ちょっと待って……まさか、追っ手?」
「そう考えるのが自然だな」
ライネルは火から目を離さない。
「だが、ここからじゃ人数も分からん。軽々しく動けば逆に気づかれる」
僕は拳を握った。
ただの光なのに、背中に刃を突きつけられたような圧力を感じる。
「……怖い?」
デーネが静かに聞いてきた。
僕は一瞬答えに迷ったけど、正直に言った。
「怖い。でも、戻される方がもっと怖い」
デーネはわずかに微笑んだ。
「私も。壁に閉じ込められるくらいなら……外で震えてる方がいい」
その言葉が、冷たい夜に小さな温もりをくれた気がした。
パールは大きく伸びをして、無理に明るく笑った。
「だったら決まりだね! 捕まる前に全力で逃げてやろうじゃん!」
「お前、声が大きい」
ライネルが渋い顔をする。
……でも、パールのその元気さに救われてるのは、僕ら全員だった。
遠くの火は、しばらくして消えた。
気配も、声も届かない。
けれど確かに“そこにいた”という事実だけが残った。
砂漠の夜は冷たいのに、胸の奥は熱い。
いつか必ずぶつかる。
その時までに、もっと強くならなきゃいけない。
火の残り香を見つめながら、僕は刀の柄を強く握った。
夜明け前の砂漠は、空気が妙にざわついていた。
風が乾いた布を裂くような音を立て、砂を巻き上げている。
胸の奥が落ち着かない。
これはただの風じゃない。嵐の前触れだ。
「嵐が来る」
ライネルが短く告げた。
その声に、パールが顔をしかめる。
「マジ? もう勘弁してよ! せっかく干し肉確保したのに、砂まみれになっちゃうじゃん!」
「干し肉より命が優先だ」
「分かってるよ!」
彼女の軽口で少し和らいだ気もするけど、風はどんどん強くなっていく。
デーネが地図代わりの紙片を押さえながら、冷静に言った。
「近くに岩陰があるわ。そこまで移動すれば……」
「行こう」
僕は即答した。
声がかすかに震えていたのは、自分でも分かった。
嵐が怖いのもある。
でも、本当に怖いのは……その中に紛れる“影”だ。
風に混じって、かすかな音が聞こえた。
足音のような。
錯覚かもしれない。でも、昨日見た焚き火が頭から離れなかった。
(もし嵐に紛れて近づかれたら……?)
心臓が嫌な速さで脈打つ。
ただでさえ視界を奪われる砂嵐の中、追跡者が動けば、気づく前に囲まれるかもしれない。
「大丈夫」
隣でデーネが小さく言った。
「嵐は誰にとっても危険。追跡者も同じよ。むしろこちらに有利に働くかもしれない」
その冷静さに少し救われた。
……でも、嵐を“味方”にできるほど僕は図太くない。
⸻
砂が容赦なく顔に叩きつけてくる。
口の中がじゃりじゃりして、息をするだけで喉が痛い。
パールは頭から布を被りながら叫んだ。
「ねぇウルス! これ以上進んだらマジで砂像になるって!」
「もう少しだ、岩陰が見える!」
叫ぶ声さえ、砂の唸りにかき消されそうだった。
必死に走り、ようやく岩陰に身を潜めた。
全員が砂だらけで咳き込む。
それでも、一瞬の静けさが訪れた。
けれど、僕の耳は別の音を拾った。
——風の唸りに混じる低いリズム。
1、2、3……1、2、3……。
嵐の音に紛れて、確かに足音が刻まれていた。
「……来てる」
僕の呟きに、誰も笑わなかった。
パールでさえ真剣な顔で短剣を握り、デーネは紙片を胸に抱きしめた。
ライネルは剣をわずかに抜き、岩陰の奥へ視線を送った。
嵐はすぐそこまで迫っている。
影もまた、その中にいる。
砂漠の夜明けは、決して静かには訪れない。
嵐はすぐそこまで来ていた。
砂が叩きつける音が壁みたいになって、岩陰を震わせる。
顔を少しでも外に出せば、砂が皮膚に突き刺さるみたいに痛い。
僕らは小さな空間に肩を寄せ合い、火を焚く余裕もなくただ息を殺した。
「うわ……これ、絶対髪の毛全部砂まみれになってる」
パールが小声でぼやいた。
いつもの調子で言ってるけど、声の奥にかすかな震えが混じっているのに気づいた。
「文句を言っても嵐は止まらん」
ライネルが淡々と返す。
でも彼の握る剣の柄は、砂よりも冷たく硬かった。
デーネは膝の上に紙片を広げたまま、必死に砂を払っていた。
「……吹き込まれると文字が読めなくなる」
「こんな時に読むのかよ」
僕が小声で突っ込むと、デーネは少しだけ笑った。
「読むのよ。だって……恐怖で何も考えられなくなるよりマシだから」
その横顔は、普段の冷静さよりもずっと人間らしく見えた。
外では風の唸りと一緒に、またあのリズムが聞こえた。
1、2、3……1、2、3……。
嵐に混じる足音。
僕の耳にはそうとしか思えなかった。
喉が勝手に鳴る。
(本当に来てるのか? それとも嵐の音が僕を騙してるだけか?)
分からない。
でも、怖いという感覚だけは確かだった。
「……ねぇ、ウルス」
パールがささやいた。
「もし捕まったらさ、どうする?」
声が小さいのに、問いは重かった。
僕は一瞬答えに迷ったけど、やっぱり正直に言った。
「……捕まるのが一番怖い。だから、どうにかして逃げる」
「だよね」
パールが少し笑った。
「逃げるなら任せて。足の速さだけは自信あるんだ」
その笑顔は強がりだった。
でも、その強がりに救われた。
「……私は」
デーネが紙片から目を上げる。
「捕まるくらいなら、ここで倒れる方がマシ」
その言葉は冷たくて、でも真剣で。
僕は息を呑んだ。
「親に決められた道じゃなくて、自分で選んだ道だから。戻るくらいなら、ここで終わった方が……私の選択になる」
震えながらもはっきり言う声に、胸が痛んだ。
ライネルは長く息を吐いた。
「……ふんっ。まだ若いのに立派なもんだ」
剣を握る手に力がこもる。
「追ってくるなら、嵐の中でも叩き返すだけだ」
その低い声に、僕らの呼吸が少しだけ落ち着いた。
僕は刀の柄を握りしめた。
怖い。心臓は爆発しそうにうるさい。
でも、隣に3人がいる。
強がって笑うパール、震えながらも目を逸らさないデーネ、無言で剣を構えるライネル。
(……捕まらない。絶対に)
⸻
嵐は夜明けまで続いた。
外は見えなかったけど、確かに感じた。
嵐の中で誰かが動いていた。
その影は、僕らを見失わない。
太陽が昇る時、砂漠はまた静かになる。
でも、影は消えないまま残るんだ。
夜明け。
嵐は過ぎ去り、砂漠は嘘みたいに静まり返っていた。
耳を塞いでいた砂の唸りが消えると、代わりに心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
岩陰から身を起こすと、全身が砂に覆われていて、自分が砂像になった気がした。
パールが髪を振り払って大げさに叫ぶ。
「最悪! 砂漠美容室にかかった気分! これ取れるの何日かかるんだよ!」
……まあ、笑ってるけど目は眠そうだ。
「……見ろ」
ライネルの低い声が響いた。
指さす先を見て、息が詰まった。
砂の上に、深く刻まれた足跡がいくつもあった。
嵐で消えるはずなのに、風の流れを遮る岩の影に守られ、形を残していたのだ。
「……3人、いや4人」
ライネルがしゃがみ込み、指先で砂をなぞる。
「武具を持った歩き方だ。団の……追跡部隊だろう」
パールが声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
「……ってことは、嵐の間、すぐそこまで……?」
彼女の声が震えていた。
いつも明るいパールでも、この現実は笑い飛ばせないらしい。
デーネは眼鏡を押し上げ、慎重に足跡を見つめていた。
「……やっぱり、いたのね。嵐の音に混じって、確かに足音があった」
小さく吐息をついてから、僕を見た。
「ウルス、あなたも聞いたでしょう?」
「……ああ」
声が自然と低くなる。
幻聴じゃなかった。嵐の中で刻まれたあのリズムは、本当に“彼ら”の足音だった。
喉が乾く。
捕まれば壁に戻される。
昨日、あんなに「戻りたくない」って強がったばかりなのに、今は足がすくみそうになっていた。
パールが僕の肩を軽く叩いた。
「大丈夫。追ってくるなら逃げればいいし、逃げられなかったら戦えばいい。それだけじゃん」
無茶苦茶な理屈なのに、不思議と胸が軽くなる。
こいつの単純さは本当に反則だ。
ライネルは剣を抜き、砂に突き立てた。
「いずれ正面からぶつかることになるだろう。その時までに、俺たちがどれだけ進めるかだ」
デーネは足跡の先を指した。
「彼らの進んだ方向は……私たちと同じ。つまり、行き先はかぶっている」
僕は刀の柄を握りしめた。
怖い。心臓が破裂しそうにうるさい。
でも、もう逃げ場はない。
「……進もう」
口から出た声は意外にも落ち着いていた。
「追いつかれても、戻されるのだけはごめんだ」
3人が頷いた。
その瞬間、嵐の残した静けさが逆に不気味に思えた。
影は消えていない。
むしろ、はっきりと形を持って、すぐ後ろに迫ってきている。
読んでいただきありがとうございました。
面白かった、続きが気になると思ったら評価、ブックマークよろしくお願いします。
筆者がものすごく喜ぶと同時に、作品を作るモチベーションにも繋がります。
次回もよろしくお願いします!




