第118話:裏切り者のレッテル
翌朝、森の隠れ家を出た瞬間、空気の匂いが変わった。
湿った土と木々の香りが濃くて、壁の中の整った匂いがどれだけ人工的だったのかを思い知らされる。
吐く息が白く揺れ、葉に付いた露が陽の光を反射してきらめいていた。
——レグは、今どうしてるだろう。
僕たちはあの夜、森でライネルに連れ去られた。
まるで狩人に捕らえられた獣みたいに。
レグは、あの後どう思っただろう。
怒鳴りながらアル団長に食ってかかってるんじゃないか。
もしくは……何もできない自分を責めてるんじゃないか。
レグの顔を思い出すたび、胸が痛む。
ライネルは黙ったまま先頭を歩く。
背中に揺れる外套が低木の枝をかすめるたび、小さな音が森に溶けていく。
その歩みには無駄がなく、一歩ごとに地面の高低を読み切っているようだった。
「音を立てるな」
低い声が森の空気を震わせる。
僕らは無言でうなずき、足の置き場を慎重に選びながらついていく。
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森は壁の中で見たものとはまるで別世界だった。
道なんてない。ただ獣道のような、踏み固められた痕跡が辛うじて“進むべき方向”を示している。
足元には枯れ枝や湿った苔が広がり、うっかり踏み込めばすぐに音を立ててしまいそうだ。
パールは短刀を腰に下げたまま、猫のように身軽に進んでいる。
デーネは両手を広げ、枝や茂みを避けながらゆっくり歩いていた。
僕はといえば、肩に寄せた神力を足首まで流し込み、足音が響かないように気をつけるのに必死だった。
「足、遅い」
ライネルがぼそりと呟く。
「……うるさいな」
「だが悪くない。お前ら、思ってたより柔らかい歩き方してる」
褒められているのか分からない。けど少し胸の奥が熱くなった。
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森を進むにつれて、空気はさらに冷たくなる。
木々が高く、空を覆って陽光を遮っていた。
時折、遠くで獣の鳴き声がする。
壁の中で聞いたことのない声。低く、湿った音。
デーネが小さく息を呑む音がした。
「心配するな」
ライネルが言う。
「あれは群れじゃない。独りの音だ」
彼は腰の短剣を軽く叩いた。
「群れなら、俺たちはもう囲まれてる」
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彼の後ろ姿を追ううちに、森は徐々に開けていった。
やがて、小さな川のせせらぎが耳に届く。
水音の方へ近づくと、そこには倒れた大木で作られた自然の橋があった。
「一本ずつ渡れ」
ライネルは言うと、迷いなく大木を渡り始めた。
彼の足取りは軽く、まるで大木と一体化しているようだ。
パールが続き、デーネが慎重に進む。僕も息を止めて足を置き、ようやく向こう岸に辿り着いた。
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川を越えると、空気の匂いが変わった。
森の奥の湿った匂いに、わずかに焚き火のような煙の香りが混じっている。
「……誰かが近くにいる?」
僕の呟きに、ライネルは頷いた。
「もうすぐだ」
森を抜けると、低い岩棚の向こうに広い窪地が見えた。
そこには風に揺れる煙があり、人の気配が確かにあった。
「ここから先は慎重に行け」
ライネルの声は低く静かだった。
パールが短刀に手をやり、デーネはペンを握る指先に力を込めている。
僕も無意識に刀の柄を握った。
でも、森の風は柔らかく頬を撫でた。
壁の中の乾いた風とは違う。
ここから先には、知らない世界が広がっている。
胸の奥が緊張と興奮でざわつく。
「——行こう」
ライネルの声が合図になった。
僕らは森の影を縫い、集落の入口へと続く小道へ足を踏み入れた。
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朝の街はまだ眠っていた。
屋根の上に薄い霧がかかっている時間帯に、本部の鐘が低く響く。
その音は訓練の合図じゃない。胸の奥に重く響く、不吉な音だった。
団員たちは顔を見合わせ、訓練場の声が一気に小さくなる。
空気がピリピリと張り詰めていく。
廊下を駆け抜ける足音、紙のこすれる音、短い命令の声。
まるで見えない網で街ごと締めつけられているみたいだ。
会議室の扉が開く。
そこに立っていたのはアル団長だった。
夜の気配をまとったような冷たい顔で、背筋をまっすぐに伸ばしている。
「……やられた」
その一言に、誰もが息を呑んだ。
アルは表情を変えずに報告を続ける。
「北の森の立入禁止区域で……ウルス・アークト、パール・アジメーク、デーネ・ボライオネアの3人が何者かに連れ去られた。黒い外套の男。動きは異常だった。私ひとりでは止められなかった」
部屋がざわめきに包まれる。
“アル団長が止められなかった”
その事実だけで、背筋に冷たいものが走った。
ギウス団長は机の端を握り、血管が浮き出るほど拳に力を込めている。
「黒外套……ふざけやがって……!」
ルナーア団長は窓際に立ち、眼鏡の奥で目を細めた。
その目には冷静さがあったが、奥底にある悔しさを隠せない。
「3人の行動記録は?」
ルナーアが低い声で問うと、参謀が書類をめくりながら答える。
「最近、訓練以外の時間で不明な動きが数回。記録庫の閲覧申請も……」
「ほら出たよ“記録庫”……!」
ギウスが舌打ちをする。
「あそこは開けるなって言われると開けたくなる場所だろうが!」
アルは机の端に手を置き、冷静な声で告げる。
「叱責は後回しだ。今は動線を塞げ。……“裏切り者”の疑いで指名手配を出せ」
静寂が落ちる。
“裏切り者”——その言葉は街を一瞬で凍らせる。
伝令たちが慌てて飛び出していった。
しばらくすると、扉が控えめにノックされた。
静まり返った会議室に、妙に姿勢のいい男が顔を出す。金色の目に黒い外套——エルナートだ。今日はやけに顎が上がっている。
「失礼いたします。“黒烏”、参上しました」
突然の宣言に、場の空気がわずかに揺れる。ギウス団長が眉間を押さえ、ルナーア団長は眼鏡を指で持ち上げた。アル団長の視線だけが、少し細くなる。
「ご報告があります。掲示板に貼る“反逆者指名札”、書式、誤字、アクセント、すべて確認済みです。“裏切り者”は“者”であって“物”ではございません。前回『裏切り物』と誤植されたことで大騒ぎになった件、今回は修正済みです。ご安心ください。それから印刷所のインクですが、質が落ちており、黒が灰色になっております。黒烏としては看過できません」
部屋の何人かがポカンとした顔をした。
アルは小さくため息をつき、「……ご苦労」とだけ言った。
「さらに申し上げます。似顔絵、あれは誰が描いたのでしょうか? ウルスが30代の渋い顔になっておりました。あれでは女性人気が出てしまいます。危険です。私が書き直しました。今は目がキラリと輝いております。ただ、描いている最中に似顔絵師から『目をキラリとさせないでください、怖いので』と泣かれました。あと――」
「エルナート」
アルが名前を呼ぶ。静かな声だが、ピシャリと場が締まった。
「……要点だけでいい」
「かしこまりました。要点は一つ。“余白を作らないこと”です。噂は余白に巣を作ります。札の文言は短く、命令は明確に。“見たら知らせろ、近づくな”。これで十分です」
その言葉に、場の空気が少しだけ和らいだ。
ギウスが鼻を鳴らす。
「黒烏のくせに、たまにはまともなこと言うじゃねえか」
「“たまに”ではございません。“しょっちゅう”です」
ルナーアが小さく咳払いして笑いを誤魔化す。
「文言の修正は任せる。……余計な脚色はするな」
「もちろんです。黒は黒、白は白。灰色は……より濃くします」
エルナートは軽く敬礼し、くるりと踵を返す。
扉を出る前、ふと立ち止まってアルを一瞥し、眉を寄せた。
(……団長、眠っていない顔をしていらっしゃる)
そう心の中で呟いて、そのまま去っていった。
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その日の昼までに、街角には赤い紙が貼られた。
“反逆者 3名”
見慣れた名前が、冷たい文字で並んでいる。
「裏切りだってよ」
「あの赤毛の子だろ?」
「いや、剣を持ってた子」
「あの子、本好きだったよな」
噂が飛び交う。子どもたちは掲示の絵を見て「かっこいい」と笑ったが、親に頭を叩かれて顔を伏せた。
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レグは訓練場の端で黙々と拳を振るい続けていた。
木人形はすでに壊れかけている。それでも止まらない。
額の汗が落ち、拳の皮は破れ、血がにじむ。
それでもレグは止まらなかった。
「勝手に……何も言わねぇで……」
木人形が倒れる音。周りの団員が止めようと声をかけても、レグは無言で肩を震わせるだけだった。
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ルナーアは夕方、デーネ宅を訪れた。
デーネの母親は扉を開けるなり、静かに微笑んだ。
「……聞いています」
「……必ず連れ戻します」
その言葉に返事はなかった。ただ、デーネ母の瞳から感じたのは祈りと静かな怒りだった。
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ギウスは夜遅くまで鍛錬場で声を枯らしていた。
若い兵たちに剣を教えながら、心はどこか遠くを見ている。
赤毛の少年の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「英雄の息子」——そう呼ばれた少年が、今は裏切り者だとされている。
ギウスは深く息を吐き、叫ぶ。
「もう1本! もっと強く振れ!」
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アルは1人で壁の上に立っていた。
風が冷たく頬を撫でる。
森の奥で見た“黒い外套の男”の動きが頭から離れない。
あれはただの暗殺者じゃない。
“道を通ってきた”人間の動きだ。
「……君はどこへ連れていった」
アルは誰にともなく呟いた。
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その夜、クロカ王は白い部屋の椅子に座っていた。
年齢より若く見える顔。冷たい微笑み。
「……若い命は惜しいね」
声には一切の温度がない。
「裏切り者として街に知らしめたのなら、もう秩序は乱れない。戻ってきたら英雄、戻らなければ裏切り者。そういうものだろう?」
団長たちは黙って頭を下げた。
クロカの目は微動だにせず、白い部屋の中で浮いているみたいに冷たい光を放っていた。
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本部の片隅、薄暗い書類室。
ランプの下で、エルナートは黙々と筆を走らせていた。
掲示の差し替え、巡回表の文言の修正、通達の句読点の統一――。
「“!”は1つ。2つはガキっぽい。『至急!!』は廃止。“してください”もダメ。黒烏に優しさは似合わない。“せよ”で統一。……よし」
ブツブツと独り言が止まらない。
机の端には、見慣れない申請書の束。
何気なく手を伸ばした瞬間、見覚えのある名前が目に入った。
――ウルス・アークト。
その文字を見た途端、エルナートは眉をひそめた。
書類を丁寧にそろえ直し、ペン先を止める。
(……お前、本当に裏切ったのか?)
答えは出ない。
だから彼は、器用な笑顔を作った。
「裏切るやつが、あんな目するか? ……いや、するか? いや、しないだろ。たぶん。たぶんだ」
独り言を呟き、無理やり納得したふりをする。
もう一度ペンを握り直し、紙の上に文字を刻む。
――“余白を作るな”。
さっき自分が言った言葉を、今度は自分に向けて。
エルナートは余白に冗談を詰め込み、ひび割れを埋めるのが得意だった。
だから今日もそうする。
明日、誰かが少しでもまっすぐ歩けるように。
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街のどこにいても、赤い札が目に入る。
「反逆者」「裏切り者」
その言葉が風に揺れるたび、人々の視線は冷たくなる。
けれど本当のところを知っている者は誰も笑わなかった。
街は静かに眠るふりをしながら、じわじわと疑心暗鬼に包まれていく。
そして団本部もまた、表向きの冷静さの裏で、煮え立つ鍋のような緊張を隠していた。
読んでいただきありがとうございました。
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