1.邂逅
思い返せばあの日も雨だった。梅雨入り前の、それはうざったい雨だった。でも僕は傘もささずに夜道を歩いていた。行く当てもなく歩いていた。自分という輪郭が雨に溶けるのをただ待っていた。なぜそうしていたのかはわからない。僕は恵まれている。生まれてこのかた、苦労らしい苦労をしたことがない。それはひとえに周囲の環境に依るものだ。それなのに僕は、ありがたさを感じるべきこの世界にどこか違和感を感じてしまう。自分でもよくわからない。分かるのは僕が恩知らずで嫌な奴だということだけだ。そんな満たされなさの感覚が僕を雨の夜道に連れ出したのかもしれない。
びしょ濡れの僕の前に彼女は気づけばいた。なぜか傘もささずにこちらを覗いていた。その目には呼吸を奪われそうになるほどの不思議な引力が宿っていた。僕はしばらく呆気に取られていたがやがて正気を取り戻し、彼女の横をそそくさと通り過ぎようとした。
「あなたは雨が好きなの?」
彼女の声は雨音の中でも不思議とよく通った。言うだけ言って、彼女はまたじっとこちらを見つめていた。たしかに、僕は今はたから見れば今晩のシャワー代わりに雨を浴びる変人に違いなかった。僕は彼女の視線に負けて答えた。
「基本的には嫌いさ。でも少しでも濡れてしまったら、いっそずぶ濡れになればいいやって思ってしまうんだ」
雨は嫌いだ。でも、この雨の中で傘もささずに言葉を交わす酔狂な二人は雨が嫌いだとは間違っても言えないだろう。妙な沈黙の後、彼女は口を開いた。
「そう、嫌いなのね。じゃあ私が“雨”をこの世界から消してあげるって言ったらどうする?」
は?
「正確に言うと“雨”という言葉をこの世界から消すことになるけれど」
「それが可能だと言わんばかりの口ぶりじゃないか」
「いいからどうするのよ」
「どうするも何も雨が世界から無くなったらいろいろ困るでしょう。飲み水の確保とか農業とか…」
「つまらない人。もういいわ」
そう言い残して彼女は去ってしまった。しかし彼女は何を言っていたのだろう。この世界から雨を消す?言葉を消す?彼女は頭がおかしいのか?あと捨て台詞で罵倒してこなかったか?このときの僕がどんなに呆けた顔をしていたか、写真に残せなかったのが悔やまれる。
お読みいただきありがとうございました。