第129話:踊りの村
追跡者の影を見た夜から、僕は眠りの深さを失っていた。
砂を踏む音が耳に残って離れない。夢の中でさえ誰かに見張られている気がして、体が休まらなかった。
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砂丘を越えた瞬間、まず耳に飛び込んできたのは太鼓の音だった。
重低音が砂の下から響いてくるみたいで、足の裏がじんじん震える。
乾いた砂漠の風に乗って、弦を弾く高い音と人の歌声も混じる。
音だけじゃない。鼻を刺す香ばしい匂いが漂ってきた。焼いた肉、酒、それに香草の強い香り。
頭がくらくらするほどの熱気が、遠くから押し寄せてくる。
「なにこれ……」
思わず声が漏れる。
パールはすでに目を輝かせていた。
「踊ってる! 飯もある! しかも……酒の匂いまで! 最高じゃん!」
やっぱり、食い気か。
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村に近づくと、広場いっぱいに人が溢れていた。
布を頭に巻いた女たちが、手を取り合って足を踏み鳴らし、男たちが太鼓を叩き、子どもがその周りを走り回る。
砂の地面は何度も踏まれて固くなり、踊りの振動で砂埃が舞い上がっている。
夕暮れの光に照らされて、その埃すら金色に輝いて見えた。
その光景に、僕は立ち尽くしてしまった。
壁の中の国では見たこともない、解き放たれた歓喜。
——正直、ちょっと怖いくらいだった。
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「旅人だ!」
ひとりの男が叫んだ。
すると、10人以上が一斉にこちらを振り返る。
その瞬間、笑顔の渦が押し寄せてきた。
「ようこそ!」
「輪に入れ! 旅人も踊れ!」
腕を掴まれた。引きずられるように広場の中央へ。
「ちょ、ちょっと待って! 僕、そういうのは——」
言い訳は最後まで言えなかった。
腰に鮮やかな布を巻かれ、両手には鈴を握らされていた。
完全に逃げ場なし。
「ははっ! やるしかないじゃん!」
パールはもう輪に飛び込み、跳ね回っていた。
「わ、私は遠慮したい……えっ、ちょ、きゃあっ!」
デーネは子どもたちに引っ張られ、結局は真ん中へ。
残された僕だけが、引きつった笑顔を貼りつけて立ちすくんでいた。
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リズムは単純だった。
手を2回叩き、足を3回踏み鳴らす。
パンパン、ドドドン。
……のはずだった。
右足を出した瞬間、隣のおじさんの足を思いっきり踏んだ。
「す、すみません!」
謝る僕に、おじさんは豪快に笑って肩を叩く。
次は手拍子を間違え、後ろの人の頭を全力ではたいた。
「ご、ごめんなさい!」
また爆笑。
顔が熱くなる。なのに、笑い声は温かかった。
恥ずかしいのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ、胸の奥が少し軽くなっていくのを感じた。
必死にリズムを追っているうちに、体が勝手に動き始めた。
太鼓の低音と足踏みの響きが重なり、胸の鼓動と一体になる。
単純なのに、やけに耳に残る。
パンパン、ドドドン。
頭ではなく、骨の奥にまで刻み込まれるような感覚。
……この感じ、前にも……?
どこかで聞いたことがある気がする。
けれど、祭りの熱気に飲み込まれて考えが霞んでいった。
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夜になっても宴は終わらなかった。
炎を囲み、酒と歌と踊りが続く。
僕らは強引に席へ座らされ、焼いた肉と甘い酒を振る舞われた。
パールは目を輝かせて皿を平らげ、デーネは渋々ながらも口をつける。
僕は……正直、半分夢みたいな気分でぼんやりしていた。
横になっても、まだ耳に残っていたのはあのリズムだった。
パンパン、ドドドン。
まるで巨大な何かの足音が、遠くから近づいてくるように。
僕は胸を押さえた。
……これはただの祭りじゃない。
けれど、この違和感を言葉にできるのは、まだずっと先のことだった。
夜が更けても、村の熱気は冷めなかった。
炎の明かりに照らされ、輪になった村人たちはまだ踊り続けている。
笑い声、歌声、太鼓の音。
それなのに僕の耳には、妙な静けさが混じって聞こえていた。
……なにかがおかしい。
リズムは単純だ。手を2回叩いて足を3回踏み鳴らす。
でも、よく耳を澄ますと、誰もが“正確に”同じタイミングで踏んでいる。
ずれがない。音がひとつの塊になって響く。
普通の人の集まりで、ここまで揃うものだろうか。
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炎の陰で、壁にずらりと仮面が掛けられているのに気づいた。
木を削った素朴なもの。無表情で、穴の空いた目だけがこちらを覗いている。
背筋に冷たいものが走った。
「どうしたの?」
隣で肉をかじっていたパールが首をかしげる。
「いや……」
言いかけて口を閉じた。理由をうまく言葉にできない。
その時、村長が炎の前に進み出た。
髭に火の粉を受けても微動だにせず、静かに言った。
「旅人たちよ。踊りは恐れを封じる術だ」
僕らは顔を見合わせた。
「恐れ……?」
デーネが眼鏡を押し上げて訊ねる。
村長は頷き、焚き火の奥を指差した。
「影が砂を越えてきている。恐怖に飲まれれば、我らは散り散りになる。だから皆、踊りで心をひとつにしているのだ」
その言葉に、炎の光が妙に強く見えた。
さっきまで明るく笑っていた村人たちが、一斉に足を踏み鳴らす。
パンパン、ドドドン。
太鼓が鳴り、手拍子が響く。
仮面の目が炎に照らされ、無表情の笑みを浮かべているように見えた。
パールが小声で言った。
「……やっぱ変だよ、この村」
さっきまであんなに楽しそうにしてた彼女の拳は、小刻みに震えていた。
強がっていても、怖さを感じているのが伝わる。
デーネは黙ったまま本を抱きしめ、視線を落としていた。
踊りのリズムが、心臓を縛りつける鎖みたいに感じられる。
僕は布を握りしめて、吐き気を抑えるように息を整えた。
怖い。
でも、目を逸らしたら本当に飲み込まれる。
だから僕は炎を見据えた。
その時だった。
遠くから、砂を蹴る音が聞こえた。
一定の間隔で、重く、冷たい足音。
1、2、3。1、2、3。
村人のリズムに、別の足音が重なる。
「……来たか」
ライネルが立ち上がった。
炎の揺らめきが、仮面の目を赤く染める。
村人たちは踊りを止めない。
けれど、その肩の震えが、恐怖を隠せていないことを物語っていた。
夜明け前、村の太鼓がようやく静まった。
残るのは耳の奥に残響するリズム。
パンパン、ドドドン。
寝返りを打っても、まぶたを閉じても、胸の内側でずっと鳴り続けている。
目を開けると、外はまだ群青色の空だった。
冷えた砂の匂いと、焚き火の残り香が鼻をつく。
体は重たいのに、心だけが妙に冴えていた。
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朝日が昇る頃、村人たちが広場に集まってきた。
眠そうな顔をしているのに、みんな笑っていた。
笑顔は昨夜と同じように明るい。けれど、僕には薄い膜をかぶせたように見えた。
その裏で震える恐怖を、まだ隠し続けているのだろう。
「旅の者よ」
村長が僕らに近づき、両手を広げた。
「ここから先、砂は荒れる。恐怖に囚われるな。恐怖は影を呼ぶ」
その言葉に、背筋がじんと冷えた。
僕は静かに頷いた。
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出発の準備をしていると、子どもたちが駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん! 踊り下手だったね!」
「でも面白かった!」
口々に笑いながら、僕の腕や腰に布を巻きつけてくる。
「こ、こら……また恥かかせる気か?」
必死に布をほどこうとする僕を見て、子どもたちはさらに笑った。
その無邪気さに、胸が締めつけられる。
彼らもきっと怖いはずだ。それでも笑顔を作って送り出そうとしている。
「……また来るよ」
口から自然と出た言葉に、自分でも驚いた。
本当に戻れる保証なんてないのに。
それでも子どもたちは満足そうに頷いて、手を振った。
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村を離れ、砂丘を越えた。
振り返ると、踊りの村が朝日に照らされていた。
遠くから見ても、まだ太鼓の音が微かに響いてくる。
けれどその音に、もうひとつ別の響きが重なっていた。
重い足音。一定の間隔。
1、2、3。1、2、3。
「……追ってきてるな」
ライネルの声が低く落ちる。
パールは唇を噛み、デーネは本を抱きしめる。
僕は刀の柄に手をかけ、息を吸った。
怖い。だけど、もう逃げるだけじゃない。
この足音の先に、必ず“真実”がある。
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