第112話:父の背中
森は風を失い、まるで息を潜めて僕らを見ているみたいだった。
レオンが消えた瞬間の静寂は、耳鳴りがするほど重い。
その沈黙を切り裂いたのは、アル団長の鋭い号令だった。
「追え! 逃すなッ!」
彼の声は低いのに、全員の胸を貫く迫力があった。
すぐにギウス団長が大剣を担ぎ直して叫ぶ。
「お前に言われるまでもねぇッ! てめぇ、あいつを捕まえて何を企んでやがる!」
「貴様の脳では理解できん計画だ」
アルの冷笑が返る。
「テメェ……っ!」
ギウスの怒りが森の空気をさらに張り詰めさせた。
「止まれ!」
ルナーアの落ち着いた声が響く。
馬を操り、2人の間にわずかに距離を作る。
「この状況で味方同士の小競り合いは愚かだ。敵は——あの男だろう」
眼鏡の奥の瞳は冷え切っていて、一切の感情を見せない。
ギウスは吐き捨てるように舌打ちし、アルは何も言わず先を急いだ。
僕は走りながら、その3人の背中を必死に追う。
パールも後ろで短刀を握りしめ、気配探知を全開にしている。
「……ウルス、前方20メートル先。気配1つ。——速い」
パールの声が耳に届くたび、心臓がさらに跳ねた。
⸻
足跡は木々の間を縫うように続いている。
まるで僕らを誘うためにわざと残しているみたいに、踏み固められていた。
その度に背筋が寒くなる。
あの人は逃げてるんじゃない。——僕らを呼んでる。
「レオン・アークト……」
ルナーアが低く呟いた。
「10年前の英雄。国を守った騎士団長。死んだと報告された男。
まさか……ウルス、お前の父親とはな」
「……っ!」
心臓が締め付けられた。
でも反論はできない。
父の目が、確かに僕を見て名前を呼んだから。
あの一言は夢でも幻でもない。
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突然、前方で音が弾けた。
何かが木を薙ぎ倒す轟音。
アルが動きを止めるより早く、銀色の閃光が視界をかすめた。
「——っ!」
咄嗟にしゃがむと、僕の頭上を剣が掠めていった。
レオンだ。
木の上から飛び降り、地面に静かに着地する。
「遅かったな」
レオンの声は、冷たい夜風みたいに澄んでいた。
アルが剣を構え、笑う。
「逃げる気はないらしいな」
「追わせたのは、お前らの“力”を見るためだ」
次の瞬間、レオンの剣が一閃した。
誰も目で追えないほどの速度。
アルが咄嗟に防御し、火花が散った。
「くっ……!」
アルが一歩下がるのを見たのは初めてだった。
「はっ、面白ぇじゃねぇか!」
ギウスが大剣を振り下ろす。
赤黒の神力が炎のように燃え、地面を割った。
だがレオンは軽やかにそれをかわし、ギウスの背後へと回る。
「遅い」
その一言と共に、レオンの蹴りがギウスの背を打ち、大剣が地面に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
ギウスの巨体がよろめく。
ルナーアの矢がその隙を突くが、レオンは指先で弦を払って矢を逸らした。
「馬鹿な……!」
ルナーアの眉が動く。
⸻
3人の団長がかりでも、レオンには届かない。
その圧倒的な強さに、背筋がぞわりとした。
でも——怖いよりも、誇らしい。
目の前にいるのは、僕の父さんだ。
「ウルス」
レオンが僕を一度だけ見た。
戦闘の最中なのに、その瞳は優しい。
「どんな鎖に縛られても、お前は自分で選べ。——その時が来る」
「父さん……!」
声が震えた。
でも、彼はもう視線を戻していた。
アルが剣を構え直し、冷たく笑った。
「捕らえるぞ。ここで終わりだ、レオン・アークト」
「終わるのは、お前らの時代だ」
次の瞬間、森全体が揺れるほどの衝撃音が響く。
レオンの神力が爆発し、地面に花のような光の紋が浮かんだ。
「なっ……!」
アルの身体が吹き飛び、ギウスが大剣を支えに踏ん張る。
ルナーアは馬ごと後退し、矢を握りしめたまま歯を食いしばる。
「パール、デーネ、レグ……っ!」
僕は叫ぶ。
「下がれ!」
レオンの神力は、ただの武器じゃない。
森そのものを圧迫しているみたいだ。
でも——僕は目を逸らせなかった。
あの背中は、僕がずっと知らなかった父親の姿だったから。
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森の奥に残されたのは、花びらのような足跡と、切り裂かれた空気の余韻だけだった。
耳の奥でまだ剣戟の音が鳴っている気がする。足跡を見下ろす僕の視界は、妙に鮮明だった。
ルナーア団長が静かに眼鏡を押し上げる。
「……やはり、ただ者ではなかったな」
その声は感情を削ぎ落としたように冷静だけど、瞳の奥には確かに動揺があった。
アル団長は笑みを浮かべたまま、剣先を地面に突き立てる。
「“レオン・アークト”。昔話の中の亡霊だと思っていたが、生きていたとはな」
彼の声は低く、静かな熱が混じっている。
「これは……面白いことになってきた。捕らえられれば、国の秩序を揺るがす切り札になる」
「お前は黙ってろ、アル!」
ギウス団長が声を荒らげる。
「あんな動きをする奴……今のお前じゃ絶対捕まえられねぇ!」
「では、あんたにならできるのか?」
アルの視線が鋭く光る。
2人の間に再び殺気が走った。
僕は刀を握りしめ、足跡から目を離せなかった。
あの声。あの目。
記憶の中に眠っていた、父さんの笑顔と重なってしまった瞬間、胸の奥がざわりと揺れる。
でも信じられない。生きているはずがない。
そう思うのに、心臓が「違う」と叫んでいる。
——父さん。
名前を口に出したら、何かが壊れてしまいそうで、僕は唇を噛んだ。
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パールが僕の袖を軽くつまんでささやく。
「ウルス……顔色悪いよ」
その声で少しだけ呼吸を思い出す。
「……大丈夫。たぶん」
たぶん、なんて言葉を使う時点で全然大丈夫じゃないのに。
デーネは足跡をじっと見つめ、記録板を取り出して写し取る。
「この足跡、何度も消そうとした痕跡がある……でも完全には消せなかった。彼は、ここで“見せた”のよ」
「見せた?」
「わざと残したの」
その言葉に、背筋が寒くなる。あの男は、僕らに自分の存在を知らせるためにここに現れたのか?
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ルナーアが鋭い視線をアルに向ける。
「これ以上の追跡は危険だ。奴は明らかに意図的に痕跡を残している。誘っているんだ」
「だからこそ行く価値がある」
アルは即答した。
ギウスが舌打ちして地面を蹴る。
「クソッ……相変わらず考え方が狂ってやがる」
2人の声にルナーアが短くため息をついた。
「お前たちの衝突で部下を巻き込むな。今は退く」
「退けだと?」
アルが不満げに眉を上げる。
「退け。……今はまだ、駒を並べる段階だ」
ルナーアの声は静かだが、圧を含んでいた。
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森に静寂が戻る。けれど、僕らの胸の鼓動は収まらない。
レグが拳を握ったまま口を開く。
「あの人……マジでヤベぇ強さだったな」
パールは唇を噛んで小さくうなずく。
「でも……悪い気配じゃなかった」
「……そうだな」
僕は呟く。
デーネが視線を僕に向けた。その瞳は鋭いけど、どこか迷いがあった。
「ウルス、あなた……あの人、知ってるの?」
一瞬、心臓が止まったような気がした。
「……わかんない」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
本当は知ってる。あの目も声も、僕の記憶に刻まれている。
でも、今はまだそれを言葉にできなかった。
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アルが再び足跡を見下ろし、剣先で軽くなぞった。
「これは“宣戦布告”だ。俺たちに挑んでいる。……あの男、必ず捕らえる」
その言葉にギウスの顔が険しくなる。
「テメェの欲で動くな。あいつはそんな軽い相手じゃねぇ」
「……見極める。それだけだ」
アルは微笑を浮かべ、踵を返す。
森の奥を見据えるその背中は、危ういほど冷たかった。
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その夜、壁内に戻った後も、僕の頭の中はあの声でいっぱいだった。
レオン。アルやギウスたちが知っていたその名前。
団長たちの様子からして、彼はただの“影”じゃない。
——父さん、あなたは何者なんだ。
窓の外の闇を見つめながら、刀の柄を握る手が震えていた。
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