第二話
聖女にはひとつだけ、よくない噂があった。実の妹を、出来損ないだと虐げている、というもの。
事実、彼女の妹には聖魔法の才がないらしく、そもそも魔力自体もほとんどないのだという。平民でさえ多少なりとも魔法が使えるこの国の貴族としてはかなり珍しかったが、それでも非難されるほどのことではない。聖女が生まれている以上伯爵家としても面子は保たれているのに、なぜかリリーはしばしば妹を下げる物言いをしていたらしい。
らしい、というのも、俺自身は彼女が妹の話をしているのを聞いたことがないからだ。ただ、貴族の間や宮廷で時折、そういう噂を耳にしていた。
妹は出来損ないだから社交の場にも出せないとか、魔力がないから戦場でも役に立たないとか。聖女ともあろう人がそんな言い方をするなんて、と顔を顰める者もいたが、なまじ日頃の行いがいいリリーの話だったため、彼女がそう言うなら妹はよほど出来が悪いのかもしれないとも言われていた。かわいそうに、実は聖女にいじめられているのではないか、いいやまさか、リリーに限って。そんなふうに、聖女の妹の噂は時々出てはすぐに消える。
俺が身代わりのように差し出されたチェルシーを拒まなかったのはこのためだ。リリーの婚約者として会ったころには、少なくとも虐げられて酷い目に遭っているとまでは思わなかったものの、随分びくびくしていたから実際のところはわからない。それなら、俺のもとで好きに過ごさせてやるのもいいだろう、と。万が一思うように魔力が戻らなかった場合に伯爵家との繋がりがあれば、という打算もないとは言わないが。実家が嫌ならここにいればいいし、帰りたければ帰ればいい。それくらいの気持ちで引き受けた。
どうやら巷では俺が聖女の将来を思って身を引いたことになっているらしく、姉の代わりに俺の介護を買って出たということで、チェルシーの株も上がっているのだとか。一方の聖女サマは王太子を追い回しているらしいので、本当に、聖女の皮の下なんてわかったものじゃないなと思う。先ほどのおどおどしたチェルシーの様子からしても、妹をいじめていたというのもあながち嘘じゃないのかもしれない。
コンコン、と控えめなノックの音で目を覚ました。どうやらうたた寝していたらしい。人の気配にも鈍くなっているから、本当に魔力が枯渇しているのだなと思う。これは予想だが、顔に残った瘴気が魔力の回復を遅らせている気がする。いずれ魔力が全快したら自分で治癒魔法をかけている隙にリリーに祓ってもらおうと思っていたが、この感じではいつになるかわからないな。
どうぞ、と俺が言ってからゆっくり扉が開いた。すっかり日が暮れていたから夕飯かと思う。その予想は当たっていたが、食事を運んできたのはメイドではなくチェルシーだった。
「お食事をお持ちしました」
「……なぜ君が?」
「え、ええと……、できることはさせてほしいと、お願いして」
メイドにお願い、ねえ。仮にも貴族令嬢だろうに、そこまでしてこんな、下働きのような真似をしなくてもいいのに。
「ご迷惑、でしたか」
「いいや」
ほっとした様子で、チェルシーはベッドサイドのテーブルにトレーを置いた。その上にはポトフの入った皿がひとつだけ。魔力が枯渇した倦怠感で食欲がなく、俺の食事はこの一週間こればかりだ。飽きてはきたが、食べる気力もないから仕方がない。ゆっくり上半身を起こそうとすれば、チェルシーが背中を支えてくれた。
「すまない」
「いいえ」
ためらいなく俺に触れたので少し驚く。たいていの使用人は俺の顔に残る傷跡と瘴気の名残、薄い靄のようなものを見て、呪われるのではと触れることを恐れたものだが。
新しい婚約者殿は、意外と肝が据わっているのかもしれない。まあうつるようなものではないと聞かされていただけかもしれないが。ともかく、昨日と同じ味のポトフを食べるかと思ったときだった。
「……さすがに、自分で食べるくらいの力はあるんだが」
「えっ」
チェルシーがいそいそとフォークを持ち、一口サイズにわけたじゃがいもを口元に運んできた。一人で立って歩くことはまだ無理でも、食事くらいはできる。そう伝えると彼女は途端に顔を赤らめて、すみませんと俯いた。
「いや、気持ちはありがたいが」
「すみません、すみません」
恥ずかしいのか申し訳ないのか、俯いてきゅっと目を閉じたチェルシーを見ていると、ほのかに罪悪感のようなものが湧き出てくる。彼女は俺より七つも下だ。子供に意地悪をしているような、居心地の悪い気分になる。
「まあ、いいか。……ん」
「……え?」
大きく口を開けて見せれば、彼女はきょとんとした。
「い、も」
「は、はい」
急かしてやれば、彼女は慌ててじゃがいもを口に運んでくる。咀嚼して飲み込んで、また口を開く。にんじん、玉ねぎ、ソーセージ。そしてまたじゃがいもに戻った。
「……おいしい、ですか?」
「悪くはないんだが、正直飽きているな。具も代わり映えしないし」
「ソーセージを、ハーブ入りのものにするだけでも違うかもしれません」
「料理長に言っといてくれ」
子供のままごとに付き合う感覚だったが、食事の時間は悪くなかった。最初はおどおどしていたチェルシーも少しは喋るようになったし、素の自分で喋る気楽さから、俺もそれに応えた。
「ご馳走様。悪かったな、荷解きとかあっただろうに」
「いえ、もう終わりましたので」
彼女がこの家に着いたのは夕方だった。貴族令嬢が婚約者の家に越してきたという割に、片付けが随分と早い。ろくに荷物も持っていなかった、なんてことはないだろうか。
「……必要なものがあったら言いなさい。俺に言いにくければ使用人に頼んでもいい」
「お気遣い、ありがとうございます」
小さく返事をしてから、チェルシーは空になった皿を持って立ち上がる。失礼します、と部屋を出ていく彼女を呼び止めた。
「チェルシー」
「っは、はい」
「ありがとう」
名前を呼ばれて驚いたのか、びくりと身体を強張らせたチェルシーは大きな目を何度か瞬かせ、それからふにゃりと笑った。はい、と言ったその口元がほころぶのを見たのは初めてだったから、俺はただ純粋に、かわいいなと思ったのだった。





