第100話:動き出す盤上
戦闘の翌日。
身体の疲れは抜けていないのに、街の空気はやけに騒がしかった。
寮の廊下で顔を洗いながら、昨日の光景を思い出していた。
——赤い刻印。黒い血。倒しても立ち上がる獣たち。
あれは「訓練」なんかじゃなかった。
誰かが仕組んだ“試験”。そう言い切れるくらい、胸の奥のざわめきが止まらない。
「ウルス、顔が死んでる」
パールが背中を軽く叩く。彼女の目の下にも薄いクマが見える。
「寝た?」
「……たぶん」
「“たぶん”は禁止」
「……寝てない」
「やっぱり」
ニヤリと笑うパールに救われる。この人、ほんと緊張を軽くするのが上手い。
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朝食の席。
レグはいつも通り山盛りの皿を頬張り、デーネは昨夜まとめた報告書を淡々と見直していた。
「刻印の破片、解析できそう?」
僕の問いに、デーネは首を横に振る。
「似ている符号体系はある。でも、私の知ってる記録とは違う。古代遺跡の符号と……人工符号の中間」
眉間にシワを寄せて、何かを書き込む。
こういう時のデーネは誰も止められない。
「つまり、“自然発生じゃない”ってことだな!」
レグがドヤ顔でまとめると、デーネは無言で頷いた。
すごい。要約の方向性は正しい。
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食後、僕たちは訓練場に呼ばれたわけでもないのに自然と集まった。
東門広場の動きを確認したくて。
昨日の戦いの後、街は表向き“平常運転”だけど、どう考えても水面下で何かが動いてる。
内壁沿いの道を歩くと、兵士の数が増えているのがはっきりわかった。
パールが小声で言う。
「見張りの配置、変わった。防御線じゃなく“封鎖線”の形」
「封鎖?」
「何かを外に出さないんじゃなく、逆に……中に入れたくないモノがある感じ」
背筋がひやりとした。
その時だった。
「おーい赤毛!」
またこの声か。
振り向けば黒コートの男——エルナート。
手には書類、腰には剣、そしてその金色の瞳はやたらと自信満々。
「お前ら、昨日の戦い、悪くなかった。特に赤毛、お前は呼吸がよくなったな」
「え、あ、ありがとうございます……?」
褒められた……のか?
「師匠ー!!」
レグが全力で駆け寄って肩に手を置く。
「やっぱ師匠だわ! 俺、ついて行く!」
「……やめろ」
眉間にシワを寄せるエルナート。だが、耳が赤い。
「照れてるー!」
「照れてない!」
このやりとり、もう恒例になりそうだ。
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その日の午後は特に任務もなく、僕らは寮の一室で資料を広げた。
昨日の記録を整理しつつ、パールが「人の流れ」「合図旗」「巡回経路」を描いた簡易マップを壁に貼る。
「見て、このルート。合図のリズムが昨日から変わってる」
旗の動きは本来3分周期。でも今は……
「1→2→1。昨日と同じ」
デーネの声が低くなる。
「何かを隠してる可能性が高い。普通なら増強したら“守り”の形にするのに、これは“狩り”の網みたい」
「……誰を狩るんだよ」
僕が呟いた瞬間、部屋の空気がぴりっと張り詰めた。
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その夜。
僕は眠れなくて、寮の廊下を歩いていた。
静まり返った本部の廊下。石の床が冷たい。
窓の外の月明かりで、外壁の影が長く伸びている。
その時、感じた。
——視線。
振り返ったが、廊下には誰もいない。
でも確かに、何かが見ていた。
心臓の音が早くなる。バングルの内側が熱い。
窓の外、東門の方向に目を向けた。
夜の闇の中で、柵の配置が昨日よりさらに複雑になっているのが見えた。
「……何をしてるんだ」
思わず声が漏れた。
誰も答えない。
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一方その頃——。
西軍本部の執務室ではアル団長が静かに書類に目を通していた。
机の上には昨日の戦闘で回収された刻印の破片。
「悪くない結果だな」
アルの声は低く、静かだった。
「彼らは予想以上に使える。特に赤毛の少年……」
彼は笑みを浮かべる。
「実戦で磨かれる駒ほど強いものはない」
副官が恐る恐る尋ねる。「団長、王都視察の件は?」
「予定通りだ。明後日、王都の目がここに注がれる。その前に盤上の駒を動かしきる」
窓の外、夜の街灯の光に彼の金髪が鈍く光った。
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北軍の書庫。
ルナーア団長は机に広げた報告書を見つめていた。
「数が合わない……」
眉間のシワは深い。
デーネ母が静かに告げる。「アルが動いていますね」
「動きすぎだ」
ルナーアはペンを走らせ、暗号のようなメモを残す。
「ギウスに知らせるべきだな。盤上が荒れる前に」
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東軍の宿舎屋上。
ギウス団長は酒を片手に夜空を見上げた。
「……あのガキ、やっぱり戦場に馴染むの早すぎだろ」
苦笑ともため息ともつかない声を漏らす。
「アルの野郎、何を企んでやがる」
赤黒の神力が夜風に揺れる。
彼は静かに決意した。「俺の部下は死なせねぇ」
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そして翌朝。
東門広場に新しい告示が出ていた。
《告:2日後、王都より視察者到着予定。東門外縁防衛及び拠点設営を強化せよ》
広場に集まった兵士たちがざわめく。
僕は掲示を見上げたまま、拳を握りしめた。
「視察者……?」
パールが横で呟く。
「きっと……動き出す」
デーネは眼鏡越しに視線を走らせた。
「間違いない。誰かの計画の真ん中に、私たちがいる」
レグは苦笑して拳を鳴らす。
「だったら叩き壊すだけだろ」
僕は深く息を吸った。
吸って、吐いて、3。
バングルが小さく熱を返す。
「……行こう」
僕らの影が、朝日に長く伸びていった。




