第96話: 息ぴったり?
夜明け前の鐘が、まだ冷たい空に響いた。
普段なら眠気で重たい身体も、今日は勝手に動いていた。緊張のせいだ。
寮の廊下は兵士や団員で混み合い、鎧の金具がぶつかる音や革袋を締める音が絶え間なく響いている。
僕も装備を整え、バングルに触れる。内側はまだ、かすかに温かい。
「ウルス、行くよ」
パールが肩を軽く叩いた。彼女の目は眠そうなのに、声は張っている。
「……早いな」
レグが欠伸を噛み殺しながら後ろを歩く。
「頭がまだ寝てる、拳ならもう起きてるけど」
「脳も起きて」
デーネが即座に返した。彼女の手にはもう分厚い報告板。徹夜したんじゃないかってくらい、書き込みでいっぱいだった。
僕らは列に混じり、東門へと歩き出した。
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東門広場は昨日の比じゃなかった。
兵士、団員、馬車。補給品が山のように積まれ、叫び声と足音が混じって渦を巻いている。
「……やっぱりおかしい」
パールが眉をひそめる。
「“準備”っていうより、“臨戦”」
デーネも静かに頷く。
「杭材の搬入量が尋常じゃない。壁の外に長期線を張る規模」
うん、確かに。
昨日今日、補給護衛任務で集められた僕たちだけど、2日後の合同展開訓練の準備にしては大袈裟すぎないか?この人の量と搬入量。
そんなことを思ってキョロキョロしていると、一際目を引く金髪が朝日を浴びて輝いているのが見えた。——アル団長だ。
彼はにこやかに笑い、両手を広げて言った。
「みんな、予定より早い展開だ。だが心配はいらない。むしろ我らが迅速に動くことで、壁外の脅威を抑えられる」
声は柔らかい。けれど、その瞳は冷たく、計算を重ねた光を宿していた。
僕は息を飲み、隣のパールを見る。彼女は小さく唇を噛んでいた。
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出発前、僕らの部隊にひとり加わった。
黒いコートを翻し、顎を上げ、例の金色の瞳を光らせた男——エルナートだ。
「……ふん。赤毛、昨日ぶりだな」
なんなんだろうこの人?
一応先輩なんだけど、なぜ僕たちにばかり構ってくるんだろう?
エルナートはわざとらしく髪をかき上げ、鼻で笑った。
「覚えていなくてもいい。だが運命は覚えている。今日ここで再び交わるのも必然——」
兵士の一人が横から割って入った。
「エルナートさん、馬車の積荷確認を」
「……承知した」
背を向けるその肩が、わずかに落ちていた。
「今の誰?」パールが小声で聞く。
「昨日の人」
デーネは真顔で呟いた。
「演説癖。記録に残す」
レグは爆笑していた。
「あいつ、面白え!」
緊張が張り詰める朝なのに、笑ってしまった。けど、胸の奥の不安は消えなかった。
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列が整い、門が開く。
外の空気が、砂と草の匂いを混ぜて流れ込んできた。
東の空は赤く、低い雲の下で遠くの地形が揺れて見える。
僕らは一歩を踏み出した。
ただの演習。そう言い聞かせても、心臓の鼓動は早い。
門を抜けた瞬間、冷たい外気が頬を撫でた。
壁内の湿った空気とは違う。砂と草、遠い風の匂いが胸に突き刺さる。
行列は道幅に広がり、補給馬車が軋む音が響く。東の地平線はまだ朝の赤を残し、影が長く伸びていた。
「やっぱり……静かすぎない?」
パールが小声で呟く。
僕は刀の柄に触れながら頷いた。
「うん。普段ならもっと鳥の鳴き声とか、音がするはず」
その時だった。
馬車の先頭から、甲高い悲鳴があがった。
砂を割るように黒い影が地面から飛び出す。
灰色の獣。背に棘を持ち、牙は岩のように硬い。昨日の気配の正体だ。
「っ来た!」
レグが真っ先に飛び出し、拳を叩きつける。
衝撃で獣は一歩退いたが、別の個体が横合いから突進してきた。
「パール!」
「任せて!」
彼女は探知で一瞬早く動き、獣の進路に神力を叩き込む。
しかし体格差は大きい。踏ん張りきれずに押し込まれた。
——間に合う。
僕は刀を抜いた。
紫の神力が一気に迸り、刃に吸い込まれていく。
斜めに振り抜いた瞬間、獣の棘ごと両断した。
振り抜いた軌道に残る紫の残光。空気が震える。
「……やっぱ、強ぇな」
レグが振り返って笑う。
僕は答えず、息を整えた。紫はもう以前みたいに暴走しない。吸って、吐いて、3。呼吸が整えば制御できる。
後方から、冷静な声。
「残り3。左右から接近」
デーネだ。眼鏡越しに鋭く状況を見抜いている。
「左、任せろ!」レグが吠える。
「右は私!」パールがすぐに動く。
僕は中央へ踏み出した。
「赤毛! 下がれ!」
ん?
ここ最近聞き慣れたようで、馴染まない声が飛ぶ。
黒いコートを翻し、長槍を構えて獣を突き飛ばす男。エルナートだ。
「な……またあんた?」
「また、とは何だ! 運命だ! 必然だ!」
言い切った彼の声は妙に力強かったが、その直後に別の兵士から「積荷確認を!」と呼ばれ、顔が引きつった。
「ウルス、知り合いなの?」
パールが小声で聞く。
「……わかんない」僕も答えようがない。
でも、槍捌きは確かだった。獣の突進を逸らし、僕の刀の射程に誘導してくる。
「今だ、赤毛!」
その声に合わせ、紫の刃を振り下ろす。
刃は獣の胸を貫き、砂を血で染めた。
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戦闘は短かった。
最後の1体はレグの拳で顎を砕かれ、静かに倒れ込んだ。
あたりは再び、朝の静けさに包まれる。
ただし、倒れた獣の残骸がその異常さを物語っていた。
本来なら外壁からもっと離れた場所にしかいないはず。
それが、こんな近くに。
「……やっぱり、おかしい」僕は呟いた。
パールが頷く。
「誰かが“寄せてる”。自然じゃない」
デーネは血の跡を記録しながら低く言った。
「戦略的に使われている可能性がある」
その時、背後から落ち着いた声がした。
「ふむ……やはり赤毛。お前は俺の見込んだ通りだ」
黒コートの男——エルナートだ。妙に胸を張っている。
でも、僕ら4人の中で彼を覚えている者はひとりもいなかった。
……ただ、確かに感じる。
この出会いも、戦いも、何か大きな流れの一部なんだと。
刀を納めた手首のバングルが、じり、と熱を返す。
それはまるで「まだ進め」と告げるように。




