4.『はじめに言葉ありき、ついで世界ありき』
僕は会計を終えて店を出た。財布は軽くなったが足取りは重い。涼しげな夕空を見上げていたエルがこちらを振り向いた。すぐそこに三人掛けのベンチがあったので座って話すことにした。間の席にお互いの荷物を置いて腰を下ろすと、彼女は先ほどの話を続けた。
「アイは言語学者のソシュールって知ってる?」
「知らないな。何をした人なんだ?」
「近代における言語と世界の認識に大きな影響を与えた人物よ。構造言語学っていう学問の父とされているわ」
さっき言っていた“雨”の話はここにつながるわけか。空には雨色の模様はみじんもないけれど。掴んだら崩れてしまいそうな雲だけがぽつぽつと浮かんでいる。よほど間の抜けた顔を晒していたのだろうか、気づけば彼女は少し不満げな顔で僕を見ていた。
「さっきから空ばっかり見て、いったい何があるっていうの…と言いたいところだけど、私も空を見て思うところがあるのよね…雲ってぶっちゃけ世界なの。ところでアイ、神さまっていると思う?」
ぶっちゃけすぎだし、さらに重ねて何だって?神様?エル、無茶ぶる君は神様なんかよりもよっぽど全能感に溢れているんじゃないか?君は本当は僕を惑わせたいだけなんじゃないか?
「さあね。なんとなく居てほしいとは思うけど」
「ま、あなたの意見なんてどうでもいいんだけど」
自分で訊いておいて何て言い草だ。彼女の傍若無人さにももうそろそろ慣れてきそうだ。
「『はじめに言葉ありき』という聖書の言葉があるの。これは、万物は神の言葉とその使徒イエス=キリストの言葉によって規定されるということを表しているわ。聖書的な世界観から言えば、神さまが世界をお創りになって、様々な要素で世界を満たし、その各要素に言葉という呼び名を与えていったということになる」
「じゃあ、聖書的には神様が天から水滴を垂らして、それを“雨”と呼んだってことか。でもそれじゃあ、はじめに世界があるじゃないか。言葉じゃなくて」
「その通りよ。『はじめに言葉ありき』ってちょっとした誤訳らしいのよ」
「それを先に言ってくれよ…」
「オホン。で、話を戻すと、近代以前は言語学にもそういう聖書的な世界観が通念としてあったの。それを根底から覆したのがソシュールだった。彼は、言葉が世界の各要素を規定すると考えたわ。『はじめに言葉ありき、ついで世界ありき』ってね」
「どこがどう違うんだ?」
「雲は世界だってさっき言ったでしょ?まず、言葉がないと、世界は雲みたいに捉えどころ無く広がっているの。この段階では世界はとても無機質な状態ね。そんな雲みたいに漠然とした世界を切り分けて、色付けていくのが言葉なの」
「それがソシュールって人の考えか。聖書的にはモノがまずあって、それに名前が付けられる。でも、ソシュールさん的には、言葉によって世界は特徴づけられて…」
その瞬間、これまでのエルの言葉の数々が僕の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消え、そして繋がった。
「じゃあ君が“雨”を消すっていったのは…」
「そういうこと。言葉が消えるということは区別が無くなるということ。つまり認識できなくなるということよ」
「じゃあ言葉がひとつ消えて、世界の真ん中にぽっかり穴が開いても…」
「周りの言葉が補うわ。この場合なら水とか雪とか嵐とか。もっとわかりやすい例もあるわ。日本語と別の言語を比べればいいのよ。例えば日本語では“蛾”と“蝶”は別物よね。でもフランス語ではそれらをまとめて“Pappillon”と呼ぶわ。日本人は蛾にはマイナスの、蝶にはプラスのイメージを持っているけれど、フランス人にとってはその二つに区別がないの」
「なるほど、とてもしっくり来たよ」
だけど、しっくり来たくなかった気持ちもある。なぜなら、この説明に納得してしまえば、彼女の荒唐無稽な話をすべて認めたようなものだからだ。
「私の話をまだ信じる気はないの?」
そんな僕の心を見透かしてかそう問うた彼女は、なぜか不敵な笑みを浮かべて言った。
「次に目を開けたときにはどんな都市伝説も信じずにはいられない、そんな体験へ君を招待するわ」
彼女の指がパチンと鳴らされた。すぐそばを通り過ぎたカップルの談笑する声も、向かいの道路でサイレンを鳴らすパトカーの音も、まるで水の中に潜っているかのごとくぼやけて聞こえる。ふたたびパチンと乾いた音がした。僕は溺れかけの子供のように夢中でそのかすかな音に縋った。僕が勝手に溺れかけている間も、エルはずっと僕を見ていた。不思議な引力を帯びたその目で、僕を見ていた。またパチンと音がして、僕の意識は彼女の目に吸い込まれていった。
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