第135話:風を操る者
丘を駆け上がるほどに、風は荒れ狂った。
砂が顔を叩き、呼吸すら奪う。
一歩ごとに全身が押し戻される。
その中心に、ひとりの影が立っていた。
布をまとった姿は人に似ていたが、風がその顔を晒した瞬間、僕らは声を失った。
瞳は異様な光を宿し、肌には人間にはない模様が走っている。
背にまとわりつくのは、嵐そのもの。
手にした長槍の穂先が雷鳴のように唸った。
「外からの者か……。風を乱したかぎりは、容赦せぬぞ」
声は人の言葉。
しかしその響きは重く、空気を震わせて耳を突き刺した。
「……魔物が、人語を……?」
デーネの瞳が震えを帯びる。
「う、嘘でしょ……」
パールは短剣を構えながら、一歩後ずさった。
槍が大地を叩いた。
突風が爆ぜ、砂と石が渦を巻いて襲いかかる。
「ぐっ……!」
ライネルが短剣で受け流したが、吹き上げる風に体ごと持ち上げられ、岩に叩きつけられた。
僕も刀を抜いた。紫の光を纏わせ、必死に踏み込む。
槍と刀がぶつかり、凄まじい衝撃が腕を砕かんとする。
「……っ!」
押し返すたびに風が重さを増し、呼吸すら奪われる。
「小僧……その光、悪くはない」
異形の男は嘲りとも苛立ちともつかぬ声を漏らし、槍を振り払った。
風刃が奔り、僕とライネルは同時に吹き飛ばされる。
砂に叩きつけられ、肺から息が抜ける。
立ち上がるのがやっとだった。
影は荒い息を吐きながらも、なお揺るぎなく立っていた。
その瞳には怒りと苛立ちが渦巻き、燃えるように鋭い。
「……勘違いするな。我の敵は主らではない」
槍を肩に担ぎ、冷たく吐き捨てる。
「我は探す。我が半身を。……主らに構っている暇はない」
地を踏み鳴らすと、風が爆ぜた。
砂嵐が視界を覆い、次の瞬間には影は消えていた。
風が嘘のように静まり返った。
風鈴の残響だけが丘に鳴り響いている。
「……な、なんだったんだ、あいつ……」
パールが肩で息をしながら呟く。
村人たちが駆け寄り、柱にすがって涙を流した。
「守られた……!」「助かった……!」
だが僕らの胸に残ったのは安堵ではなかった。
あの異形の声、人間のように怒りを吐き散らす姿——焼き付いて離れなかった。
⸻
夜の宴の火を囲んでも、その影が頭を離れない。
パールは肉を頬張って強がっていたが、デーネの顔は沈んでいた。
「……もし、あれがひとりではなく、群れで現れたら」
ライネルは黙って頷いた。
僕は刀の柄を握りしめた。
耳の奥で、あの言葉が何度も響く。
——我が半身。
まだ見ぬ“何か”を探すという、その言葉だけが、不吉に残り続けていた。
夜が明けても、風は静かだった。
昨日あれほど暴れ狂っていた柱の音も、今はただの風鈴の揺らぎに戻っている。
けれど、僕らの胸の中にはまだ嵐が残っていた。
あの異形の影。
人の言葉を話し、槍で風を裂き、僕らを圧倒した存在。
——我の敵は主らではない。
——我が半身を探す。
その声が耳から離れなかった。
⸻
村の広場には、夜明け前から人が集まっていた。
昨日の出来事を口々に話す声は震えていて、誰もが怯えていた。
「……あれは神罰じゃないか」
「いや、魔物が……人語を……」
「でも確かに我らを見逃した……」
子どもたちは母親の背に隠れ、大人たちでさえ落ち着かずに空を見上げている。
まるで再び風が牙を剥くのを待っているかのようだった。
僕らはその光景を見ながら、言葉を失っていた。
「……魔物が、人と同じように喋るなんて」
デーネは腕に抱えた本をぎゅっと握りしめ、顔をしかめる。
「そんな記録はどこにもない。王国の教えでも、魔物は知能を持たないはずなのに……」
「じゃあ、昨日のアイツは何だったっていうのよ!」
パールは短剣を腰に差したまま、苛立つように声を上げた。
でも、その拳は小さく震えていた。
ライネルは黙って腕を組み、低く言った。
「……ヨンカ族。そう呼ばれた者たちの噂を聞いたことがある。天候を操る一族……だが、とっくに滅んだとされていた」
「滅んだはず、ね」
デーネは唇を噛んだ。
「でも、あれを見てしまった以上……信じざるを得ない」
僕は昨日の戦いを思い出していた。
刀で渡り合えたのはほんの一瞬。
でも全く歯が立たなかった。
それでも胸の奥には、奇妙な感覚が残っていた。
恐怖と一緒に、「あれは本当に敵だったのか」という引っかかり。
——我の敵は主らではない。
あの言葉は、ただの虚勢じゃなかった気がする。
怒りに満ちていたけれど、僕らを殺すために戦っていたわけじゃない。
何か別のものを探し、苛立ちをぶつけていただけのように思えた。
⸻
村長が近づいてきた。
皺の深い顔に疲れが滲んでいる。
「昨夜の者……奴は風を乱す常習者だ。ここしばらく、村を脅かしてきた」
その言葉に、僕らは息を呑んだ。
「……常習者?」
デーネが問い返す。
「そうだ。奴はいつも“弟を探す”と叫びながら暴れていく。だが決して人を殺そうとはしない。ただ……村を壊し、柱を折り、風を荒らす」
弟。
僕らの頭に、昨夜の言葉が重なった。
——我が半身を探す。
村長は震える声で続けた。
「奴は名を……スサといった。だが、それ以上のことは分からぬ。ただ、人ではない。人でない者が、人のように怒り、人の言葉を話す」
僕は思わず息を詰めた。
スサ。名前を持つ魔物。
胸がざわついた。
名前を持つ魔物がいるということは……彼らが群れを作り、文化を持っている可能性がある。
「……やっぱりいるんだな」
ライネルが低く呟く。
「外の世界には、俺たちが知らない“村”が……魔物の村が」
僕らは顔を見合わせた。
言葉を話す魔物。弟を探す魔物。そして、魔物の村。
これまで“ありえない”と教えられてきたものが、すべて目の前に現れようとしていた。
⸻
朝日が昇り、風鈴が柔らかく鳴った。
けれど胸に残ったのは安らぎではない。
新しい影が、すぐ近くまで迫っている気がした。
「……行くぞ。ガイド川まであと少しだ」
ライネルの言葉に僕たち頷く。
風は穏やかに吹いていたが、その向こうには嵐の気配が潜んでいた。
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