第123話:悪くない背中
村を出てから3日目。
背中の荷物の中で、干物の匂いがついに服まで染み込んできた。
谷に着く前に僕らが干物になるんじゃないかと、本気で心配している。
初日はひたすら平原。昼は日差しで溶けそうになり、夜は冷えて眠れない。
パールは「寒い」と言いながら焚き火の前で干物をあぶり、デーネはその横で古地図を広げてブツブツ何かをつぶやく。
僕はと言えば、干物の匂いに包まれながら寝袋で縮こまっていた。
——夢にまで魚が出てきた。
2日目は丘越え。やたら足場が悪く、靴底の石が僕の足を殺しにきた。
途中でパールが「これショートカット」と言って獣道に入ったら、斜面が崩れて全員転げ落ちる。
その後、デーネに30分間説教される。
パールは全く反省してなかったが、なぜか僕まで怒られた。理不尽だ。
3日目の朝、例の魚の頭がとうとう袋からはみ出してきた。
しかも、ライネルが「そろそろ腐るな」と平然と言い放った。
捨てようとしたら、「いや、それは武器」とパールが止めた。
……武器として使う未来が来ないことを祈る。
道中、僕らは小さな集落や旅人とすれ違った。
パールは初対面でも遠慮なく話しかけ、デーネは必要最低限だけ言葉を交わし、僕はその間で荷物持ちと通訳みたいな役回りになる。
中には「南の谷? やめときな」と真顔で忠告してくる人もいたが、僕らは止まらなかった。
昼過ぎ、遠くに谷の稜線が見え始める。
深くえぐれた地形、その向こうには濃い緑の森が広がっている。
僕は肩の荷物を少し持ち直した。魚の頭がごつっと背中に当たる。
……谷に着くまでに、あの魚の頭の意味を理解できる日は来るんだろうか。
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谷の入口に着いたのは昼過ぎだった。
遠くから見たときは「ちょっと深い川の跡かな」くらいに思っていたけど、近づくと桁違いだった。
地面が裂けて、そのまま飲み込まれそうなほどの深さ。谷底には森がぎゅっと詰まり、濃い影が溜まっている。
僕らはその影の手前で立ち止まった。空気が違う。湿っていて、ほんの少し生臭い。
「……なあ、あの魚の頭って、もしかしてこの匂いと関係ある?」
僕が背中の袋を指すと、パールが平然と言った。
「あるわけないじゃん。あれは魔物用よ」
「魔物用って、具体的にどう——」
「だから魔物が出たら、こうやって——」
パールは魚の頭をぶんぶん振り回し始めた。魚の目がこちらを睨んでいるようで、思わず僕は後ずさる。
デーネは眉間を押さえて溜息をついた。
「やめなさい。魔物以前に、私たちが先に倒れる」
「倒れないって。これぞ究極の生存戦略」
「……生存よりも人間関係を破壊する戦略のように見えるけど」
谷の手前で、もうチーム内の空気が危うい。
ライネルはというと、谷の縁に立って下を覗き込んでいた。
「ここから道は2つだ。安全だけど遠回りの崖道か、危険だけど速い吊り橋」
「安全でお願いします」
僕が即答すると、パールがニヤリと笑う。
「えー、せっかくなら吊り橋でしょ。スリルあって面白そうじゃん」
「面白さは求めてない!」
「いや、面白さは大事だぞ」
ライネルまで真顔で言う。
——この人たち、僕の命を何だと思ってるんだろう。
結局、多数決で吊り橋ルートに決まった。
板はところどころ外れ、下は谷底まで一直線。風が吹くたび橋が揺れる。
パールは先頭で鼻歌を歌いながら進み、ライネルは何事もなかったように歩く。
僕は手すり代わりのロープを掴みながら、一歩ごとに心臓の寿命が削られていくのを感じていた。
後ろではデーネが落ち着いた声で、でも明らかに早口で言う。
「橋の構造的に、この揺れは……計算上は耐えられるけど……計算上は」
「計算上って2回言ったよね!?」
橋を渡り切ったとき、僕は膝が笑って立ち上がれなかった。
パールはというと、例の魚の頭を取り出して掲げた。
「これで魔物が出ても安心!」
その瞬間、谷の奥から低い唸り声が響いた。
全員が固まる。
「……ねえ、これ、本当に安心?」
「たぶん」
パールが笑った。
低い唸り声は、谷全体を震わせて響いた。
耳に届いた瞬間、肌がざわりと逆立つ。
木々の影の奥、黄色い光が4つ、いや……8つ、同時に揺れた。
目だ。狼だ。——普通のじゃない。背丈は人間の腰まであり、肩から尾まで黒い棘のような毛が逆立っている。
「……ライネル、あれって」
「シルバーファング。速い、牙が鋭い、群れで狩る。おまけに頭が良い」
「嫌な情報を一息で詰め込まないで!」
僕は叫びながら魚の頭を握りしめた。
狼たちは2匹ずつに分かれ、ゆっくりと円を描くように近づいてくる。
「ウルスとパールは右。俺とデーネは左だ」
ライネルが短く指示を出す。
「おい、なんで右側が3匹——」
言い終わる前に、魚の頭から滴る汁が土に落ち、その瞬間3匹が一斉にこちらへ突進してきた。
「これおとりじゃん!!!」
「違う違う、餌よ!」
パールが走りながら笑っている。
「結果は同じだろ!!」
森の中を全力で駆ける。枝が顔をかすめ、足元の土が崩れる。
後ろから牙がカチリと鳴る音が聞こえるたび、心臓が喉にせり上がってくる。
パールは先頭を走っていたが、急に「っ!」と短く声を上げて足を止めた。
「どうした!?」
「足、捻った……っ」
見ると、右足首を押さえて苦い顔をしている。
「走れない?」
「……無理」
すぐに僕は背を向け、しゃがみ込んだ。
「乗れ」
「は? 何言って——」
「いいから早く!」
パールは一瞬ためらったが、後ろから迫る唸り声で観念したのか、勢いよく僕の背に飛び乗った。
その瞬間、重みが肩にずしりとかかる。だけど、不思議と足は止まらなかった。
昔なら、こんなの無理だった。出会った頃の僕は、剣を振るどころか、自分の荷物すら満足に持てなかった。
でも今は——走れる。息は荒いけど、足は地面を確かに蹴っている。
パールの腕が首に回され、熱い息が耳元にかかる。
「……あんた、重くないの?」
「……いや、重い。でも……落としたくない」
自分でも何を言ってるのかわからなかった。ただ、そうとしか言えなかった。
パールは少しだけ黙って、それから小さく笑った。
「……あんた、ほんっと変わったね」
その声は、いつもの棘みたいな調子じゃなくて、少しだけ柔らかかった。
後ろから迫る足音と息遣いが、少し遠のいた気がした。
でも、きっと気のせいだ。まだ逃げ切れてはいない。
「しっかり掴まってろ! 絶対振り落とさない!」
「振り落とされたら噛むから」
「それはやめて!」
そう叫びながら、僕は全力で森を駆け抜けた。
背中の温もりと、背後の殺気。両方を抱えて、前へ前へと。
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森を抜けた瞬間、目の前に広がったのは谷だった。
切り立った崖と崖を繋ぐのは、頼りなさげな吊り橋。板はところどころ欠け、縄は毛羽立ち、谷風に揺られて悲鳴を上げている。
「……これ、渡るの?」
「他に道はない!」
背後ではシルバーファングの足音が地面を削り、息が荒く響く。
谷風が頬を切り、橋を揺らすたび、板がミシミシと軋んだ。
パールを背負ったまま橋に一歩踏み出す。足元の板が沈み、縄が腕に食い込む感触が生々しい。
「落ちたらどうする気?」
「落ちないって信じてる!」
「根拠は?」
「信じるしかないって状況!」
「信じる対象としては不安すぎるわね」
橋の半ばで、前方から甲高い唸り声が響いた。
銀毛の狼——待ち伏せ。
背後からはさらに3匹の低い咆哮。
逃げ場は、ない。
「下ろして」
「え?」
「いいから! あんただけじゃ無理!」
橋の真ん中でパールを下ろすと、彼女は短刀を抜き、片足を庇いながらも前に出た。
「背中、守る」
「……わかった」
僕は腰の刀を引き抜いた。鞘走りの音が、吊り橋の軋みと重なって響く。
鉄の冷たさが掌に伝わり、神力が刀身に沿って薄く紫に走った。
前方の狼が飛びかかる。僕は一歩踏み込み、刀を横に払う。
刃が毛皮を裂き、血が谷風に散った。衝撃は腕に重く残るが、狼は踏みとどまり、逆に牙を剥いた。
背後からは爪音。パールの短刀がそれを弾き、金属音が谷に跳ね返る。
「こいつら、魚の匂いで完全にスイッチ入ってる!」
パールが叫ぶ。
「じゃあ……これで!」
袋から魚の頭を取り出し、谷底へ投げた。
……が、狼たちは一瞬軌道を見ただけで、すぐこちらに視線を戻した。
「嘘だろ!? 長老の話、全然信用できなかったやつ!!」
「ほら、“たぶん”って言ってたでしょ」
パールが半笑いだ。
同時に3匹が後方から飛びかかる。僕は振り返りざまに刀を半月状に振るい、1匹の肩口を裂いた。残りの2匹はパールが受け流すが、足元の板が割れ、彼女がバランスを崩す。
反射的に腰を落とし、片手で彼女の腰を引き寄せる。
「……離すなよ!」
「そっちこそ!」
背中合わせのまま、僕たちは橋の上で動いた。刀の切っ先は絶えず揺れる橋板を踏みしめ、神力を纏った刃が銀毛の間を裂く。
足元の揺れ、谷底の風圧、そして背中越しの温もり——全部が意識の端で混じる。
「絶対、ここで終わらせる!」
「じゃあ勝ったらまたおんぶしてもらおうかしら」
「それ、戦う前からハードル高くない!?」
3匹が同時に迫る。
僕は踏み込み、正面の牙を斜め下から切り上げた。衝撃で腕が痺れる。
残る2匹の爪が左右から迫るが、パールの短刀と僕の逆袈裟が同時に閃き、甲高い悲鳴が谷に吸い込まれた。
風が止んだように感じたのは、戦いが一瞬で終わったからだった。
息を整えながら刀を納めると、パールが少しだけ笑って言った。
「……やっぱ、成長してるわね」
「褒められてる?」
「多分」
背中合わせのままでも、その声色だけで頬が熱くなるのがわかった。
橋の上には、血と毛皮の匂いと、まだ消えない狼の体温が残っていた。
風がそれを谷底へ流しながら、僕たちの間だけに静かな空気を置いていく。
刀を納め、深く息を吐いた瞬間、背中越しにパールが力を抜いたのがわかった。
「……ふぅ。やっぱり、魚の頭なんて投げても意味なかったじゃない」
「いや、投げなかったらもっと危なかったかも……たぶん」
「“たぶん”って便利な言葉よね」
口調はいつも通りだったけど、息がまだ乱れていて、それが妙に耳に残った。
ふと、パールが振り返って僕の顔を見た。
その視線が、普段みたいに挑戦的じゃなくて……少し、探るような感じだった。
「……あんた、出会った頃は私よりひょろっこくて、荷物すら持たせられないって思ってた」
「ひどい」
「でも、今は——」
言葉がそこで途切れ、彼女は目を逸らした。
吊り橋の下で谷風が鳴った。
その音に紛れて、小さな声が落ちる。
「……まあ、悪くない背中だった、ってこと」
僕はその意味を考えないように、ただ橋の先を見た。
でも耳の奥では、さっきの言葉が何度も反響していた。
「さ、行くわよ」
パールが立ち上がる。その動きが少しぎこちないのは、まだ足を庇っているせいだ。
僕は無言で彼女の腰に手を回し、再び背中に担ぎ上げた。
「ちょっと、またおんぶ?」
「足、大事にしないと」
「……調子乗らないでよ」
そう言いつつも、腕にかかる重みは拒むようには感じなかった。
背中から伝わる鼓動が、戦いの後の高鳴りなのか、それとも——
それを確かめる前に、僕たちは橋を渡り切り、谷の向こうの影へと消えていった。
谷を渡り切った僕たちは、岩陰に腰を下ろした。
パールの足を確認すると、さっきより腫れは引いていたけれど、まだ踏み込むには無理そうだ。
「ま、歩けなくはないけど……」
「けど?」
「……せっかく背負ってくれるなら、このままでもいいかなって」
「いや、治ったなら歩け」
「冷たい!」
そんなやり取りをしていると、反対側の崖道から足音と、派手な金属音が近づいてきた。
姿を現したのはライネルとデーネ。
ライネルの肩には巨大な狼の死骸が1匹分、ずるずると引きずられていた。
その後ろでデーネは本の表紙で顔を仰ぎながら、眉間に皺を寄せている。
「そっちは3匹相手だったな?」
ライネルが淡々と聞く。
「うん。こっちは1匹。でも……」
デーネが僕らを指差した。
「なんでおんぶしてんの」
「足を捻ったんだ」
「ふーん」
その「ふーん」に、何か含みがある気がして僕は思わず視線を逸らした。
「で、その狼の死体どうするんです?」
僕が尋ねると、ライネルは平然と答えた。
「村に持ち帰って干す」
「また魚じゃなくて肉か……」
「魚より飽きない」
いや、魚だって調理法変えれば——と思ったけど、口には出さなかった。
その時、デーネがずいっと僕の正面に立った。
「……あんた、さっきの戦いで刀振るとき、ちゃんと間合い見てた?」
「見てたよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ今度、私にもその距離で守ってもらおうかな」
軽く笑ったデーネの声に、パールが「ちょっと!」と横から割り込んできた。
「なに勝手に護衛予約してんのよ!」
「別にいいじゃない」
「よくない!」
僕は2人の間でただ汗をかくばかりだった。
「……ほら、もう行くぞ」
ライネルが狼の死体を担ぎ直し、先頭に立つ。
結局、僕はパールを再び背負い、デーネは後ろから妙ににやにやしながらついてくる。
南の谷の奥へ進むその道は、戦いの余韻と、よくわからない火花でやたら暑かった。
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日が沈む前に、谷の奥にある岩棚の下を見つけ、そこで夜営することにした。
風は岩で遮られ、焚き火の煙も上に抜ける。魔物の気配も今のところなし。
ライネルは淡々と火を起こし、持ってきた干し肉と香草を鍋に放り込む。
僕とパールは水汲みのために少し離れた湧き水へ向かった。
「……あんたさ」
水面にしゃがみこんで、パールが唐突に切り出す。
「今日の戦い、悪くなかったよ」
「お、おう」
「前はおんぶなんてしたら、私の方が先に着くくらい遅かったくせに」
「そんなこと……あったな」
「……」
沈黙。湧き水の流れだけがやけに大きく聞こえる。
僕は無意識に背中の感触を思い出して、慌てて水を汲む作業に集中した。
戻ると、焚き火の横でデーネが本を閉じ、僕らをじっと見ていた。
「ふーん。水汲みに行ってたはずなのに、やけに時間かかったね」
「ただの水汲みだ」
僕は即答した。
「へぇ〜、水ってそんなに口角が上がるものなんだ」
「上がってない!」
パールは「あんたほんと余計なこと言うわね」と睨んだが、耳が赤いのは焚き火のせいじゃない。
ライネルが鍋の蓋を開けた。香草と肉の匂いが漂い、空腹を直撃する。
「食うぞ」
全員が木の皿に肉を盛り、熱々を頬張った。
「うまっ……これ、魚より好きかも」
パールが口いっぱいに肉を詰めながら言う。
「魚もいいけど、こういうのは力つく感じがするね」
デーネが笑って答え、僕の方を見やる。
「ね、ウルスももっと食べなよ。明日も背負うかもしれないし」
「いや、明日は背負わない」
「ふーん」
その「ふーん」がまた妙に含みがあって、パールが「背負わないって言ってんでしょ!」と食い気味に返す。
結局、食事中ずっと2人に挟まれる形になり、肉の味はちゃんとわかったけど、胃の奥は妙に落ち着かなかった。
食後、各自の寝具を敷く。
パールは「私が見張り一番やる」と言ったが、ライネルに「足治してからにしろ」と一蹴される。
代わりに僕が最初の見張りに立ち、焚き火の明かりの外で谷の暗闇を見つめた。
背後から、パールとデーネの笑い声が小さく響く。
何を話しているかは聞き取れない。でも、たまに僕の名前が混じるたび、胸の奥がむず痒くなった。
谷の夜は冷たい。けれど、背中にはさっきの体温がまだ残っている気がした。
読んでいただきありがとうございました。
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