第117話:真実の証人
目を開けた瞬間、木の香りと湿った土の匂いが鼻を刺した。
視界の天井は粗削りの木板で、隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。
体を起こそうとしたが、腕に鈍い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「……ここ、どこ?」
声がかすれている。
すぐ隣でパールが起き上がり、周囲を見回した。
その視線は剣のように鋭いけど、剣は手元になかった。
デーネも端の方で身体を起こし、眼鏡の位置を整えた。
瞳は怯えていない。むしろ周囲を観察している冷静さがあった。
部屋の中は狭い。
石壁の一部に木材が打ち付けられていて、窓らしい穴からは薄暗い森の景色が見えた。
家具といえば簡易ベッドと椅子、そして粗末なテーブルだけ。
でも、壁の影には見慣れない武器がいくつも立てかけられている。
ギイ、と音を立てて扉が開いた。
「起きたな」
低い声。
昨夜、僕らを連れ去った黒い外套の男——。
アル団長から逃がしてもらったのまでは覚えてる……けどそこからどうやってここに来たのかは、全く思い出せない。
男は布で顔の半分を隠しているせいで表情はよく見えないけど、鋭い目の光は昨夜と変わらない。
「ここは安全だ。少なくとも、あの団長の剣よりはな」
アル団長……!
あの人の顔が頭に浮かんで、思わず肩が強張る。
「なぜ僕たちを……連れてきたんですか?」
震えそうになる声を押さえて尋ねると、男は口元をわずかに上げた。
「時は来た。……それだけだ」
意味のわからない言葉。でも、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
パールが一歩前に出る。
「“時が来た”って何のこと? 私たちはあんたを知らない。なのにどうして——」
「知らなくていい。……今はまだ」
男の視線がパールを素早くかすめ、そのまま僕に向けられる。
その目には、妙な懐かしさがあった。
でも、父さんの目と同じ色じゃない。
違う。けど、似ている。
何かが胸の奥でざわついた。
「ウルス・アークト。お前には選ばせる時が来る」
「……選ぶ?」
「そうだ。世界の外側を見るか、壁の内側で目を閉じて眠るかだ」
男の声は低いのに、耳の奥まで響いた。
背中の毛が総立ちになる。
パールもデーネも何も言わない。ただ僕の顔を見ている。
男はゆっくりと外套のフードを外した。
陽に焼けた顔、深い傷跡、そして——
父さんの横顔をどこか彷彿とさせる鋭さ。
「……父さん?」
思わず口から漏れた言葉に、男は笑わなかった。
代わりに短く首を横に振る。
「俺はレオンじゃない。……だが、あいつの足跡を知っている」
胸の中で何かが跳ねた。
僕が言葉を探す前に、男は腰の武器を軽く叩き、背を向けた。
「休め。体を整えろ。——これから、忙しくなる」
それだけ言って、扉が再び閉じられる。
残ったのは土と木の匂い、そして意味の分からない恐怖と興奮。
パールが静かに息を吐く。
「……怪しすぎる。信用できるわけない」
「でも、嘘じゃない」
デーネが囁く。
「目が本物」
僕はベッドの縁を握り、深呼吸した。
怖い。でも——心のどこかで、この出会いをずっと待っていた気がした。
⸻
静まり返った隠れ家の部屋に、低く軋む扉の音が響いた。
振り返ると、男が立っていた。
外套は脱がれていて、肩の古傷が照明の下でくっきり浮かんで見える。
その目は、まるで何十年も戦場にいた人間の目だった。
「話そうか」
男の声は穏やかだったが、その一言で背筋に緊張が走った。
パールはわずかに顎を上げて睨むような視線を向け、デーネは手元のノートに軽く触れたまま無言で待っている。
「まず、俺はお前らの敵じゃない」
男は部屋の中央に腰を下ろし、短剣を床に置いた。
「だが……お前らの味方かどうかは、今すぐ決められることじゃない。俺も、お前らもな」
部屋に漂う緊張感が少しだけ和らぐ。
でも、その言葉には妙な重みがあった。
「俺はライネル。名前だけは聞いたことがあるかもしれないな」
僕は喉が詰まりそうになった。
ライネル——名前を聞いて、今の今まで忘れていた、遠い記憶が蘇る。
そうだ。父には弟がいると聞いたことがある。
確か名前はライネルと言っていた気がする。
母さんから聞いた遠い記憶。
曖昧だけど、間違いない。
——レオンの弟。
父の名前を思い出した瞬間、胸の奥がざわつく。
パールが僕の視線をちらりと見て、小さく眉をひそめた。
「……父さんは、生きてるんですか?」
口をついて出た言葉に、ライネルは目を細めた。
「答えは、イエスでもあり、ノーでもある」
はっきりしない答えに、心臓がさらに早くなる。
「レオンは……“生きて”いる。ただし、お前が知っている父親のままじゃない」
「どういう……意味ですか?」
デーネが低く問う。
ライネルは視線を外し、窓の向こうの森を見た。
「彼は壁の向こうで“あるもの”を見つけた。そのせいで、多くの人間が死んだ。
クロカ王国もゲーリュ団も、真実を隠したまま戦いを続けてる。
そして今、お前たちはその渦に足を踏み入れた」
言葉のひとつひとつが、重い石みたいに胸に落ちる。
パールが口を開きかけたが、ライネルは手で制した。
「お前らをここへ連れてきたのは、そうしないと死んでいたからだ」
「アル団長のことですか?」
「あの男は悪人じゃない。ただ、あの世界の“番犬”だ。
与えられた命令には従う。それがたとえお前らを殺す命令でもな」
背筋に冷たいものが走った。
あの夜のアルの笑顔が頭から離れない。
「なぜ僕たちを……助けたんです?」
声が少し震えた。
ライネルは僕を見据え、口元をわずかに緩めた。
「時は来たからだ」
——まただ。
その言葉を聞くのは2度目。でも今回は、全身に鳥肌が立つ。
「お前たちは、もう壁の中には戻れない。戻れば、お前たちが“秘密”を抱えていると知られるだけだ。
だから今ここで、選ぶんだ。
真実を見るために命を懸けるか、何も知らなかったふりをして生き延びるか」
パールが静かに息を吐いた。
「選択肢なんてないじゃん。ねえ、ウルス」
僕は黙って頷いた。
デーネも小さく頷く。眼鏡の奥の目は、恐怖よりも決意の色が濃かった。
「そうだろうな」
ライネルは低く笑い、床の短剣を拾った。
「なら、俺は案内人だ。お前たちを導くのが仕事だ。
……レオンがやり残した“道”を、お前たちに繋ぐ」
父さんの名前を出されただけで、胸が痛むほど締め付けられる。
でも、その痛みは恐怖じゃない。
確かに、ここに答えがある——そう感じた。
焚き火の炎が静かに揺れている。
ライネルは剣を脇に置いたまま、低い声でゆっくり話し始めた。
「クロカ王国は、民を守る国じゃない。……“真実”を守るための檻だ」
その言葉にパールが眉をひそめ、デーネがペンを握る手に力を込めた。
「真実……?」僕が問い返す。
「俺とレオンは昔、王国の命令で壁の外を探索していた」
ライネルの視線は火の向こうを見ていた。思い出の奥底を覗くような目だ。
「だが、あの森の奥で俺たちは“世界の形”を見た。国が教えている歴史は、ほとんどが塗りつぶされた物語だと気付いたんだ」
部屋の空気が一気に重くなる。
パールは腕を組み、険しい顔で耳を傾けている。
「王国は恐れている。神獣を、そして古代の遺産を。あれらは“敵”じゃない。けど、国は英雄の物語を作った。“討伐”の名のもとで、あらゆるものを支配下に置いた」
デーネが眼鏡の奥で目を見開いた。
「記録庫で破り取られていた古文書……やっぱり……」
彼女の声は震えていた。
ライネルは僕を見た。
「レオンは、その真実を掴みかけた。だが、王国にとって危険すぎた。奴らはレオンを消そうとした……けど、失敗した」
「……父さんは、生きてるんですね?」
「あぁ。だが、もう国には戻れない。お前と同じだ」
ライネルは低く笑う。
「今レオンがどこにいるのか、俺にもわからねぇ。ただ、奴は俺に“道”を残した。お前をここまで導けと」
僕の胸の奥で、あの日の父さんの声がよみがえる。
——「自分で選べ」
あれはこの瞬間のための言葉だったのかもしれない。
「クロカ王国は、この星の支配者じゃない。ただの管理者だ。
でもな、権力を握った管理者は、歴史を書き換え、敵を作る。……そして、その檻の中で育ったお前たちに嘘を教え込む」
ライネルはゆっくり立ち上がり、壁にかかった古い地図を指した。
「ここを見ろ。壁の外には王国の知らない村や集落がまだ残っている。
“絶滅した”と教えられた種族もいる。神獣も、ただの伝説じゃない。全部、生きてる」
パールが息を呑んだ。
「そんなの、学校じゃ——」
「教えるわけないだろうな」
ライネルが遮る。
「教えたら王国の正当性は崩れる。英雄ゲルリオンの神話も、クロカの歴史も全部……作り物だ」
⸻
焚き火が小さくはぜた音が、やけに耳に残る。
僕は唾を飲み込んで、思い切って言った。
「僕たちは……何をすればいいんですか」
ライネルは僕を見下ろす。
「まず、生きろ。生きて、壁の外を見ろ。それが第一歩だ」
デーネがペンを置き、静かに言った。
「……つまり、ウルスのお父さんは……国に消されかけた“真実の証人”」
「そうだ」
ライネルは頷く。
「そして、お前たちもそうなりかけた」
パールが短く息を吐き、僕の背を軽く叩いた。
「だったらさ、選択肢なんてないよね」
僕はうなずいた。
胸の奥にある恐怖は消えていない。
でも、その奥で何かが燃え始めている。
父さんを探すために。
クロカ王国の嘘を暴くために。
ライネルは口元だけ笑った。
「そう来なくちゃな。お前たちが立ち上がれば、この国は揺れる」
焚き火の炎がライネルの影を大きく映した。
その影は、壁の向こうに広がる闇を切り裂く道の形にも見えた。
読んでいただきありがとうございました。
面白かった、続きが気になると思ったら評価、ブックマークよろしくお願いします。
筆者がものすごく喜ぶと同時に、作品を作るモチベーションにも繋がります。
次回もよろしくお願いします!




