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7. 母娘

「ああ、ばからしい」


 私は独り言を言うと、冷蔵庫から麦茶をピッチャーごと持ってきた。


 こういうときは缶ビールをぷしゅっと開けたいところだけど、家に酒は一切ない。


 私がこうやって飲み会に出るのも、毎回毎回しつこいくらいに渋い顔をする。


 それが窮屈で息苦しくて、私は麦茶を勢いよく注ぐと、テーブルとカーペットにこぼれるのもかまわず、一気飲みした。


 お母さんがふらっと動いた。


 そのまま寝室に行くのかと思いきや、台所からグラスを持ってきた。それから、さっきまでおじいちゃんが腰掛けていたソファーの私の隣に座った。


 手には、手のひらサイズの黒い瓶を持っていた。

 よく見ると、そのラベルに書かれているのは『泡盛』の文字だった。


「どうしたの? お母さんこれ」


 我が家で初めて、ザ・お酒というものを見た。


「去年、店長が沖縄に行った時の旅行土産よ」

 お母さんはそう言って黒いボトルをテーブルの上に置いた。


「これ封切ってあんじゃん」

 お母さんは外国人みたいに肩をすくめると、グラスに泡盛を一cmほど入れて、ショットのように飲み干した。

 それから盛大に咽せている。


「何やってんの? お母さん。泡盛のアルコール度数ってエグいくらい高いんだからね」


  私は慌てて台所に行って水を汲んできた。

「ありがとう」

 涙目でグラスを受け取ると、お母さんは水を一気飲みする。

 私はあきれたようにお母さんを見た。


 いい年した大人が何やってんだか、まったく。


「いいわよ、律子も飲みなさいよ」

 お母さんは、私がお酒をねだっていると思ったらしい。


 まあ、でもせっかくなので、私も冷蔵庫から氷とミネラルウォーターを持ってきた。


 そういえばつまみになりそうなイカの燻製があった気がする。


「お母さん、この前買ってきたイカの燻製は?」

「戸棚の中に入ってるわよ。そうだ、砂肝の缶詰があったわね。あと、こないだお隣さんからもらったヨーロッパ土産のチョコレートが冷蔵庫に入ってるわよ」

「ああ、あの、一個食べてみたらドロドロに溶けてたやつね」


 ソファー前のテーブルに、諸々の物を置いていく。


 ちょっとした宴会のようだ。


「乾杯」


 泡盛の水割りを作って、私とお母さんは静かに乾杯した。


 泡盛独特の甘いような、ほろ苦い香りが鼻を突き抜けていく。


「美味しい。これ高いやつじゃないの?」

「そうなのかな? 古酒って書いてある。十年熟成ものだって」

「ええ、それ絶対高いやつじゃん。何? お母さん、店長に好かれてるんじゃないの?」

「やめてよあんなバツイチのおじさん」

「お母さんそれ、ブーメランで返ってくるからね」

 私はイカの燻製を噛みながら突っ込んだ。


 お母さんは私が小さい頃からパートをしている。

 精肉屋さんで働いていたこともあるし、スーパーのレジ打ちをしていたこともある。

 今はファストファッションの契約社員をやっている。

 そこそこに垢抜けていないといけないらしく、化粧も髪型も気を使うようになってくれたことが、娘の私としては嬉しい。


 前はおばさんそのものだったからな。


 しばらく二人で酒のつまみをつまみながらちびちびと泡盛を飲んだ。



 それにしても、感慨深い。まさかお母さんと酒盛りをすることになるとは。


 我が家は一切アルコール禁止だったから、二十歳のお祝いに乾杯したのは、ノンアルコールのスパークリングワインだった。



『大人になってから親と酒を飲み交わす』なんていうイベント、私の人生には一生起こらないんだろうなって思ってたけど。



 人生何が起こるかわかんないもんだね。

 まぁそもそも、今日のイベント自体がイレギュラーを極めてるけど。



 だったら、と私はいつもタブー視されている話題に突っ込んでみようと思った。



「ねぇ、お父さんとお母さんは別れないの?」

「何言ってんのよ、律子」


 お母さんが軽くあしらうように言った。


「私知ってるんだから。お父さん浮気してるでしょう?」


 お父さんは婿養子なわけではないらしいけど、妻の実家に同居しているというのは肩身が狭いらしい。

 詳しい事情はみんなが口を濁すからわからない。でも、どうやら私が幼稚園くらいの時にお父さんがリストラにあって、それを機に妻の両親と同居することにしたらしいのだ。


「別に離婚したいなら離婚すればいいんじゃないの? そんなにお互い好きでもないのに、一緒にいる意味なんてある? 私、来年には社会人になるんだよ。両親が揃っていないといけないわけでもないし」


 家では一切お酒が飲めないお父さんは、時々お酒の匂いをさせて家に帰ってくる。その時には必ずと言っていいほど女ものの香水の匂いがする。



 お母さんは気づいてる。

 おばあちゃんだってきっと気づいてる。

 でも誰も何も言わない。

 今日だってそう。『お父さん』っていう言葉すら会話には出てこない。 



  「大人にはいろいろあんのよ」

 お母さんが疲れたように言った。


「ああ、またそれ。『子供にはわかんないよ』ってやつ。でも、もう私とっくに成人してるし。来年からは社会人だよ。それでもまだ子供扱いするの? いつまでも私を言い訳にするのはやめてよ」


 話しているうちに怒りがこみ上げて、口調が鋭くなってゆく。

 いかんいかんと私は深呼吸した。


 自分で自分のことを大人だって言うんだったら、こんなところでカッとなってはいけないのだ。


「ごめん、律子にはつらい思いをさせちゃって」

「そういうことじゃないよ。私は女として、女のお母さんの人生の話をしているの。なんて言うか、普通にイタイよ。私がもし友達だったら、そんな男とさっさと別れなよって言うよ」


「律子はまたそんなこと言って」

 お母さんはこの期に及んでも、まだ冗談にする気らしい。ハハと笑う。


「お母さん、何度も言うけど、私は子供じゃないんだよ。この前別れたけど、彼氏もいたんだよ。この意味わかるよね」


「……何言ってんの? 律子」

「何言ってんのじゃないよ。私だってとっくに自分が母親になれる年齢にも体にもなってるって言ってるの。いつまでも『将来パパと結婚する』って言ってる子供じゃないんだから」


 お母さんは言葉をつまらせて、それから手に顔を埋めて大きなため息をついた。


「わかってる、わかってるわよ。律子がもう子供じゃないことくらい。でも、それにしかお母さんにはすがるものがないの。子供のために頑張ろうって思ってきたから、今までやってこれたのに……律子が子供じゃなくなったら、私一体どう生きればいいのよ」


 お母さんの声が湿っぽくなってくる。

 そのうちお母さんは泣き始めた。


「……お母さん」


 わかってる。お母さんが苦労して私のことを育ててくれたことは。

 片親同然と近所の人に言われているのも知ってる。

 小学校の頃には、同級生に『律子ちゃんのパパおうちに帰ってこないんでしょう?ママがそう言ってたよ』と言われたこともある。


 うちはおじいちゃんも、おばあちゃんも、近所で悪目立ちしてたから、私たち親子もその一挙一動を周りに見られていたんだろうな、と今になったら冷静に考えられるけど。



 そういえば今思ったんだけど、お父さんって家にお金を入れてるんだろうか?

 私はお父さんに、誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも、もらったことはない。

 授業参観にも運動会にも、来てくれたのはいつもお母さんだ。


 大変だったのだろうと思う。

 私だってバイトをして、お金を稼ぐ大変さもわかるようになった。


 働いて、家事をやって、子供の面倒を見て。


「お母さんいつもありがとう。それから、ごめん」

 普段だったら照れくさくて言えないけど、私は勇気を振り絞って言った。


「……うん。こっちこそありがとう。私もごめんね。


  律子が大きくなるまではって、この子には私が必要だからって、自分に言い聞かせて……ううん、違うね。あなたを言い訳にしてたんだね、お母さん。ごめんね。


 律子がうっとうしがる気持ち、お母さんにもわかるよ。お母さんだって小さい頃はおばあちゃんとおじいちゃんが煩わしくて仕方がなかった。


 でも一人っ子だから、長女だからって自分に言い聞かせて、そのうち言葉にすることもできなくなっちゃったんだ。馬鹿だよね。


 律子は偉いよ。ちゃんとに相手に向き合って、素直に言葉にできるんだから。それを大切にしなさい。お母さんみたいになっちゃだめよ」


「そんな言い方しないでよ。私は別にお母さんに謝って欲しかったんじゃなくて、自分の人生を生きて欲しいって言ってるの。お母さんはまだパートしてるからいいけどさ、ずっとおばあちゃんみたいに専業主婦だと、家族以外にすがるものが無いんだよ。それでいいの? お母さんの人生」



 おばあちゃんとお母さんを見て育って、私は絶対に専業主婦にはなるもんかって小さい頃から心に決めていた。


 家の中がすべての世界だなんて、旦那はお父さんみたいに浮気しちゃうかもしれないし、子供だって大きくなったら出て行くし、もしかしたら自分より先に死んじゃうかもしれない。


 ただ家族が帰ってくるのを家で待って、家の中を整えるだけの人生なんて、私には耐えられない。


「お母さんだってまだ若いんだからさ、さっさと離婚して婚活すればいいじゃん。そういうバツイチ専門の婚活サイトだってあるみたいだよ。どっかに元イケメンのヤモメが落ちてるかもよ」

 私は冗談っぽく言った。


 お母さんも笑って答えた。

「そうね、油田を持ってるお金持ちとかいいわね」


「そうそう。子供たちはもう成人しててさ。会社はもう引き継いだんで隠居生活をしたいんですけど、ついてきてくれませんか? みたいなおいしい案件がいるかもよ」


 ふふっとお母さんが笑い出す。

 私もつられて笑い出した。


 なんとなく言葉が途切れた。

 聞こえてくるのは、エアコンの稼働する音と、扇風機の首振りの音。

 からんと氷が溶けて落ちる音がグラスからした。


 静かでいい夜だ。

 こんなにすっきりした気分になるのは久しぶりかもしれない。


 心地よさにまぶたがどんどんと降りてくる。


 ……なんか忘れているような。

 なんだっけ?

 うんえっと、そうだ、おじいちゃん。


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