第104話:激戦の後
あたりは嘘みたいに静かだった。
さっきまで耳をつんざいていた咆哮も、砂煙も、全部なかったみたいに消えている。
ハーガルドウルフの死体が目の前で崩れ、血の匂いだけが生々しく漂っていた。
「……は、ぁ……」
自分の呼吸の音がやけに大きい。胸が痛い。手首は痺れていて、刀を握っている感覚すらぼんやりしていた。
視線を動かすと、仲間たちも同じように立ち尽くしていた。
パールは探知の光を張ったまま、何かを探すように目を細めている。
レグは拳を下ろし、荒い息を吐きながら「やっべぇ……」とつぶやいた。
デーネは記録板を握った手が震えていた。彼女がこんな顔をするのを、僕は初めて見た。
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助けてくれたあの男——足跡を残して消えた黒い外套の人。
今もこの近くにいるのかもしれない。でも、もう気配はない。
あの足跡だけが残っている。乾いた地面に花びらを並べたみたいな4つの跡。
僕は無意識にそこに視線を落とした。
怖い。でも、なぜか懐かしい感じもした。
知らないはずの誰かが、自分を知っているような。そんな視線だった。
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「ウルス」
パールが僕の肩を軽く叩いた。
「……大丈夫?」
「あ、ああ……」
声がかすれる。笑おうとしたけど、うまくいかない。
「生きてる。それで十分」
パールの言葉が、やけに胸に響いた。
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「全員、怪我の確認を!」
背後から声が響いた。
黒いコートを翻し、よろよろと歩いてきたのはエルナートだった。
血と砂で全身ボロボロなのに、剣を杖にして立っている。
「積荷の確認してたら……気づいたら戦場のど真ん中だったぞ……」
「師匠ーーーー!!」
レグが涙目で抱きつきそうな勢いで叫ぶ。
「俺の弟子じゃねぇ!」
「師匠! マジかっけぇ! 今の戦い見てたら尊敬しかない!」
「……まぁ、否定はしない」
エルナートはため息をつきながらも、ちょっと口元が緩んでいた。
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そんな中、デーネは真剣な表情のまましゃがみ込み、死骸を観察していた。
「……この魔物、自然の個体じゃない」
「え?」
「体の中に、刻印……人工的な制御符号が埋め込まれてる」
彼女の指先が獣の胸をなぞると、黒い毛の隙間に赤黒い光がかすかに見えた。
僕の背筋に寒気が走る。
——誰かが、こいつをここに放った?
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「おい、下がれ!」
ギウス団長の怒鳴り声が響いた。
振り返ると、東軍の重鎧を着た団員たちを率いてギウスが駆けてくる。その背後にはルナーア団長、さらにゆったりとした足取りでアル団長の姿もあった。
「……無事か?」
ギウス団長が僕らを見て眉をひそめる。
「は、はい……なんとか」
「なんとか、じゃねぇ……クソが」
彼の声は荒いけど、怒りよりも心配の色が強かった。
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ルナーア団長は血の匂いが漂う現場を一瞥し、冷静な声で指示を出す。
「負傷者の確認を。応援班、現場確保」
声は淡々としているのに、不思議と落ち着いた。
一方、アル団長は倒れたハーガルドウルフの死骸を覗き込んでいた。
笑っているけど、その目はまるで別の生き物を見ているみたいに冷たい。
「……興味深い。刻印があるな。ふむ……これを操れる者がいるなら、ぜひ話をしてみたい」
低くつぶやく声が、背筋を凍らせた。
「話を、ね……」とパールが小さく呟く。
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アル団長は立ち上がり、僕らのほうを振り返った。
「よく持ちこたえたね。見事だ。君たちがいなければ、この部隊は壊滅していた」
「……助けてくれたのは僕らじゃないです」
僕は勇気を振り絞って言った。
「黒い外套の……得体の知れない人が……」
その瞬間、アル団長の目が細められた。
「外套? 足跡は?」
「……花みたいな……」
そう答えた瞬間、アル団長はふっと笑った。
「なるほど。興味深い。ますます探す価値があるな」
嫌な予感しかしなかった。
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ギウス団長が苛立ったように舌打ちした。
「おいアル、てめぇ何企んでやがる」
「企むなんてとんでもない。ただ、危険な存在を野放しにはできないだろう?」
アル団長は柔らかく微笑む。
でも、その笑みは心の奥を見透かしてくるみたいで、背中がぞわっとした。
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「撤退するぞ。負傷者を優先だ」
ルナーア団長の声で、現場が一気に動き出した。
僕らも足を引きずりながら列に加わる。
背後で、あの花形の足跡が風に削られていくのが見えた。
でも、消えたって忘れられない。
あの人の剣は、僕の目に焼き付いて離れない。
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この世界のどこかに、僕らが到底届かない場所に立っている誰かがいる。
そしてアル団長は、その存在を“捕まえる”つもりでいる。
怖い。でも——僕の胸の奥で、何かがざわめいていた。
逃げちゃいけない。見なきゃいけない。
バングルがじり、と熱を返した。
まるで「その先に行け」と言っているみたいに。




