第94話:聞こえてしまった声
夜は、静かに深くなっていく。
城壁内の風は砂の匂いを落として、かわりに石と油の匂いだけを残した。ランプが揺れるたび、各隊の本部で長い影が伸びる。影は重なり、離れ、また重なる。——その夜、4つの視線が、同じ未来の一点を別々の角度から見ていた。
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西軍本部・私室。アルは地図に顔を寄せていた。
机いっぱいに広げた外壁地図には、赤い印がいくつも散っている。印の並びは偶然ではない。外で見つかった“花形の足跡”を基点に、補給路、視界の死角、魔物の出没情報、隊の交代時間……すべての層を重ね、赤い点を置いた結果だ。
「……始めどきだ」
金髪を後ろで雑に結い直し、アルは指先で赤い点をゆっくりとなぞった。頬に落ちる影は薄い。目だけが笑っていない。
花形の足跡は、ただの足跡ではない。
踏圧が軽いのに深い。人でも獣でもない歩幅。途中の砂質が変わっても、爪痕も、ひびの割れも残さない。痕跡を“消す”知性がある。——あれは“生きている何か”だ。未知。恐怖。そして、口実。
「ギウスは外に釘付け。ルナーアは内で足止め。両輪を奪えば、全軍の舵はこっちに向く」
声は低い。自分にだけ聞こえる温度で、言葉を置いていく。
やることは単純だ。西軍の兵站と連絡線をひとまとめにして握る。
報告書には“外の脅威”を丁寧に積み上げ、議場で王の不安を丁寧に増幅する。
ギウスの現場判断は“勇断”から“独断”へ、ルナーアの慎重さは“冷静”から“臆病”へ——読む側の目を、少しだけ導けばいい。
あとは契機。外で“不測”が起きれば、指揮権は自然に集約される。集約先を、自分にしておく。それだけのことだ。
「……“あの足跡の主”は、餌にも網にもなる」
アルは椅子に身を預け、天井の梁を見た。梁の節目が、昔の剣の節目と重なる。野心という言葉は好きじゃない。だが、否定する気もない。自分が握った方が速い。広く、深く、長く、守れる。そう信じているし、信じた方が前に進める。
ランプが一度、消えかけてまた灯った。影が獣の顎のように開いて、閉じた。
「明日、東門に兵をできるだけ集めておけ。準備は……3日でいい」
戸口に控えていた副官が小さく頷く。紙の音。足音。扉が静かに閉まる。
地図の端で、赤い花がひとつ、夜の中で咲き続けていた。
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北軍本部・書庫奥。ルナーアは眼鏡を外して、両眼の疲れを指で押した。
暖炉は控えめに火を抱え、室内の匂いは紙と革と煙で満ちている。
机を挟んで座るのは、デーネの母——ボライオネア家の当主。白い指が紙の端を正確に揃え、封蝋のひびを確認する動きにも無駄がない。
「……外の危険は、もう“仮説”ではない」
ルナーアは机上の地図に、自分と異なる赤い点を置いた。通信遅延の記録、補給の欠損、宣教師の巡回ルートの増加。どれも静かな波だが、重ねると潮流になる。
「アルは、動くでしょうね」
デーネの母の声は静かだ。柔らかさはあるが、熱はない。職人の刃のようにまっすぐだ。
「ええ。彼は“良い団長”であり続けることで、良い“王の歯車”にもなれると信じている。だからこそ、危険です」
ルナーアは眼鏡を置き、彼女をまっすぐ見る。
「——その前に、娘さんを戦線から外したい。あなたが後継を必要とするなら尚更。ここから先は、学者の目と手が要る。剣ではなく、言葉で守る場所がある」
短い沈黙。
やがて、デーネの母は封筒をひとつ、机の上に押し出した。封はまだ閉じられている。
「これは古記録。国王にも、王宮の書庫にもない“穴”がいくつか示されています。正しく使えば、ある人物の信用を揺らせる。けれど、刃は両刃。あなたが誤れば、あなたの信用も同時に折れる」
ルナーアは封筒を受け取り、わずかに笑った。微笑ではない。決意に近い。
「危ない橋は慣れてます。……ただ誤解しないでください。私はあなたの娘を“駒”にする気はない。私の計算の外側に、彼女を置いておくために動く」
「その言葉、今は信じましょう」
火が小さくはぜた。時の音。ルナーアは立ち上がる。
「次に会う時は、外すための“筋道”を持ってきます」
扉が閉まり、余熱だけが部屋に残った。デーネの母は封蝋の残り香を嗅いで、目を閉じる。娘の指の跡は、紙のここにはない。——それでいい、と心のどこかでつぶやいた。
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東軍本部・屋上。ギウスは風上に立っていた。
酒瓶は半分。夜風は強すぎず、弱すぎず。遠くで兵の笑い声。真下で教練の木が軋む音。鼻に入るのは鉄と汗と革の匂い。
「……面倒くせぇ」
独り言は風に消える。けれど胸のうちでは何度も反響した。
アルが何かを企んでるのは分かる。ルナーアが何かを警戒してるのも分かる。——だが、分かるのと、動けるのは別だ。証拠のない剣は、鞘の中で折れる。
ギウスは赤黒い神力を、指の骨のあいだに少しだけ流した。熱くも冷たくもない。長年の相棒のように、そこにいる。
「若いのを巻き込みてぇわけじゃねぇがよ」
石に腰を下ろし、空を見た。星は少ない。砂の国の星は、よく隠れる。
壁の外で拾った“花の足”。見たことのない踏み方。あいつが——……いや、違う。考えると顔の筋肉が勝手に動くので、考えない。
ギウスは酒瓶を置いた。肩を回す。首を鳴らす。
「来るなら来い。来ねぇなら、俺が行く」
派手な言葉じゃない。けれど、中身は派手だ。彼はいつだってそうだった。豪快に笑って、豪快に殴って、豪快に守る。その裏で、動く時をちゃんと待つ。
風が変わる。南から、少しだけ湿り気のある匂い。——外の風だ。
「……ったく、面白くなってきやがった」
笑って言った。笑いは短くて、芯があった。
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北軍・廊下。僕は、扉の隙間から落ちる明かりを見ていた。
デーネを探して歩いていたら、たまたま——本当にたまたま——この扉の前を通りかかった。ルナーア団長の私室。中から、低い声。
「外壁任務からは外すべきです」
思考が止まって、次に早く動いたのは心臓だった。喉がきゅっとすぼまる。
隣でパールが眉を寄せる。レグは腕を組んだまま、ふん、と短く息を吐いた。僕ら3人は顔を見合わせ、声を殺し、足音を消して、その場に“留まった”。
“留まる”って、こんなに体力を使うんだな、と変なことを考えた。
扉の向こう、落ち着いた声が続く。
「今回の調査で外の脅威が明らかになった。彼女を残す理由は、もうありません」
それに応じる、凛とした女性の声。デーネの母だ。
「理解しています。ですが、あの子は自分の意志でここに立っているのです。……ただ、私も同意します。命を落とす前に、盤上から降ろすべきだと」
息を吸い忘れていたことに気づいて、そっと吸う。肺が少し痛い。
——デーネを、外す。
頭の中でその字がゆっくり浮かんで、沈んだ。沈んだまま、動かない。
やがて椅子の音、布の擦れる音、短い沈黙。「今夜のことは、まだ誰にも——」で、僕らは離れた。何も見ていない顔で角の影に入る。心臓の音が足音よりうるさい。
影の中で、パールとレグが僕を見た。言葉がなくても分かった。——どうする?
部屋に戻って机を囲む。声を小さくして話す。レグは短く言った。「本人に言う」。パールは「言い方を選ぶ」と眉を寄せた。僕は——「僕が言う」と口に出した。出した瞬間、腹の奥が冷たくなった。でも後悔はしなかった。
ノック。扉が開く。デーネの眼鏡越しの瞳は、いつも通りだった。いつも通りの顔に、いつも通りじゃない言葉を、僕は置いた。
「——デーネ。君を、外そうとしている人がいる」
僕の声は思ったより落ち着いていた。言い終えて、彼女の瞳が揺れるのを見た。揺れは小さい。すぐに止まる。すぐに、考える顔になった。
しばらくして、デーネは頷いた。「ありがとう」。ありがとう、って言うのか。僕は少し混乱して、「ごめん」と返した。何に対する“ごめん”なのか、自分でも分からなかった。
部屋を出ると廊下は静かで、僕の足音だけが石に吸い込まれた。窓の外、夜風。遠くに灯り。近くに影。影の先は、まだ見えない。
でも——この夜で、確かに何かが始まった。
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同じ夜に、4つの思惑が、4つの決意が、4つの呼吸が、壁の内側で交錯した。
アルは地図の上で線を引き、外を口実に内を握ろうとしている。
ルナーアは記録の上で網を張り、若い命を盤上から外そうとしている。
ギウスは風の上で時を待ち、来るものを正面から殴る気でいる。
そして僕は、扉の前で言葉を選び、友だちの肩に手を置いた。
——夜は深い。けれど、朝は来る。
その朝に、誰がどこに立っているのか。
それを決めるための、最初の夜だった。




