第9話:筆記試験ってなにそれこわい
入学して1ヶ月が経った。
あの図書室での出来事から、なんだかんだで僕の交友関係は広がった……のかもしれない。
毎日のようにレグに絡まれ、パールに引っ張られ、デーネに詰められながら、なんとなくラプラス神力学校の生活にも慣れてきた。
「ウルス、昼休み、外行こうぜ! 今日は青空の下で飯だ!」
そう言ったのは、もちろんレグだ。
「えっ、あの、僕お弁当とか持ってきてないけど……」
「問題ねぇ! 今日は俺の特製スープをふるまってやる!」
「いや、それが一番問題なんだけど……!」
でも結局、押し切られるのがいつものパターンだ。
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それからさらに半年の月日が流れた。
朝の空気はひんやりして、鼻の奥がちくりとした。
窓の枠はすこし歪んでいて、手で押すと木がきい、と鳴る。いつもの教室。いつもの机。いつもの僕――のはずなんだけど、今日は胸の奥が落ち着かなかった。
理由は簡単だ。
“筆記試験”という言葉が、朝から僕の頭の上でぐるぐる回っている。
「ウルス! 聞いた?」
パールが勢いよく机に手をついた。白銀の長い髪がさらりと肩で揺れて、朝の光をはね返す。目がきらきらしている。主に他人の不幸の匂いを嗅ぎつけた時のきらきらだ。
「な、なにを?」
「筆記試験、範囲が広がったって。『王国史』ぜんぶと、『外の地理』の基本、『騎士法規』の前半、あと『神話伝承』の抜粋。先生が“ここから出す”って」
「……それ、全部じゃない?」
「そう。全部」
彼女は親指をぐっと立てた。褒められたいのだろうか。
「ねぇ、ウルス。言っておくけど、壁の外に出たいなら、ゲーリュ団に入るしかないんだよ? 入団には実技と――筆記」
「……知ってる。知ってるけど……」
僕は視線を落として、手のひらを見た。
神力をうすく纏う。淡い青が、皮膚の下でかすかに明滅した。ここまではまだできる。走るのも跳ぶのも、そこそこできる。
でも、文字の並びは違う。紙の上の黒い線は、僕をじっと見返してくる。ときどき、にやっと笑っている気がする。嫌な性格だ。
「おーい、勉強の亡霊に取り憑かれた赤毛の小僧はいるかー?」
背後から、レグがひょいと現れた。体格だけは一人前……どころか、すでに二人前。肩幅が机2つぶんはある。
そして口はいつも通りだ。
「小テスト、何点だった?」
「えっ……」
「4点ね」
即答したのはパールだ。ひどい。
レグは一瞬だけ目を見開いて、次の瞬間、腹を抱えた。
「よ、よん……! 天才だな、逆の意味で!」
「笑うな!」
「いや、笑うだろ! お前、それで“外に出る”とか言ってるの、勇者か?」
「……笑わないと死ぬ病気なの?」
パールの肘鉄がレグの脇腹に入った。どすん、と鈍い音。レグは平気そうに笑っている。お腹も筋肉なんだろうか。理不尽だ。
「ま、冗談はさておき」
パールは真面目な顔に戻った。「やるしかないってこと。勉強も、鍛錬も。だってさ、壁の外に行きたいんでしょ?」
壁の外。
その言葉だけで、胸の奥がざわざわする。
砂の匂いのしない風が、頬を撫でる想像。高い壁の向こうには、僕の知らない色がある気がする。
「……行きたい。父さんが見た景色を、僕も見たい」
口に出した瞬間、心のどこかが少し軽くなった。
父さんは、チャンタルホーク村の騎士団長だった。今は遠くへ旅に出ている、らしい。
「じゃ、決まり。放課後は図書室。デーネを捕まえる」
「デーネ?」
「“図書館の女帝”」
パールは指を立てた。「本のことなら学校一。しかも、暗記がバケモノ。教えてもらおう。ついでに、レグには“漢字の書き取り”からやってもらおう」
「はぁ!? 俺? 俺はもう殴る方担当で――」
「“門”って書ける?」
「もん。……山?」
「はい、決まり。レグは書き取りから」
レグは遠い目をした。僕は仲間ができて嬉しかった。共倒れの未来が見えた。
その時、教室の外から風が入ってきた。砂が少し舞って、窓の影が床に伸びる。
ふと、視線を感じた。背中の上に、すっと細い糸みたいなものが落ちる感覚。
廊下の角に、黒い外套がちらりと見えた。宣教師か、巡回か。目が合ったような気がしたけど、次の瞬間には消えていた。
「どうしたの?」
「ううん。なんでも」
“見られている”気がする。
でも、今はそれより、紙の上の黒い線と向き合わないと。僕は深呼吸をした。