第95話:顔も覚えていない
次の日の朝、鐘が三回鳴った。
点呼、装備点検、簡単な指示。今日は訓練じゃない。東門までの補給護衛だ。
「軽任務だ。荷車二台、食糧と手当品。隊列は二列、速度は一定、寄り道禁止」
当番士官の声はいつも通り乾いている。
軽任務。——そう言われて、正直ほっとした。
けれど胸の奥のざわつきは消えない。
「ウルス、前列右。私は左後ろで視界確認」
デーネが淡々と配置を口にする。声は落ち着いているけれど、瞳の奥が少しだけ硬い。——あの夜の会話を、彼女はもう知っている。
「レグは後ろの押し役。絶対、押しすぎない」
「任せろ。一定出力でいく」
「単位は?」
「気合い」
「それは単位ではない」
やり取りに、パールがくすっと笑って空気をやわらげた。
「はいはい。私は前方探知。人の流れ、風の向き、全部拾うから」
荷車の取っ手は冷たい。吸って、吐いて、三。神力を薄く指に纏わせ、握りしめすぎて汗で滑らないように。
内壁沿いの石畳を出発する。
朝日がまだ低く、影は長い。
市場の屋台は半分しか開いておらず、焼いた穀パンの匂いが風に乗る。壁面に沿って走る排水路の水は薄い灰色で、表面に細かな砂が浮いていた。
「人の密度、右前から増える」
パールの声に合わせ、僕は荷車を半歩だけ左へ寄せる。すれ違いで肩がぶつからないように。
デーネが視線だけで「よし」と伝えてくる。こういう小さな“合う”が、今日は妙にありがたい。
しばらく進むと、壁の内側道が狭くなる箇所に差しかかった。
そこに——見覚えのある形があった。
排水路際、湿った砂に、花びらを四枚並べたような足跡。
一度だけ見て、一度で忘れられなくなった形。
僕は歩幅を崩さず、ほんの一瞬だけ視線で示す。
デーネは瞬きひとつで受け取り、小さくメモした。
パールは息を殺して近くの人波を読む。
「今は立ち止まらないほうがいい。見られてる」
見られている。
そう思ったとき——
「そこの部隊、足並みがいいな」
前方の角から、鎧を着た男が歩み出た。
上等な鎧なのに、どこか黒いコートの影を残している立ち姿。手には書類、腰には剣。顔はやけに整っていて、声は低く響く。
「……危険地帯だ、気を抜くな」
唐突にそんなことを言って、顎だけで東を示す。
僕は荷車を止めずに会釈した。
「ありがとうございます」
パールは小声で僕の耳をつつく。
「誰?」
レグは囁く。
「偉そう」
デーネは一秒だけ男の徽章を見て、「西軍、臨時監督官」と即答した。
男は、なぜか誇らしげに鼻を鳴らした。
「……赤毛。お前、前より“呼吸”が良くなったな」
「え」
「紫は薄く、長く。崩すな。風下に入るな。以上だ」
——なにこの“昔から知ってます”感。
僕は曖昧に頷くしかなかった。心当たりはない。
男はそのまま踵を返しながら、わずかに拳を握った。
「今の、誰?」
パールがもう一度聞く。
「……たぶんエルナートっていう団員」デーネが小声で答える。
「資料で名前見たことがある。アル団長の部下」
名前だけ、胸の底で冷たく転がる。アル——西軍——東門。線が細く繋がる気がした。
僕らは再び歩き出す。荷車の車輪が石畳の継ぎ目を“コト、コト”と刻む。
さっきの花形の足跡は、もう人の靴に踏まれて形を崩し始めていた。
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壁沿いの道は、しだいに東門の音を帯びはじめる。
号令、金具の触れ合う音、訓練の掛け声。いつもより数が多い。
東門前の広場に入ると、兵が縦列で並び、荷積み場の周囲に臨時の柵。標識旗に西軍の紋。
当番係が声を張る。
「配達はこっち!印を押していけ!」
荷車を引き渡すと、確認官の男が書類に素早く印を押しながら言った。
「早いな。助かる」
「今日、やけに人が多いですね」
「準備だよ。三日後の」
「準備、ですか」
「準備だ」
同じ言葉しか返ってこない。顔は笑っているのに、目の奥は急いでいた。
荷の確認を待つ間、僕らは列の端で目線だけを動かす。
パールの肩が微かに強張る。
「視線が二つ、巡回は三分周期。口笛の合図あり」
デーネは柵の配置を目でなぞる。
「人の流れの締め方が臨戦。通常の補給じゃない」
レグは荷積み場の箱を見て唸った。
「でかい」
「中身?」
「たぶん杭。厚い木と鉄。数、かなり多い」
杭。壁外に仮設線を張る時に使うやつだ。展開の速度を上げるための。
そのとき、横から声が聞こえた。
「そこの赤毛、こっちだ」
さっきの男——エルナートが手招きする。
近づくと、彼はわざと周囲に聞こえるように低く言った。
「いい連携だ。貨車の押し方に迷いがない」
「ありがとうございます」
「……俺と会うのは二回目だな」
「……え?」
「いや、三回目か?」
数、ぶれてる。
パールがにっこりと笑って割って入る。
「あのー、どちらさまで?」
エルナートの瞳が一瞬だけ泳ぐ。
「臨時監督官の、エル……いや、**通称“黒烏”**だ」
「黒烏……聞いたことない……誰がそう呼んでるの」
「……俺」
レグが腹を抱えて笑いそうになり、僕は全力で肘で止めた。
それでも、エルナートはカッコよく顎を上げ、遠くの空を見た。
「東は、甘くない。風は変わる。足跡も、変わる。……赤毛、風下に入るな」
「はい」
「君たち四人、東の空気に慣れておけ」
彼は踵を返そうとして、足元のロープに軽く引っかかった。
何事もなかった顔で踏み越える。
彼の背は、忙しなく動く兵の列に紛れて消えた。
パールが小声で言う。
「変な人、嫌いじゃない」
レグは真剣に頷く。
「あの人、転びそうで転ばないタイプだ」
デーネは短くまとめた。
「情報は薄いが、注意喚起は正しい」
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引き渡し完了。戻りは空荷で速い。
ただ、帰路につきながらも、僕の視線は道の端を離れない。
花形の足跡——さっきの一つだけじゃなかった。石畳の継ぎ目、乾きかけの水たまり、影の濃いところ。薄く、いくつも。
「……増えてる」
思わず漏れた僕の声に、パールが頷く。
「ここ数日で、ね」
デーネは眉間にしわを寄せる。
「『合同展開』の前に数を把握したい。明日、私だけでルートをもう一度——」
「一人はなし」
僕は即答した。
「三人以上で」
彼女は少しだけ目を細め、やがて頷いた。
「賛成」
壁の上で、号鐘が短く鳴った。一回、間を置いて二回。
広場の兵がざわめき、誰かが旗を上げる。——訓練合図にしては早い。
パールが立ち止まり、振り返った。
「急ご」
「どうした」
「……視察者が来る。多分、今夜じゃない。明日」
彼女の探知の言い方は、いつになくはっきりしていた。
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内壁に沿って戻る途中、さっきの狭路で僕は荷車からそっと手を離し、足跡の残っていた地点に視線を落とした。
もう形はない。けれど、砂の沈み方が周辺と違う。
一歩ごとに芯がある踏み方。人の歩幅じゃない。
呼吸が少し早くなる。神力が指先に滲む。
パールが小さく指先で僕の袖をつついた。
「今は飲み込んで。帰って整理しよ」
「うん」
タイフの裏手まで戻るころ、太陽は壁に引っかかるように傾いていた。
荷車を返し、印を貰い、いつもの通用口から中へ。
汗の塩、木の匂い、遠くで誰かが弾く弦の音。日常の色。
「任務、終了。……お疲れさま」
デーネが一拍だけ間を置いて言う。
パールが伸びをしながら笑った。
「夕飯、当ててあげるわ。魚よ」
レグが「肉」と即答し、ふたりが言い合いを始める。
僕は笑って、転がり続ける考えを胸の奥でいったん折りたたむ。
角を曲がる前、ふと振り返ると——
通りの影の向こうで、黒いシルエットがこちらを見て、すぐ消えた。
さっきの男かもしれない。
あるいは、ただの影かもしれない。
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夜。
報告書の欄「特記事項」に、デーネが淡々と書いた。
《東門:兵力密度の増加/杭材搬入多数/合図旗の更新(1→2→1)/視察者の兆候/路傍に花形足跡の旧痕》
僕はその下に、短く追記する。
《足跡は“芯の重さ”あり。人の歩幅になじまない。次回も観察》
パールは赤ペンで欄外に書いた。
《明朝、門前の人流と合図の周期をカウント。三人で行く。安全第一》
レグは……絵を描いた。
花形の足跡。意外とうまい。
「特徴の把握は絵も大事」
「たしかに」
僕らは笑って、その紙をファイルに挟んだ。
窓の外、壁の上で旗が一回だけ立った。
空気が変わる前の匂い。
東の空は、もうすぐざわつく。
その手前で、僕らは足場を固める。
薄く、長く。吸って、吐いて、三。
明日も同じ呼吸で、同じ道を、少し違う目で歩く。
——そして、黒コートの誤算が、またひとつ増える。
きっと僕らは明日も、誰かの計算の外側にいる。
それでいい。外側から、見えるものもある。




