第126話:叫ぶ者、考える者、走る者
視点変えて、クロカ王国内部です
掲示が貼られてから数日。街は静かに見えて、ずっと落ち着かなかった。
赤い紙は雨にも風にも負けず、あちこちで目に入る。見るたび胸がざわつく者もいれば、見ないふりを決め込む者もいた。けれど誰もが、心のどこかで「もう元には戻らない」と知っていた。
⸻
朝。訓練場。
ギウス団長の声が響く。
「声出せ! 振り抜け! そこで止めるな、腰まで使え!」
木剣のぶつかる音が連続して鳴る。
ギウスはいつもより厳しかった。怒鳴る回数が増えたわけじゃない。ただ、ひとつひとつの指示が重い。
若い団員が息を切らすたび、ギウスは目を細める。そこに赤毛の少年の顔を、何度も重ねてしまうのを止められなかった。
(……戻ってきたら、まず俺が殴ってやる。次に抱きしめる)
心の中でだけ、そう呟く。
声は出さない。ただ、稽古を止めない。手を止めると、考えが胸を焼くからだ。
⸻
昼。情報室。
ルナーア団長は机に広げた地図を見下ろしていた。眼鏡の奥の目は、静かな湖みたいに動かない。
地図には赤い印が増えている。目撃情報、誤報、悪質ないたずら。線が交わる場所はひとつもない。むしろ、わざと散らしているみたいだった。
「……情報が“きれい”すぎる」
呟きに、補佐の兵が首をかしげる。
「きれい……ですか?」
「嘘はだいたい雑だ。だが今回は違う。誰かが“乱れないように”整えている。整えた手は——壁の内側の者か、外側の者か」
兵は答えられない。
ルナーアは指で赤印をなぞり、地図を巻いた。
(デーネの母上。約束を守れなかった。……だが、まだ終わりではない)
胸の奥で冷たい針が動くような痛みを飲み込み、彼は立ち上がった。
⸻
夕方。壁の上。
アル団長は風の中に立っていた。眠っていない目は、遠い森の稜線をずっと見ている。
巡回兵が近づくと、アルは短く問う。
「昨夜の光は?」
「南東の谷で松明の列を確認。しかし距離が出ません」
「列、ね……」
アルは目を伏せる。
森で見た“黒い外套の男”。あの足運び、間合い、呼吸。あれは“通ってきた”人間の動きだ。壁の内の剣ではない。
(一体どこへ連れていった)
心の中で呟く。
アルは拳を握り、静かに風を切った。
⸻
夜。書類室。
エルナートは相変わらず紙とにらめっこだ。ランプの火が小さく揺れる。
「掲示は“見たら知らせろ、近づくな”で統一。余白は作らない。……よし」
筆を置きかけて、ふと机の隅に目をやる。
そこに、破れた封筒があった。誰かが落としたのか、口はもう閉じない。
中には、子どもの丸い字で書かれた紙片——。
『ウルス兄ちゃんは悪い人じゃないです。隊のみんなもそう言ってます』
エルナートは目を瞬かせ、そっと封筒を閉じた。
机の引き出しにしまいながら、小さく笑う。
「……黒烏、涙は似合わない」
次の瞬間には顔を上げ、いつもの調子に戻る。
「印刷所、インクを増やせ。黒は黒く。灰色は……濃く」
独り言とともに、仕事は続く。
⸻
そのころ。訓練場の端。
レグは拳を包帯でぐるぐるに巻き、ひとりで杭を殴っていた。もう木はボロボロだ。
汗が落ちる。息が荒い。それでも止まらない。
「……勝手に行きやがって」
吐き捨てるように言う。
けれどすぐ、歯を食いしばって別の言葉に変わる。
「絶対……戻ってこいよ」
視界の端に、掲示の赤が揺れる。
レグはちらりとも見ない。見たら殴る場所を見失う気がしたからだ。
「おい、レグ。手、治せ」
通りかかったギウスがぼそっと言う。
レグは不器用に頷く。目は赤いが、涙は落ちない。
⸻
翌日。団本部前。
掲示板の前に人だかりができていた。新しい札が増えている。
『外部協力者に懸賞金。情報提供は匿名でも可』
紙がはためくたびに、ささやきが増える。
「王都からの指示だって」
「クロカ様、こわいくらい静かだな」
「静かなのが一番こわい」
誰かが笑ってみせる。笑いはすぐに消えた。
⸻
会議室。
アル、ギウス、ルナーアの3人が顔をそろえるのは、ここ数日で何度目か分からない。
「懸賞金はやりすぎだ」ギウスが低くうなる。「子どもまで揺れるぞ」
「揺れるのは“情報”ではなく“感情”だ。感情は燃料になる」ルナーアは淡々と言う。「だが、燃えすぎれば制御できない」
アルは視線を落としたまま、短く言った。
「必要な線は引く。……だが、切りたくない線もある」
その“線”に、それぞれが同じ顔を思い浮かべる。
赤毛、白銀の髪、冷静な眼鏡。
沈黙が一拍、長くなる。
⸻
夜。城壁の影。
エルナートが兵に指示を出している。
「巡回は2人1組。声は小さく、歩幅はそろえて。灯りは隠せ。……よし」
兵が散った後、エルナートは空を見上げた。
雲が流れ、月がにじむ。
(ウルス。お前の似顔絵、少しだけ盛った。目がキラキラになった。すまん。……いや、盛ったほうが覚えられる。善き盛りだ)
心の中で必死に自分を納得させる。
笑って、黙って、また歩く。
⸻
さらに翌日。各区の門。
検問が一段と厳しくなった。荷車の底、樽の中、二重底、隠し蓋。
見張りの目は疲れているのに、油断がない。
「赤毛を見たら止めろ」「白銀を見たら呼べ」「眼鏡の少女を見たら近づくな」
短い命令だけが、冷たく通る。
⸻
本部裏の小庭。
ルナーアは1枚の手紙を見つめていた。差出人は記されていない。
そこには、簡単な地形のスケッチと、短い文が書いてあった。
『北の谷、霧の朝。松明は3本ではなく1本。合図は“間”。見よ』
ルナーアは目を細める。
(……誰だ)
顔を上げると、夕陽が壁の角を赤く染めていた。
手紙を片手でたたみ、内ポケットにしまう。
⸻
訓練場の外れ。
レグは今度は走っていた。
壁の内をぐるぐる回り、呼吸を壊して、また整えて、また走る。
「おいレグ、寝ろ」「水飲め」
声をかける仲間は増えた。
それでも彼は止まらない。止まったら考えるからだ。
(ウルス。パール。デーネ。……絶対、全員で帰ってこい)
胸の中で繰り返す。
足は止まらない。
⸻
同じ夜。会議室。
アルは机の端に指を置き、ぽつりと言った。
「黒い外套の男は、俺の剣を“見た”目をしていた」
ギウスが首をひねる。「どういう意味だ」
「剣は見て、受けて、次に“そこに来る”と分かる時がある。あいつはそれを知っていた。だから一歩、早かった」
ルナーアは静かに頷く。
「内の剣ではない。外の剣だ」
「……連れ去られたのではない。導かれたのかもしれない」
アルはそう言い、すぐ口を閉ざした。言いすぎだ、と自分で分かったからだ。
3人の間に、短い沈黙。
それぞれが別の机に向かい、別のやり方で“同じ場所”を探す。
⸻
深夜。書類室。
エルナートはランプの芯を切り、火を少しだけ明るくした。
机の端の封筒を、もう一度取り出す。
『ウルス兄ちゃんは悪い人じゃないです』
読み返して、ふっと笑う。
封筒を胸ポケットに移し、扉へ向かう。
「黒烏、巡回に出る。黒は夜に映える」
誰もいない部屋で言って、自分で自分にうなずいた。
⸻
こうして数日が過ぎた。
街は静かに暮らすふりをしながら、少しずつ神経をすり減らしていく。
ゲーリュ団もまた、いつも通りを装いながら、いつもよりずっと速く動いていた。
ギウスは叫び、ルナーアは考え、アルは風を見る。
レグは殴り、走り、息を整え、また走る。
エルナートは書き、直し、笑わせ、そして黙る。
赤い札はまだ風に揺れている。
だが、その赤の下で、別の色が静かに広がっていた。
怒りの色。焦りの色。祈りの色。
そして——帰り道を信じる、細いけれど強い色。
誰も口には出さない。けれど、誰も目をそらしてはいなかった。
読んでいただきありがとうございました。
面白かった、続きが気になると思ったら評価、ブックマークよろしくお願いします。
筆者がものすごく喜ぶと同時に、作品を作るモチベーションにも繋がります。
次回もよろしくお願いします!




