第121話:南の谷とたぶんの魚頭作戦
村を出てしばらくは、空気がやけに澄んでいた。
朝の光が砂の斜面に斜めに差し、僕たちの影が長く伸びている。
背中の荷袋からは、干物と固焼きパンと……例の巨大魚の頭の匂いが、混ざって漂ってきた。
歩きながら、僕は後ろをちらっと振り返る。
村はもう小さな点になって、当然ルナの姿も見えない。
でもあの人の笑い声は、なぜか耳に残っている。あの甲高くも軽快な声は、しばらくは忘れられそうにない。
「……で、魚の頭はどうするつもり?」
横を歩くデーネが、僕の背負っている袋を見て言った。
「どうするもこうするも、長老が“投げれば助かる”って」
「“たぶん”でしょ」
「“たぶん”でも、ないよりはマシだ」
「“たぶん”でも、死ぬ可能性は残る」
……この会話、今のうちに切り上げないと、論破される未来が見える。
前を行くパールが、干物を口にくわえながら振り向いた。
「でもさ、谷の魔物って魚好きって本当かな? だってこの辺、川ないじゃん」
「パール、歩きながら食べるなって」
「食べながらでも歩ける訓練だよ。ほら、戦場でも食べることは生き残るために重要って——」
「それ昨日の酒場でも言ってた!」
僕は反射的に言った。
昨日、酔ったパールが干物を両手に持って「二刀流の干物術!」と叫んでいた光景が蘇る。あの時のデーネの冷たい視線は、きっとこの先も忘れられない。
少し先で、ライネルが足を止めた。
「……静かに」
その声に、僕も息を潜める。
風の音の向こうで、草むらがガサガサと揺れていた。
緊張が走る。魔物か? それとも盗賊か? 昨日の村で誰かが付けてきたのか?
——ガサッ。
草むらから飛び出してきたのは……1匹の小さな山ヤギだった。
全員の肩から力が抜ける。
「……魔物じゃなかった」
僕は安堵の息をつく。
「いや、魔物よりタチ悪いかも」
パールが低くつぶやく。
「なんで?」
「ヤギって干物とかパンとか、すぐ奪うから」
その瞬間、山ヤギの目がギラリと光った(ように見えた)。
次の一瞬、背中の袋がガタッと揺れる。
「ちょ、待て!」
僕は袋を押さえる。
でもヤギは信じられない速さで魚の頭に噛みつき、ずるずると引っ張り出そうとしていた。
「おい、それは長老の……!」
「離せ! 命綱だぞそれは!」
僕とヤギの綱引きが始まる。後ろからパールが「もっと腰を落として!」「引き付けて!」と応援なのか指示なのかわからない声を飛ばす。
デーネは……腕を組んで見ている。
「助けてよ!」
「“たぶん”役に立たない物に命をかける意味、ある?」
「ある! かもしれない!」
「かもしれない、ね」
結局、ライネルが一歩で近づいてヤギの角を軽くつかみ、ふっと押し返しただけで、ヤギはひょいと後ろへ跳ねて逃げていった。
「……僕らの戦力差、ひどくない?」
僕は思わず呟いた。
「経験値の差だ」
ライネルはそれだけ言って、再び歩き出す。
歩きながら、僕は妙に胸がざわついた。
昨日の村、あの笑い声、ルナの強引な距離感……それらが、なぜか温かい感覚と一緒に残っている。
村を出る時、あの人が「帰ってきたらまた飲もう」って言ったとき、僕は笑って手を振った。でも本当は、ああいう場所が、この先の旅で何度あるだろうって考えていた。
きっと少ない。だからこそ、覚えておくべきなんだ。
「ウルス、どうしたの?」
デーネの声に、僕は我に返る。
「いや……なんでもない」
「顔がちょっと緩んでた」
「緩んでない」
「緩んでた。たぶん」
「“たぶん”はやめろ」
そんな掛け合いをしながら、僕たちは南の谷へ向かって歩き続けた。
背中の袋は重い。でも不思議と、その重さが嫌じゃなかった。
***
南の谷へ向かう道は、村を離れてすぐに細くなった。
片側は乾いた岩肌、もう片側は砂の斜面がだらだらと落ち込んでいて、下からは乾いた風が吹き上がってくる。
背中の荷は村人の“善意”でやけに重い。干物と固焼きパンの袋、危険な酒の瓶、そして——魚の頭。
僕は背中でその存在感をひしひしと感じていた。
魚の頭は見た目だけじゃなく匂いも主張がすごい。風が吹くたびに、かすかに生臭さが顔をかすめる。
「……なあ、これ本当に役に立つと思う?」
思わず口に出すと、パールが前を向いたまま肩を揺らす。
「知らない。けど、村の長老が“たぶん大丈夫”って言ってたじゃん」
「“たぶん”が不安なんだよ」
「じゃあ試してみる?」
「何に!?」
デーネがため息をつく。
「何にでも投げる気なんでしょう、この人は」
「違う、何でもじゃない。魔物限定よ」
「限定って言っても、魔物の定義広すぎるから」
その会話を聞いていたライネルが、珍しく口を挟んだ。
「……俺は投げたくない。匂いがきつい」
「いや、持たされてるのライネルじゃないでしょ」
「でも風向き次第で俺にもくる」
全員で顔をしかめた。
そんなやり取りをしていると、谷の入り口が見えてきた。
岩がせり立ち、薄暗い影の中にひんやりした空気が溜まっている。足を踏み入れると、さっきまでの砂漠の熱気が嘘みたいに消えた。
遠くで水が滴る音がして、微かに苔の匂いがする。
「……で、ここで魔物に遭遇する確率は?」
僕の問いにデーネが即答する。
「八割」
「高すぎ!」
「二割は運がいい場合」
「それも怖いな……」
と、その時だった。前方の岩陰から、低い唸り声が響いた。
パールが短刀を抜き、デーネが後ろへ下がり、ライネルが静かに立ち位置を変える。
岩影から出てきたのは、犬のような体に爬虫類の鱗を持つ、背丈ほどの魔物だった。
「魚頭、出番じゃない?」
パールがにやっと笑う。
「いやいやいや、まだ早いだろ!」
「どうせ使うんだから、今のうち試しておくべき」
「何その実験的発想!」
しかし、僕の抗議も虚しく、パールは僕の背から魚頭をひったくった。
「ほら、いくよ!」
投げられた魚の頭は見事な弧を描き、魔物の足元に落ちた。
——そして、魔物はそれをじっと見たあと、鼻を近づけ……全力で踏み潰した。
「……これ、逆効果じゃない?」
「いや、まだよ」
パールが固唾を飲む。
次の瞬間、魔物は踏み潰した魚頭を咥えて、ものすごい速さで谷の奥に走り去っていった。
残された僕らの間に、妙な沈黙が流れる。
「……逃げられた、ってことでいい?」
デーネが首を傾げる。
「いや、たぶん追いかけられてる」
ライネルがぼそっと言った。
その言葉の直後、奥から同じ唸り声が二重三重に重なって響いてきた。
僕は両手で頭を抱える。
「たぶん安全ってこういう意味だったのかよ……!」
パールは肩をすくめ、短刀を握り直した。
「ほら、ウルス。実験は成功よ」
「誰が成功って言った!」
谷の奥から迫る複数の影。僕らは息を合わせて武器を構えた。
荷物の中で、残りの干物がカサリと鳴る——たぶんこれも餌になる。
笑えるのか笑えないのか分からない状況に、僕は半笑いのまま息を呑んだ。
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