第六話
「……瘴気、やっぱり薄くなってますよね」
「そうだな」
チェルシーが俺の顔を覗き込む。お顔が見やすくなりました、と笑った彼女がこの家に来て二か月が経とうとしている。聖女の力をもってしても祓えなかった瘴気が、ここ最近薄くなっていた。それに伴い魔力もだんだんと回復してきて、その速度は当初考えていたものより格段に速い。体感で言うと五割近い魔力が戻っていると思う。
年単位でかかると思っていた回復がここまで速い理由として考えられるのは、今や部屋中のいたるところにあるチェルシーの刺繍だった。毎日髪を結っているリボンに加え、ハンカチ、枕カバー、寝間着にシーツにクッションと、すさまじい量になった。しかし、それらに含まれる魔力は全部合わせたところでスプーンひと匙にも満たない微弱なもので、これが直接の理由だと断言もできないでいた。
「せっかくだ。明日は街に出てみようか」
「おでかけですか?」
「うん。これくらいなら誤魔化せるだろう」
自分の顔面を片手で覆って、ゆっくり手を離す。
「……っ! 瘴気、消えてます!」
「魔法で光を屈折させて、消えているように見せてるだけだ。さすがにまだこれ以上高度な幻覚も、治癒魔法を使う元気もないから、傷跡は残ったままだが」
キズモノの男とでかけてくれるか? 顔を近付けてそう問えば、チェルシーは見たことないくらい顔を赤くした。
「……さては君」
「い、言わないでください」
「俺の顔好きだろう」
「言わないでください~!!」
真っ赤な顔を両手で隠しながら逃げようとする彼女の腰を捕まえる。
「い、今までは瘴気で見え辛かったので……!」
「そうかそうか。君が好きなら家でもこうしておくかな」
「無駄に魔力を消耗しないでください!」
ぽかぽかと俺の胸を叩き始めたかわいい婚約者を押さえ込んで、その額に口付ける。ちゅ、と小さな音を立てて離れれば、彼女は相変わらず顔を赤くして……は、いなかった。少しだけ目を見開いたあと、困っているような、悲しんでいるような、切ない顔をする。
恋人らしい振る舞いをすると、チェルシーは時々そういう顔をした。彼女にとっては親に、あるいは聖女に押し付けられたかたちの婚約だっただろうが、俺のことを嫌っている様子はないのに。むしろ好かれているくらいだと思っているのは自惚れなのか。あるいは、俺だって彼女を好きになっているときちんと伝わっていないのか。婚約者だからではなくて、君だから手を握ったり口づけたりしたいのだと、伝えておく必要があるのかもしれない。
もうひとつ、気になっていることがあった。最近、チェルシーはため息が多い。相変わらず俺の部屋で刺繍や読書をして過ごす日々だが、手を止めてぼうっとしていることも増えた。たまにはお菓子を作ったり庭を歩いたりしているが、やっぱり家にこもったままというのは気分も塞いでくるだろう。
そういうわけで、街へ出かけようと提案したのだった。
「……お出かけ用のシャツにも、刺繍を入れていたのです」
「……うん、それが出来上がるころだと思って」
「はい」
楽しみです、と眉を下げて笑った彼女の顔がもっと晴れるように。明日は存分に楽しませよう。それから、愛しいと思う気持ちをたくさん伝えよう。
「チェルシー?」
「はっ、はい、どうぞ!」
入るよ、と声をかけてから扉を開けると、彼女は慌てて振り返った。
「すみません、お待たせして……!」
「いや、構わないが……どうかした?」
翌日。チェルシーがなかなか出てこないので部屋を訪れた。女性の身支度には時間がかかるものだろうと思っていたが、彼女の支度はほとんど済んでいるように見える。衣類も最低限しか持っていなかったとメイドから聞いて以来俺が贈りまくった服の中から、かわいらしいワンピースを選んで着ていた。髪も緩くまとめていて、もう出かけられそうなものだが。
「ネックレスのチェーンが絡んでしまっていて」
彼女の手元を覗き込めば、手のひらの上には絡んだネックレスがあった。
「でも、もうすぐ解けそうなので」
「ああ、急ぐわけじゃないから気にしなくていい」
「ありがとうございます」
彼女は丁寧にチェーンを解きながら、「実家から持ってきていたんです」と言った。
「けどつける機会がなかったから、小箱に入れたままにしていて。きっとここまでの移動の間に絡んでしまっていたんですね」
「ふうん」
優しくチェーンを解すのを見ている。俺も宮廷魔導士の正装としてネックレスをつけることがあったため、チェーンが絡んだ経験もあった。こういうのは力任せに引っ張ってもだめで、今のチェルシーのように優しく丁寧に解していくに限る。
「……ああ」
「……? どうかされましたか?」
「いや、そういうことかと思って」
なにがでしょう、ときょとんとしたチェルシーは、ちょうどネックレスを解き終えたらしい。これだよ、と自分の顔を指させば、もう瘴気を見えなくしているせいか彼女は頬を赤らめた。……本当にこの顔、好きなんだな。
「この顔に残った瘴気だが、力任せに祓おうとしてもだめだった」
「……お姉様の聖魔法でも、できませんでしたもんね」
「そうだ。たぶん、強い魔力を注ぐだけでは、余計に瘴気が傷に絡んで残ろうとしていたんだと思う。いつか同等の治癒魔法を同時にかけてなんとかしようと思っていたが、おそらくそれでもだめだっただろう。力が強いだけではだめで、なんていうか、そうだな……パウンドケーキを作ったときがあっただろ」
「パウンドケーキ……?」
チェルシーは、なんの関係があるのだと首を傾げた。
「卵とバターを一度に混ぜると分離する、と言っていた。きっとあれにも近いんだ。一度に混ぜようとしても反発するから、肝心なのは、少しずつゆっくり、丁寧に」
「つ、つまり……?」
「つまり、俺を治しているのはやっぱり、君の魔法だってこと」
一見わからないくらいほんの少しの聖魔法と治癒魔法。それらがはじめはリボンを通して、瘴気に馴染み始めた。毎日髪を結っていたから、定着した魔法が長い時間ゆっくりと影響し続けていたのだろう。それから刺繍が増えることで、気付かない程度に魔力は増え続け、きつく絡んでいた瘴気が解れ始めた。
「俺の魔力が戻り始めたのも、瘴気による回復阻害の力が弱まってきたからだと思う」
「では、オズワルド様はこのまま、元に戻れるということですか? いずれ瘴気が祓われて、お顔の傷も治って、元気に動いたりたくさん魔法を使ったり、できるようになるのですか?」
「ああ、きっと」
チェルシーの目のふちに、じわじわ涙が滲み始める。せっかくメイクもしてあるのに、台無しになるぞ。
「君のおかげだ。君は本当にすごい、俺のかわいい魔法使いだよ」