チェルシーと優しい人たち
閉じた瞼の向こうに、柔らかなお日様の光を感じる。誘われるように目を開ければ、今日も素敵な一日が始まる。
「チェルシー様、おはようございます」
「マリアさん、おはようございます!」
ノックの音に返事をすれば、メイドのマリアさんが部屋に入ってきて「今日もばっちりお目覚めですね」と笑ってくれました。
「朝は得意なので」
「ふふ、それじゃあお支度しましょうね。それから、今日もお願いできますか」
「はい!」
マリアさんは、オズワルド様のお屋敷で働く数少ない使用人さんたちの一人です。わたしが侍女の一人も連れずにやってきたことを見かねたオズワルド様が、なにかあったら彼女にと、わたしのお世話係にしてくれました。
オズワルド様は人が多いと落ち着かないそうで、お屋敷で働いている人の数は最低限です。はじめのころは、お掃除やお洗濯など、マリアさんには他にもやることがあるのに申し訳ないなと思っていましたが、マリアさんはそんなわたしに「旦那様はなんでも一人でやってしまうのでつまらないんです。お世話をさせてくださいな」と言ってくれました。それ以来なんでも頼ってしまう、お姉様のような、お母様のような、優しい人です。
「今日は街へお出かけでしたね。少し暑くなりそうですから、髪は結いましょうか」
「お願いします」
てきぱきと身支度を手伝ってくれたマリアさんは、仕上げにわたしの両肩をぽんと叩きます。それを合図に部屋を出て、日課をこなしに向かいます。
コンコンとノックを二回。声をかけると、んん、と寝言のようなお返事のような曖昧な声が返ってきます。ゆっくりとドアを開ければ、見慣れたベッドが膨らんでいました。
「オズワルド様、おはようございます。朝ですよ」
「……んん」
やっぱり曖昧な声しか返ってこないのでベッドに近寄ると、もうすぐわたしの旦那様になってくださる方が、すやすやと寝息を立てていました。何度見ても息が止まりそうなほど綺麗な寝顔に、しばらく見惚れてしまいます。
マリアさんのお話によると、オズワルド様はドア越しにも魔力の揺れで人の気配がわかるので、朝起こしに行けば声をかける前に起きてしまうそうです。だからこうして寝顔が見られるのは、魔力がほとんどないわたしの特権だったりします。マリアさんに頼まれてオズワルド様を起こしにくるこの時間だけは、魔力が少なくてよかったなあと思わずにはいられません。
「……そう見られていると、さすがに気が付くがなあ」
「わっ!」
急に体が傾いて、声を上げているうちにぽすんと倒れ込んでしまいました。オズワルド様がわたしを引き寄せたのだと気付いたときにはすっかりその胸板の上で、慌てて離れようにも背中にはしっかりオズワルド様の腕が回っていました。
「オズワルド様!」
「おはよう、チェルシー」
せめて少しだけでもと体を反らすと至近距離で目が合って、自分の頬が熱くなるのがわかります。
「君は本当に俺の顔が好きだなあ」
「ち、違います!」
「違うのか」
「ち……違わないです……けど」
いじわるな顔で笑うオズワルド様に向かって、なんとか「お顔以外もです」と伝えれば、その手が満足そうに頭を撫でてくれました。
「あんまり撫でて髪を崩したらいけないな。似合ってる」
「あ、ありがとうございます」
「ん、出かけるんだったな。起きるよ」
支度する、と言ったオズワルド様に解放されて一度部屋を出ます。まだ顔が赤い気がしてなんとなくその場で立ち尽くしていると、「そこで待たなくてもすぐに行くよ」と笑う声がしました。目が覚めた後ならきっと、わたしの少ない魔力も感じられるのだと思います。
二人で朝食を取ったあと、街へとやってきました。オズワルド様がお仕事に復帰してから初めてのお休みなのでゆっくり休んでいただきたかったのですが、すっかりお出かけが好きになったわたしのために、こうして朝から付き合ってくださっています。
「オズワルド様は、お優しいですよね」
「うん? まあ、君にはな」
「わたしにだけじゃないです」
手を繋いで隣を歩くオズワルド様を見上げると、不思議そうな顔をしていました。
わたしの周りには優しい人がたくさんいます。もちろんオズワルド様もそのお一人で、たしかにわたしにはうんと優しくしてくださいますが、よく見ているとそれだけではないと思うのです。
今日だってそうです。オズワルド様の周りでは、転びそうな男の子がふわっと浮いたり、破けた買い物袋から転がったりんごがぴたっと止まったり。飛んでいった誰かの帽子が戻ってきたり、はしゃいで噴水に落ちた子供の顔が、案外濡れていなかったり。
わたしが気付いた優しさの片鱗を伝えると、オズワルド様は「俺は猫かぶりだからなあ」と笑いました。
「良く思われたくていいことをするのが、癖になってるだけだよ」
なんでもないみたいにそう言う横顔を見て、思うのです。オズワルド様の優しさの理由は、猫かぶりだからなどではないと。
だって本当に人に良く思われたくてしていることなら、誰かに気付かれないと意味がありません。でも、転びかけた男の子も、袋が破けて慌てたおばあさんも、飛んでいった帽子に気付いて「あっ!」と声を上げた女の子も、鼻に水が入ったと泣いていた小さな子供も、そのお母さんも。オズワルド様の魔法には、誰も気が付いていないのです。みんな不思議そうな顔をしたり、安心して笑ったりするだけで、誰も。
オズワルド様はその優しさをひけらかしたりしません。今日のことも、わたしがたまたま気付いたことばっかりで、わたしが気付いていないことも、他にたくさんあるのだと思います。
誰にも気付かれない優しさが、見栄や評価のためだなんてことはないはずで。もし仮に、オズワルド様が言うように癖になっているだけだったとしても、それはきっともう、オズワルド様の優しさそのものなのだと思うのです。
「……お優しいです」
「ま、君からの評価が良いに越したことはないな」
ありがとうと笑ったその人は、わたしの大好きな、優しい人です。
◇
「殿下、本日はお招きありがとうございます」
「ああ、ようこそ。リリーとオズワルドももうすぐ来ると思うよ」
ある日のお昼どき。宮廷で笑ってわたしを出迎えてくださったのは王太子殿下です。殿下はこうして時々、わたしを昼食に招待してくださいます。決まってお姉様が宮廷に御用があるときで、ここでお仕事をしているオズワルド様も同席してくれます。
「そういえば、リリーにも刺繍入りのリボンを贈ったんだってね」
「はい。これまでにも贈ったことはあるのですが……魔法の定着ができるようになってからは初めてです」
「すごく喜んでいたよ。会うたびにつけているから、今日もつけてるんじゃないかな」
殿下はいつも穏やかなお顔をしてらっしゃいますが、お姉様の話になると一際優しい表情をなさいます。わたしが大好きなお姉様のことを、大好きでいてくださいます。
「結婚式の準備は順調?」
「はい。オズワルド様はご招待する方が多くて大変そうなのですが」
「ああ、仕事柄仕方がないね」
「……逆にわたしはほとんどいなくて」
「あはは! まあ、そのうち嫌でも増えるし気にしなくてもいいんじゃないかな」
うう、と俯いていると、殿下が続けておっしゃいました。
「家の付き合いで呼ぶ貴族連中がいるだろう。オズワルドにはそれがないのだから、そうバランスが悪くなることもない」
「そうでしょうか」
「最近は王族と親族以外は席をまとめてしまうことも多いし、どちらが招待したかはそう重要じゃない。大丈夫だよ」
殿下のお言葉に、少し気が楽になります。結婚式どころか、お茶会にもろくに参加したことのないわたしは知らないことばかりで、こうして殿下が教えてくださって勉強になることもたくさんあります。
結婚式について話しているとノックの音がして、オズワルド様とお姉様がやってきました。二人はどうしてだか少しむっとしていて、殿下とわたしが首を傾げると、声を揃えて「リボンが被った」と言いました。どうやらここまでの道中で誰かに指摘されたようです。いつもわたしを守ってくれる強くて優しい二人が子供のような顔をしているのがおかしくて、思わず笑ってしまいます。
それから、楽しいランチタイムが始まります。オズワルド様のお仕事の話を聞いたり、お姉様と昔話をしているとあっという間に時間は過ぎて、オズワルド様がお仕事に戻る時間になりました。
「チェルシーはこの後、実家に連れて帰るわ」
「ああ、仕事が終わったら迎えに寄る」
「お父様が式のことで話があると言っていたから、よかったら夕食も……」
お姉様とオズワルド様がお話しているのを待っていると、殿下が「チェルシー」と手招きをなさいました。
「なんでしょう?」
「うん。あのね」
殿下は内緒話をするように片手で口元を覆いながら、わたしに耳打ちをします。
「食事中のことなんだけど」
そうして、わたしのマナー違反を指摘してくださいました。
「っす、すみません!」
「ああいや、そこまで気にするほどのことでもないんだが……俺がいるとはいえ、今日はほぼ内輪の食事会だし」
自分の知識不足が恥ずかしくて勢いよく頭を下げると、そんなわたしに向かって、殿下は安心させるように声をかけてくださいます。実家で引きこもっていたわたしは社交の場でのマナーに疎く、そもそも知らないこともあれば、知識として知ってはいても身についていないことも多くあります。情けなくて俯いたままでいると、殿下がまたわたしにだけ聞こえるよう、耳元で言いました。
「本当に、気にするほどのことでもないんだ。ただ、これから社交の場に出るとなると細かいことを言ってくる相手もいるだろうから、気を付けるに越したことはない。君は聖女の妹で、そして魔導部隊隊長の妻になるのだからね」
「あ……。はい、そうですよね。ちゃんとしないと」
「うん。まあ、オズワルドもリリーも、君の些細なミスくらいどうとでもするだろうけど。……だけど君はもう、そうして守られてばかりも嫌かと思って」
「っ、はい!」
「余計なお世話だったらすまない」
「いいえ、いいえ!」
別に俺も庇えるんだけどね、と笑ってくださったその人は、わたしの尊敬する優しい人です。
◇
「チェルシー? なにをしているの」
実家の私室でぼうっとしていると、お姉様がやってきて不思議そうな顔をしました。
「いえ、なにも。ただ、出ていった日のままだと思って」
「ああ、そうね。あなたったら、ほとんど物を持たずに行ったから」
結婚式の前日は実家で過ごしたいというわたしのわがままを、オズワルド様は快く叶えてくださいました。早く結婚式を挙げたくて急いで準備したということもありますが、それを差し引いても、この部屋を飛び出したあの日から今日まで、あっという間だった気がします。
「……わたしの大切なものは、お姉様が持っていてくれました」
「なんの話?」
「なんでも、です」
大好きな本も、お気に入りのネックレスも。自分で持って外に出たのは、あの日が初めてで。
「大切なものを、大切にすべきものを、ちゃんと大切にしてくれました」
埃ひとつないままのこの部屋も、わたし自身のことも。いつだって、大事にされているとわかります。不思議なもので、大好きな人に大切にしてもらうと、それだけで自分がここにいてよかったと思えるのです。
わたしは、大した魔力もなく人見知りで引きこもってばかりの自分があまり好きではありませんでした。でも、そんな自分でも蔑ろにしたことはなかったと思います。それは間違いなく、お父様やお母様、この屋敷で働く家族みたいな使用人のみんな、そしてお姉様が、わたしを大切にしてくれているのがわかっていたからです。
「だあいすきです。わたしは、長い時間ここで愛されてようやく、ようやく自分で歩けるようになったのだと思います。まだまだ気付くべきことも、勉強すべきこともあるでしょうし、この先、もしかしたら大切なものを取りこぼしてしまうこともあるかもしれません。でも、ちゃんと気付いて、学んで、拾い上げて。大事に抱えて生きていきます」
外に出て、大切なものが増えました。それをきちんと大切にできる自分でいたいです。お姉様みたいに。
「チェルシー」
「はい」
「だったら、明日はあんまりみっともなく泣いちゃだめよ」
「はい」
お姉様がわたしをぎゅうっと抱き締めて、滲んだ薄緑の目が見えなくなりました。お姉様が本当は、きっとわたしと同じかそれ以上に泣き虫だということに、ずっと昔から気が付いています。本人に伝えたことはないのですが。
明日のわたしは、きっとたくさん泣いてしまうだろうけど、でも、たくさん笑っているとも思います。大好きな人たちがいるから。
「オズワルド様になにかされたら、むしろなにもされなくても、いつでも帰ってくるのよ」
「ふふ、はい!」
涙声を誤魔化しながら何度も頭を撫でてくれたその人は、いつだってわたしの大切な、優しい人です。
(おしまい)
ありがとうございました。





