103話:花形の影
砂煙が濃すぎて、前が見えなかった。
獣の咆哮と血の匂いが入り混じって、息をするたびに肺が焼ける。僕は刀を握り直し、肩越しに仲間の位置を確認した。
パールは後方で探知を張り、デーネが指示を飛ばす声が響く。レグの拳が、また獣の顎を吹き飛ばした音がした。
「ウルス、右上!」
パールの声に反応して体をひねり、紫の刃を振る。
獣の首が落ち、黒い血が飛び散った。
肩に生暖かい飛沫がつく。
気持ち悪い。
でも、そんなのに構っていられない。
呼吸を整えながら、足を一歩前に踏み出す。
青の神力で足場を強化し、紫で刃を強化する。昔なら緊張で足が震えてただろう。今は、震えない。ただ怖いだけだ。
「レグ、後ろ!」
デーネの声が飛ぶ。その瞬間、獣の群れが弾かれたみたいに吹き飛んだ。
「ったく、数多すぎだろこれ!」
レグが血だらけの拳を握りしめる。
……たしかに、数がおかしい。
その時だった。
空気が変わった。冷たい。背筋がぞわっとした。砂煙の向こうから何か大きなものが近づいてくる。
足音が重い。
見えた瞬間、息が止まった。
四足の巨体。
鋼みたいな黒い毛並み。
背中には刃みたいな棘。
真紅の瞳がこっちを睨んでいる。
口を開くたび、熱気と血の匂いが混じった息が吐き出される。
「……ハーガルドウルフ」
デーネが低く呟いた。
名前なんて知らなくても分かる。こいつは今までの敵と違う。僕らじゃ勝てないかもしれない。
「全員、下がれ!」
声を張ったのはエルナートだった。
黒いコートを翻して前に出る。剣を抜く動作は迷いがなく、金の瞳が鋭く光る。その背中は、いつもより大きく見えた。
「レグ、護衛を優先しろ!」
「はいっ!」
レグが吠える。珍しく素直だ。
ハーガルドウルフが低く唸り、地を蹴った。
速い! 巨大なのに、矢みたいな速度。
「パール!」
「来る!」
パールが探知で軌道を読み、僕は体を投げ出すようにして刃を振るった。
が、硬い。
刃が棘に弾かれ、衝撃が腕を伝って肩にまで響いた。息が詰まる。
「ウルス!」
デーネの声が飛ぶ。後ろに跳んだ瞬間、地面が爆ぜた。さっきまでいた場所に深い爪痕が刻まれている。
「はやっ……!」
言葉が出ない。これまでの魔物とは、桁が違う。
エルナートが剣を構え直し、前へ飛び込む。
「俺が止める!」
黒いコートが砂を巻き上げ、鋼の棘に斬撃が走る。火花が散り、ハーガルドウルフが唸り声をあげた。
「レグ! 援護!」
「任せろ!」
拳が轟音を立てて獣の顎を打ち抜く。でも、その巨体は微動だにしない。
「……嘘だろ」
レグが歯を食いしばる声が聞こえた。
ハーガルドウルフの爪が横薙ぎに走る。
「エルナート先輩っ!」
僕は叫びながら駆け出した。刀を振るう。紫の光が一閃し、爪と刃がぶつかる。
耳が割れそうな音が響いて、視界が白くなる。
次の瞬間、僕は砂の上に転がっていた。
胸が焼けるように痛い。呼吸が荒く、立ち上がるのもやっとだ。
エルナートも片膝をつき、血を流していた。
パールの声が鋭く響く。
「ダメ、退けない……! 死ぬ!」
「そんなの……わかってる!」
レグが吠える。拳が震えている。僕も立ち上がろうとした。
でも、ハーガルドウルフの赤い瞳がこっちを射抜いた瞬間、体が動かなかった。
……これ、勝てない。
そのときだった。
風が変わった。砂煙が一瞬で散り、音が消える。
目の前に、影が立っていた。黒い外套を着た男。フードを深くかぶり、顔は見えない。
でも、その足元に残った足跡を見て息が止まった。
……あの形。花びらを並べたみたいな四つの跡。
ハーガルドウルフが低く唸る。
男は一言も発さず剣を抜いた。何の装飾もない、ただの鉄の剣。
でも、その動きは――見えなかった。
一瞬で獣の首が飛んだ。血が舞うより先に、空気が震えた。
「……っ……」
声が出ない。何が起きたのか、理解が追いつかない。
男は振り向きもしない。ゆっくりと剣を払って血を落とし、足跡だけを残して去っていった。
僕はただ呆然と見送るしかなかった。心臓が早鐘を打っているのに、なぜか寒い。
あの目。顔は見えないのに、確かに僕を見た気がした。
知らない人なのに、僕のことを知ってるみたいな――そんな目だった。




