第五話
「……君、また夜更かしをしただろう」
「し、して、ません」
「俺の目を見て言いなさい」
「う……」
すみません、と頭を垂れたチェルシーは、連日刺繍をしているらしかった。リボンを貰った日から一週間が経っている。あれから刺繍入りのハンカチが二枚増え、おそらく今は枕カバー。先日、執事に新品を買ってほしいと頼んでいたらしいから間違いないだろう。
「気持ちは嬉しいが、君が倒れたら誰が俺の口に食事を運んでくれるんだ」
「……最初の日に、ちょっとやそっと放っておいても死にはしないって言っていました」
「ほ~? 俺に口答えするようになったのはこの口だな」
「痛い! 痛いです!」
柔らかな頬を軽く摘まむと、チェルシーは大げさにきゃあきゃあ騒いだ。はしゃぐように逃げる腰を捕まえてベッドに引き寄せれば、彼女はそのままぽすんと腰かける。
随分打ち解けたチェルシーは、以前よりもずっと笑うようになった。これが彼女の素なのだと思えば、そう振る舞えるようになったことが喜ばしい。それから、ほんの少しずつ甘えるようになってきた。今だって、頬から離した手を後頭部に回してやんわり引き寄せてやれば、素直に体を預けてくる。愛しいと、思うようになった。
「……気休めなのは、わかっているんです。わたしなんかの魔力じゃ、いくら物に込められたって意味がないって。でも、なにかをせずにはいられなくて」
「うん。ありがとう」
放っておいたら、彼女は黙々とあらゆるものに刺繍を施すのだろうと思う。枕カバーに、寝間着にシーツに。
「けど、俺に構う時間も取ってくれないとなあ。退屈で死にそうだ」
「起きていても平気なのですか?」
「ああ。不思議とだるさが少しマシになっているから、最近は昼寝も短いよ」
病は気からとでもいうのか、はたまた単純に、時間で体力が戻ってきているのか。昼食のあとチェルシーが部屋に戻ってからも、うとうとすることが減った。
「そうだ。どうせならこの部屋でやってくれ」
「お邪魔になりませんか?」
「退屈だって言ってるだろう。俺も適当に本を読んだりしているから、疲れたら二人で休憩しよう」
俺の目が届けば、適度に休ませてやれる。いくら彼女が若いからといって、ずっと作業をしていれば体も痛くなるだろう。
「ちゃんと構ってくれ」
「オズワルド様、子供みたいですね」
「ああそうだよ。そして面倒を見ているのは君だ」
そうですね、と笑った彼女は、次の日からは午後も俺の部屋で過ごすようになった。長い時間魔術だけだった俺の小さな世界は、今やかわいい婚約者でいっぱいだ。
さらに数日が過ぎ、俺は自力で立って歩ける程度に回復していた。魔力は相変わらず空っぽだったが、空っぽの状態で過ごすことに体の方が慣れてきたのかもしれない。一緒に座って食事が取れるようになると、チェルシーは嬉しそうに笑った。
枕カバーを完成させたあと、彼女は本当に寝間着にも刺繍を入れ始めた。俺が適度に休憩させたり、今日は読書にしようと作業を止めたりするのでペースは落ちたが、シーツに取り掛かる日も近いと思う。なお、夜通しの作業を防止するため、部屋を出るときには道具を置いていかせている。
「……オズワルド様、顔色がよくなっていませんか?」
「そうか?」
「瘴気の靄が、少しだけ薄くなっている気がします」
「見慣れただけじゃないのか」
「ううん……そう言われるとそうかもしれません」
そんな会話をした二日後だった。昼下がりに、相変わらず刺繍に勤しむチェルシーをぼうっと見ていた。
少し眠気を覚えて、僅かに微睡む。五分十分のことだったと思う。次に目を開けたとき、懐かしさに体が震えたのがわかった。
「……チェルシー」
「はい、なんでしょう」
起きてらしたんですね、と顔を上げた彼女の髪がさらりと流れて目元にかかる。本人の手が邪魔そうにそれを退ける前に俺が指先を向ければ、ふわっと小さな風が起きた。
「…………オズワルド様、今」
「うん」
いま、と再び呟いた声が震えている。小さな風は自然現象としては不思議な動きで、彼女の髪をその小さな耳にかけたのだ。それがどういうことなのかわからないほど、俺の婚約者殿は鈍くはないらしい。
わっと泣き出した声が耳元で聞こえる。あっという間に俺に駆け寄ったらしいチェルシーが、俺に抱き着いてわんわん泣いている。よかった、よかった、嬉しいですと泣き続ける彼女を抱き締め返しながら、俺は初めて君から抱き着いてもらえたことの方が嬉しいよ、なんて思った。
「起きてきて大丈夫なのですか?」
「ああ。全く手伝えることはないが」
「ふふ」
ある日、たまには甘いものが食べたいと溢したところ、チェルシーが「作れますよ」と言った。休憩という名のお茶の時間に、彼女が食べている市販のお菓子をわけてもらおう、くらいの気持ちで言った言葉が、思いもよらぬ幸運を運んできた。すぐに「でも買ってきた方がおいしいですよね」と言った彼女を言いくるめて、キッチンに立ってもらっている。
「……案外力が要りそうだな」
「まだまだこれからですよ」
パウンドケーキを作るらしい。さっきまで黙々とバターと砂糖を混ぜていたチェルシーが、別の器に卵を割り入れる。よく溶いたそれを少しだけバターに入れては混ぜ、また少しだけ入れては混ぜ。
「一気に入れるとだめなのか」
「ちょっとずつ混ぜないと分離するんです」
「ふうん」
混ぜるくらいなら代わろうかと言ったけれど、休んでいてくださいの一点張りだった。魔力も体力も回復したのはごく僅かなので、大人しく言うことを聞いておく。全盛期だったら魔法で何時間でも混ぜられたのに。
ともかく、俺の手など借りなくても、チェルシーはパウンドケーキを完成させた。お茶の用意をして、せっかくだからと庭のテーブルへと向かう。
「……どうですか?」
「うん、美味い。店のものよりおいしいんじゃないか」
「よかった」
婚約者の手作りである、ということを除いても、しっとりしたパウンドケーキは本当においしかった。庭に出たのも随分久しぶりだったから、陽の光や爽やかな風も相まって気分がいい。
「お菓子作り、好きだったんだな」
「特別好きというわけではなかったんですが……」
紅茶を飲んでいたチェルシーの手が止まる。さっきまで穏やかだった表情が曇ったので、思わず名前を呼んだ。
「チェルシー?」
「……あ、いえ、えっと……。姉が、よく、わたしに作るようにと言っていて」
「……そうか」
一気に気分が落ちた。久しぶりに、リリーを話題に出させてしまった。案外力仕事だったものの張り切って作っているようだったから、趣味のひとつかと思っていたが、強いられていたのならあまり楽しいことではなかったのかもしれない。
「悪かった。あまり好きじゃないなら、もう」
「いえ! いいえ、あの……お口に合ったなら、食べてほしい、です。これからも」
オズワルド様に作りたいです、と困った顔で笑うのを見て、内心憤りを感じる。なにが出来損ないだ。強い魔力をもっていなくても、チェルシーはたくさんのことができる。困った顔じゃない、心からの笑顔で、人を、俺を幸せにできる。
魔力が恋しいと強く思った。彼女の心に根強く残る聖女の記憶を、消してしまう魔法が欲しかった。