第10話:壁の中の歴史
朝よりも夕方の方が、壁は高く見える。
斜めから差す光が影を濃くして、灰色の石が黒ずんだように見えるからだろう。
僕は裏庭の端で、パールに言われた通り、短距離の往復を繰り返していた。
「もっと膝を高く! それと腕、振って!」
パールは両手を腰に当てて、走る僕を睨んでいる。
彼女の銀色の髪は夕日に光って、風に流れていた。見た目はやたら爽やかだけど、言ってることは体育教師だ。
「ひっ、ひっ……!」
息が切れる。体力が尽きかけた時、背後でドスンと重い音がした。
振り返ると、レグが大きな木の丸太を肩に担いでいる。
「持ってきたぞー! 今日はこれで腕も鍛える!」
「……走りじゃなくなるんだけど」
「強くなるには全部だ!」
彼はそう言って、丸太を地面に落とした。砂埃が舞い、夕日の赤と混ざる。
その埃の向こうで、パールが口元を緩めた。
「いいじゃん、レグ。ついでに私もやる」
「お、やる気だな。じゃあウルス、お前から――」
「えっ、僕から!?」
「1番弱いとこから潰す!」
レグの笑顔は、本人にとっては励ましなんだろうけど、受ける側にとっては脅迫に近い。
僕は半ば流されるように丸太を持ち上げ……半分も上がらなかった。腕が悲鳴をあげる。
「おお、まだまだだな! でも最初はそんなもんだ!」
レグは軽々と持ち上げて見せた。横でパールが腕を組んでうなずく。
「明日もやろう。明日は背筋」
「え、毎日やるの?」
「当たり前」
……なんでこう、周りの人間はみんな前向きなんだろう。
◆
その日の夜。
寮の部屋の窓から、壁の影が見えた。月明かりに照らされて、頂上の見張り台がぼんやり浮かんでいる。
昼間の鍛錬のせいで全身が重い。椅子に座っても背中が痛い。でも机の上には、パール特製の過去問が広がっている。
鉛筆を握った瞬間、廊下の向こうで小さな足音がした。
スッ、スッ、とゆっくり近づいてきて――僕の部屋の前で止まった気がした。
心臓が1拍、大きくなる。
でも、ノックはない。
気のせいだと思いたい。でも耳の奥がまだ“そこに誰かいる”と告げていた。
窓を閉め、鍵をかけた。
その夜はなかなか眠れなかった。
◆
翌朝。授業の初めに、歴史の先生が教室に入ってきた。
背が高く、灰色の髪を後ろで束ね、長いマントを羽織っている。声は低くてよく通る。
「今日は『王国史・基礎』だ」
黒板に大きく『クロカ王国』と書かれる。
僕は鉛筆を握り直した。デーネの言う通り、筋を追って覚える。数字より、まずは流れ。
「ガメア大陸における唯一の国家、それがクロカ王国だ。
王国は大きな壁に囲まれており、これはおよそ300年前、外からの侵入を防ぐために築かれた」
先生のチョークが壁の絵を描く。四角く囲まれた内側に、街や川の線が引かれていく。
「東に行けば自然が豊かになる。だが同時に魔物も多く、人はあまり踏み入らない。
壁は、人を守る盾であると同時に、王国の秩序を守る境界でもある」
“秩序”という言葉が、黒板よりも強く耳に残った。
「我らが信じる唯一神はゲルリオン数。
かつて天から降りてきた7匹の神獣からこの地を守った英雄、ゲルリオンが創始者であり、我らの信仰の中心だ」
ゲルリオン。名前だけは小さい頃から聞き慣れている。
けれど、その物語は何度聞いても遠くの出来事のようだ。先生は淡々と続ける。
「ゲルリオンは神力者を集め、ゲーリュ団を結成。
この団がなければ、我々はとっくに神獣に食われ、国は滅んでいただろう。
よってゲーリュ団は王国の盾であり、外の世界に対する唯一の戦力だ」
僕は少しだけ、背筋を伸ばした。
――壁の外へ出るためには、ゲーリュ団に入らなければならない。
そのためには、強くなるだけじゃなく、こういう“物語”を理解しておく必要がある。
「クロカ王国の西には高位ウェズダ人の住居区がある。彼らはかつてゲルリオンの側近であり、今も地位を保っている。
北には武具職人の街、南は未開拓地だ。食は主に魚。農作は困難だが、保存技術によって民は飢えをしのいできた」
チョークの音が止まり、先生は生徒たちを見渡した。
「この国の歴史と秩序を理解することは、神力の鍛錬と同じくらい重要だ。
試験では、数字だけでなく、この“意味”を問う」
意味。
僕は思わずデーネの方を見た。彼女はまっすぐ黒板を見ていて、眉ひとつ動かさない。
◆
放課後、また鍛錬の時間になった。
裏庭の砂地を走る。レグが丸太を担ぎ、パールが腕立てをしている。
僕は午前の歴史の授業が頭から離れないまま、汗を流していた。
「なぁウルス」
レグが丸太を下ろして言った。「ゲルリオンって、本当に神獣倒したのかな?」
「え……授業でそう言ってたじゃん」
「いや、俺もそう習ったけどさ……なんか、違う話も聞いたことがある気がするんだよな。昔。子どもの頃」
パールがピタリと動きを止めた。
風が、壁の上を滑っていく音がやけに大きく聞こえた。
「違う話って?」
「忘れた。夢だったかもしれねぇし」
彼はそれ以上言わなかった。
けれど、その1言は、砂の上にぽたりと落ちて、じわりと広がる水みたいに、僕の中に残った。
――違う話。
鍛錬が終わり、寮に戻る途中で、あの黒い外套をまた見た。
今度は、廊下ではなく壁の上。
月の光の下で、影はじっとこちらを見下ろしていた。
目は見えない。でも、確かに“視線”だけは届いていた。
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