第110話:禁忌の男
空気が焼け付くように熱い。
ギウス団長の大剣とハーガルドウルフの爪がぶつかり合うたび、火花と砂塵が飛び散る。
目の前の戦場は、まるで時間がねじれているみたいだった。
「退けぇぇっ!!」
ギウス団長の咆哮が耳を突き破る。赤黒の神力が刃を覆い、衝撃波のような風が吹き荒れた。
その勢いに押されて獣が後退するが、赤い瞳はまだ死んでいない。
横でアル団長が微笑んだまま、一歩前に出る。
「悪くないが、まだ甘いな、ギウス」
冷たい声。鋭い長剣が闇を切り裂く。
彼の剣筋は氷のように正確で、一閃ごとに獣の肉を裂いた。
ルナーア団長の矢が間髪入れず獣の足を射抜く。
それはまるで戦場を支配する者たちの舞踏だった。
⸻
「パール、後方確認!」
「了解!」
僕は声を張り、仲間の背を守るように刀を構える。
紫の刃が血の匂いの中で淡く揺れる。足元の砂はもう赤黒く濡れていた。
戦場の中心で繰り広げられる団長たちの戦闘は圧倒的だ。
……けれど、胸の奥には別の緊張があった。
視界の端に一瞬、あの足跡が見えたからだ。
花びらを並べたような、あの不気味な足跡。
戦場の砂地に確かに刻まれている。
僕は息を呑む。
戦闘の混乱の中で、あの“影”がここに来ていた……?
「……見つけた」
低く響いた声に背筋が冷たくなる。
アル団長だった。
戦闘の最中なのに、その瞳は足跡に釘付けになっている。
彼は剣先を足跡へ向け、薄く笑った。
「やはり、この気配……追う価値がある」
「アル、何を……!」
ギウス団長が獣を押さえ込みながら吠える。
しかしアルは応えず、長剣を一閃してハーガルドウルフの頭を断ち割った。
ハーガルドウルフの巨体が崩れ落ちたとき、森の空気が一瞬だけ止まった。
獣の咆哮も、矢の唸りも、剣の火花も——すべてが途切れ、耳の奥に残るのは血の匂いと鼓動の音だけ。
「……やはり、ここにいるな」
そう呟くと同時に、アルは獣の死体を踏み越え、森の奥へと駆け出した。
「待て、アル!」
ギウス団長が怒号を上げるが、返事はない。
「……あの野郎、また独断か」
大剣を担ぎ直したギウスは苛立ちを隠さず、続けてルナーアに声を飛ばした。
「お前、何か知ってんだろ!」
「知っているのは——あの足跡の意味だけだ」
ルナーアの低い声は静かだが鋭い。
「これは追わねばならない」
彼は冷ややかな表情のまま馬の手綱を引き、アルの後を追った。
⸻
戦場の熱気はまだ消えていない。
けれど僕の胸は戦いの終わりよりも、あの足跡の方に強く反応していた。
「ウルス!」
レグが大声を上げる。
「行くぞ!」
「……ああ」
迷う理由なんてなかった。
パールが探知を広げ、森の奥を睨む。
「足跡は続いてる。間違いなく、あの人が……」
「ウルス、全員で行きましょう」
デーネの声は張り詰めている。
僕らは頷き合い、ギウスの背中を追った。
⸻
森の中は夜気が濃く、風が通るたび枝がかすかに揺れる。
血と火薬の匂いはもう遠く、代わりに湿った土の香りが強くなった。
その静けさが逆に耳を締め付ける。
「……空気が違う」
パールの声が低く響く。
「さっきまで戦ってた森なのに、別の場所に迷い込んだみたい」
「気を抜かないで」
デーネが記録板を握りしめた。
「誰かに“見られてる”」
⸻
足跡は鮮明だ。
土の沈み方が不自然で、まるで「ここを通った」と示すように残されている。
誘ってる……?
そんな直感に背筋が粟立った。
「ウルス、怖い?」
パールが隣で囁いた。
「怖い。でも、目を逸らせない」
自分でも驚くくらい迷わず答えられた。
⸻
アルの背中が視界の先で一瞬だけ見えた。
その動きは迷いがなく、完全に“獲物”を追う捕食者のそれだった。
ルナーアの目は冷静で、何かを計算している。
ギウスは重い足取りで森を踏み鳴らしながらも、苛立ちを隠せない。
その緊張が、さらに場の空気を張り詰めさせていく。
やがて足跡は途切れた。
木々の間から月光が差し込む開けた場所で、空気が一変する。
音がない。風も止まったように静かで、何かが息を潜めている気配だけが漂う。
——いる。
誰かが、見ている。
視線を感じて振り向いたその先、深い影の中に確かに“何か”が立っていた。
開けた空間は、森の音をすべて飲み込んだように静まり返っていた。
足跡の列はそこで途切れている。
いや——終わりではなく、ここで待っていたのだ。
月光に照らされたその中心、深い影の中で1人の男が立っていた。
長い外套の裾が夜風に揺れ、フードの奥に隠された顔は闇に沈んでいる。
ただ、その目だけが光を宿していた。
視線が刺さった瞬間、背筋に氷を当てられたような感覚が走る。
「やはり……いたか」
最初に声を上げたのはアル団長だった。
長剣を構え、ゆっくりと間合いを詰める。
その表情は冷たい笑みを浮かべながらも、瞳には捕食者の色が滲んでいる。
「アル……お前の嗅覚は変わらんな」
低い声。
その響きには懐かしさすら感じさせる余裕があった。
そして、ギウス団長が一歩前へ踏み込む。
「……まさか」
大剣を肩から下ろし、構えを取る。
「レオン・アークト……! 死んだはずの“騎士団団長”が、生きていやがったか」
ルナーア団長も弓を番えたまま眉をひそめる。
「10年以上前に消息を絶ったはず……まさか本当に——」
その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
胸の奥が熱くなり、視界がわずかに揺れる。
レオン・アークト。
——僕の家で誰も触れなかった名前。母も、村の人も、口を閉ざしていた名前。
男はゆっくりとフードを下ろした。
そこに現れた顔は、ぼんやりした幼い記憶の中に残っていた笑顔と重なる。
日焼けした肌、鋭い目つきの奥にある優しさ。
僕を抱き上げた時の、あの大きな手の感覚が一気に蘇る。
「……父さん」
気づけば声が出ていた。
彼は僕を見て、口角をわずかに上げた。
「ウルス……ずいぶん大きくなったな」
胸の奥で何かが弾けた。
もう疑う余地なんてなかった。
ここにいるのは——僕の父さんだ。
死んでなんかなかった。
母さんは嘘なんてついてなかった。
⸻
「再会の挨拶は後にしろ。……てめぇの存在がどれだけやべぇかわかってんのか!」
ギウスが吠え、大剣を構える。
アルは冷たい笑みを浮かべ、ゆっくりと前へ出た。
「レオン、君の知識と力は我々に必要だ。……いや、俺が必要としている」
「相変わらず自己中心的だな、アル」
「褒め言葉として受け取ろう」
2人の間の空気が一気に張り詰める。
「お前が生きているなら、この国の歴史の“綻び”は確実だな」
ルナーアの声も低い。
「それを掴むために、俺は矢を射る覚悟もある」
レオンは冷ややかに3人を見渡し、ゆっくりと息を吐いた。
「……やはり、“中”は何も変わっちゃいないな」
腰の剣を引き抜く。装飾のないただの鉄の剣。
でもその刃が月明かりを浴びた瞬間、空気の温度が一段下がったように感じた。
「ウルス」
父は僕を真っ直ぐ見た。
その視線に心臓を鷲掴みにされる。
「生き延びろ。今は、それだけでいい」
「父さん……!」
言葉が詰まった。胸が痛い。もっと聞きたいことが山ほどあるのに、声が出ない。
次の瞬間、地面が割れたかのような衝撃音が響いた。
ギウスが吠え、大剣を振り下ろす。赤黒い神力が迸り、地面を抉る。
レオンは一歩も動かずにそれを受け止めた。
肉体で。
「……人間じゃねぇ……!」
ギウスの瞳に驚愕が宿る。
レオンの腕には確かに傷が走ったが、その表情は微動だにしない。
アルの長剣が横から迫るも、レオンは片手で弾き返した。
「捕らえろ!」
アルが冷たく叫ぶ。
ルナーアが矢を射る。矢が音を置き去りにして飛ぶが、レオンの剣がすべてをはじいた。
金属音が夜の森に響き渡る。
その動きは速すぎて、目で追えない。
ギウスの一撃が雷のように振り下ろされ、アルの長剣が氷のような軌跡を描く。
3人の団長が同時に殺気を向けても、レオンは一歩も退かない。
むしろ——押している。
「……化け物だな」
ギウスが歯ぎしりをする。
「化け物じゃない」
レオンは静かに言った。
「外で、俺たちは生き延びただけだ」
「その“外”ってのが問題なんだよ!」
ギウスの大剣とレオンの剣が正面からぶつかり、爆ぜるような衝撃波が辺りを揺らした。
アルは一歩引き、目を細めた。
「力も技も、桁外れ……これは捕らえるしかないな」
笑みの奥に興奮の色があるのが、逆に怖い。
「ウルス、下がって!」
パールが叫ぶ。
僕は息を詰めながらも刀を構え、目を逸らさずに戦いを見た。
レオン——いや、父さんは神力を纏っていないのに、団長たちの攻撃を次々といなす。
剣を握る姿には、力ではなく洗練された“生存の重み”があった。
「この男を放置すれば、国は崩れる」
ルナーアの声は冷徹だ。
「だから——今ここで決着をつける」
彼が次の矢を放とうとした瞬間、レオンがふっと笑った。
「決着? お前たちはまだ何も知らない」
その声と同時に、レオンの姿が風に溶けた。
次の瞬間、ギウスとアルの攻撃が空を切り裂き、彼の気配は背後に現れる。
「速っ……!」
僕は思わず叫ぶ。
ルナーアの矢が方向を変えたが、レオンは指先で弦を弾いて軌道を逸らした。
⸻
「ウルス、行くぞ」
父さんの声が耳元で響いた。
背筋が凍った。でもその声は、どこか懐かしかった。
「お前は……選ぶんだ。『中』で縛られるか、『外』の真実を見るか」
その言葉を残し、父さんは森の奥へ跳ぶ。
影のような動きで、すべての視界から消えた。
「追え!」
アルが叫ぶ。
ギウスは舌打ちし、「クソッ……!」と森の奥へ走る。
ルナーアも弓を構えたまま、冷静な視線で追跡に移った。
僕はその場で立ち尽くし、胸を押さえた。
震えが止まらない。
——今の声。あの目。あの名前。
「……父さんだ」
小さな呟きが、夜風に消えた。
でも確信は胸に残ったままだった。
森はまだ静かで、だけど何かが確実に動き出していた。
読んでいただきありがとうございました。
面白かった、続きが気になると思ったら評価、ブックマークよろしくお願いします。
筆者がものすごく喜ぶと同時に、作品を作るモチベーションにも繋がります。
次回もよろしくお願いします!




