第97話:盤上に置かれた駒たち
戦闘の報告が西軍本部に届いたのは、その日の夕刻だった。
血に濡れた報告板を携えて駆け込んできた伝令は、まだ顔色を失ったまま声を震わせる。
「東門近くで、灰色の獣が複数……! 本来なら森の奥にしか現れないはずの種が……っ!」
広間の空気がざわめいた。
幹部たちの間に緊張が走る中、ひとりだけ、金髪の団長は落ち着き払って立ち上がった。
「……よくやった。詳細は後で聞こう」
アル団長の声は穏やかで、むしろ安堵を与える響きを持っていた。
だが、その瞳の奥では、別の光が静かに燃えていた。
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執務室に戻ったアルは、机の上の地図を広げた。
赤い印のひとつに指先を置く。そこは、ちょうど今日の襲撃地点。
「……やはり寄せられている。となれば、この“脅威”は使える」
獣の接近は偶然ではない。
そう確信した瞬間、長年温めてきた計画の歯車がかちりと噛み合った。
「ギウスは東に釘付け……ルナーアは、内側で兵を取られて動けなくなる。これで舞台は整う」
紫の刃を振るう少年の姿が脳裏に浮かぶ。赤毛の少年。
まだ幼いのに、確かに“刃”としての形を持ち始めている。
「ふふ……神が与えたもうた新しい駒か」
アルは小さく笑い、報告書の余白にさらりと指示を書き込む。
《東門防衛強化の名目で、西軍の兵力をさらに集結させよ》
《次の視察にて“指揮系統の不備”を示し、全軍統制権を移譲させる》
言葉にすればただの命令だが、裏には明確な狙いがあった。
“脅威”を理由に、権限を自らの手に集中させる。
偶然を必然に変えるのが、真の支配者のやり方だ。
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窓の外では夕陽が沈みかけていた。
赤い光に照らされた金髪は、まるで血に濡れているように見えた。
「獣の影に怯える民……その不安を束ねるのは、私だ」
独白は低く、確信に満ちていた。
アルは微笑を崩さない。
外の脅威すら、自分の駒に変えることができると信じていた。
その時、自分が盤上の“王”になる未来を疑っていなかった。
ーーールナーア視点ーーー
北軍本部の書庫は、夜になると冷える。
石造りの壁が冷気を吸い込み、ランプの火が揺れるたびに影が大きく膨らむ。
ルナーアは机に広げた報告書をじっと見つめていた。
東門での襲撃の記録。
灰色の獣の群れが壁際に迫り、予想よりも被害が出たことが記されている。
「……不自然だ」
低く呟く。
本来なら、あの種は森の奥から出てくることは滅多にない。
それが“壁際”に現れるというのは、ただの偶然で片づけられることではなかった。
彼は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
机の端には、昼間デーネの母から渡された書簡がある。
封を切ってはいない。だが、あの人のことだ。
内容はおそらく「娘を盤上から降ろすための根拠」だろう。
「……選択肢を狭められているのは、我々も同じか」
ルナーアは書簡を指で叩きながら、思考を巡らせた。
アルの名前は報告書に頻繁に出てくる。
西軍が兵を“早めに集結させていた”という噂も耳にしている。
確証はない。だが、無視もできない。
静かに立ち上がり、書庫の窓から外を見やった。
夜空に流れる雲が裂け、細い月が顔を覗かせる。
「デーネ嬢を守ること……そして、盤上を荒らす者を止めること」
その2つを並べた瞬間、彼の中でひとつの線が繋がった。
ルナーアは再び椅子に座り直し、手元のペンを取った。
筆先が紙を走る音は、静かな夜にやけに響いた。
ーーーギウス視点ーーー
カオン東の宿舎。
古びた椅子に腰を下ろし、ギウスは片手で酒瓶を傾けた。
窓の外は暗く、遠くの灯火だけがぽつぽつと光っている。
兵士たちの笑い声が時折聞こえてくるが、今は耳に入らなかった。
「東門か……またきな臭ぇ場所だな」
あのアルが指揮を執っている時点で、どうも素直に信じられない。
もちろん、証拠はない。ただ、長年の勘が「何かある」と訴えていた。
ギウスは大剣の柄を軽く叩いた。
戦場で生き残ってきた経験が、彼に余計な直感を与えるのだ。
「ま、どう転んでも俺は外だ。中で駆け引きしてる奴らの顔色なんざ気にしねぇ」
そう呟くが、酒の味は苦かった。
——本当は気になっているのだ。
西軍の動きが不自然に早いこと。
外の獣があたかも“呼ばれた”ように現れたこと。
机の上には、今日の戦闘に参加した若い団員の名が並んでいる。
赤毛の少年の名前もそこにあった。
紫の神力を振るい、仲間を守ったという報告。
「……ったく。ガキのくせに、もう一人前の顔してやがる」
愚痴のようでいて、どこか嬉しそうな声だった。
ギウスは酒瓶を机に置き、深く息を吐いた。
アルが何を企んでいようと、ルナーアが何を考えていようと関係ない。
自分の役割はただひとつ——
「外の脅威を叩き潰し、部下を生きて帰らせること」。
それだけは、揺るぎようがなかった。




