夢のかたち・3
「婚約破棄したんです」
「へっ?」
聖女が例の土地の浄化に成功した、と聞いてから一週間が経っていた。聖女から直接報告を受けたのは父で、俺は別の公務のため立ち会えなかったが、ジョシュアから手短に、騎士団や魔導部隊、そしてリリーの無事を聞いていた。リリーを含め治癒魔法が使える魔導士も現場に向かっていたため、大きな怪我が残った者はいなかった、と。たった一人を除いて。
オズワルドがリリーを庇い大怪我をした。体には聖女でも祓えないほどの瘴気が残り、自力で立ち上がることすらままならないと聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのが過去の父の姿だった。命があるだけマシなのかもしれないが、オズワルドは寝たきりになり、回復の目処も立っていないという。自分を庇い動けなくなった婚約者の傍らで、彼女が一人泣いていたらどうしようと思う。
ただ、そんな心配をしたところで俺になにができるわけでもなかった。オズワルドの怪我に関しては、聖女であるリリーや優秀な魔導部隊がどうすることもできないのに、初級魔法しか使えないレベルの俺がどうにかできるはずもない。友人とすら言えない関係なのに、おそらく今後は婚約者の介抱に努めるリリーの心に寄り添うこともできない。相変わらず祈ることしかできない不甲斐なさを抱えながら過ごしていたときのことだった。
宮廷の廊下で、白いワンピースが翻るのが見えた。咄嗟にジョシュアに手元の書類を押し付けて駆け寄れば、何やら分厚い本を抱えたリリーだった。俺が走ってきたことに少し驚いた顔をした彼女は、それでもすぐに微笑んで頭を下げる。ああ、まずい、心臓がうるさい。走ったせいにしては大きく鳴る心音に気付かないふりをした。
「魔獣の討伐及び土地の浄化、ご苦労様。厄災の年もこれで終わりだろうと聞いたよ。君の貢献に感謝する。……無事に戻ってくれて、よかった」
「身に余るお言葉、感謝いたします」
「その……、オズワルドのことも聞いた。婚約者として君も心配だろうけど、気をしっかり持って……ええと」
出来るだけ負担にならない言い方をと、しどろもどろになっていた俺の言葉を受けて、リリーは「ああ、そうだった」とでもいうような顔をした。
「婚約破棄したんです」
「へっ?」
淡々と言われた言葉に耳を疑う。一瞬理解が追い付かなくて、少々間抜けな顔をしてしまった気がする。
「え、ええと……それはその、どうして?」
ようやく出てきたのは単純な疑問で、尋ねられたリリーは俺から僅かに目を逸らし「わたし、自分より弱い男の人は嫌いなんです」と言った。
「……嘘だね?」
「あ……」
彼女の顔に「しまった」と書いてある。俺が嘘を見抜ける体質だということを、すっかり忘れていたのだろう。気まずそうに顔を伏せた彼女の腕から、分厚い本を抜き取った。
「殿下?」
「少し休憩にしようと思っていたんだ。時間があるなら付き合ってくれないだろうか」
「え、ええ」
空いた手を掴み歩き出せば、リリーは困惑したまま、それでも先ほど嘘を吐いたという負い目からか大人しくついてきた。本当ならこんなに気安く女性に触れるべきではないのだろうが、今ならお互い婚約者もいないということで大丈夫……と、内心言い訳をする。
そうして彼女を連れてきたのは、宮廷の中庭だった。昼どきはここで休息を取っている者もいるが、今の時間帯なら大抵の人間は仕事をしているので誰もいない。できるだけ目立たないベンチに並んで座った。
俺がなにも言わないでいると、最初は少し居心地の悪そうだったリリーがぽつりぽつりと話し始めた。
「……オズワルド様のところには、わたしの代わりに妹を行かせました」
「どうして?」
「あの子は以前からオズワルド様のことをお慕いしていて、今回の怪我のことを聞いて居ても立っても居られない様子だったので」
「だから婚約者を譲ったと?」
思わず眉間に皺が寄ってしまう。いくら妹が可愛いからといって、そこまでするものなのか。
「そうですね。まあ、無事に戻ったとしてもどのみち婚約は解消するつもりでした。円満に解消するか一方的に破棄するかの違いくらいしかありませんが、オズワルド様には突然で申し訳ないことをしたと思います。両親にも無理を言いましたし」
言い方から察するに、リリーからの一方的な婚約破棄なのだろう。オズワルドは、……リリーは、それでよかったのだろうか。そんな気持ちが顔に出てしまっていたのだろう、俺を見たリリーは少し笑った。
「もともとこの婚約に恋愛感情はありません。わたしにも、きっとオズワルド様にも。あの方はわたしに親切でしたけど、誰にでも等しくそうです。わたしと婚約したのも、自ら望んでというよりは、そう望む周りの声を断らなかっただけ。それはわたしも同じことで、……わたしたちは、共に戦ったことで信頼しあってはいますが、どこか他人行儀です。お互いに、深い関係を築いていく気がありませんでした。それならば、純粋にオズワルド様を慕う妹の方があの方の心に寄り添えるでしょう」
「それはそうなのかもしれないが、……でも、オズワルドの気持ちは君の想像だろう」
君を愛していたかもしれない、望んだ婚約だったかもしれない。これから深い関係を築こうと思っていたのかもしれない。言ってから、少し棘っぽい言い方だったかと思う。しかし、リリーは気にしていない様子で言った。
「妹には、わたしに虐げられていると言うようにと伝えてあります。オズワルド様はお優しいので妹を追い出すことはしないでしょうし、もしわたしを想ってくださっていたとしても、そんな話を聞いていればいずれ嫌いになってくれるでしょう。……憎まれて、会いたくないと思われるくらいでいいんです。わたしにはやることがありますから、会いに行く暇も介抱する時間もありません」
「……オズワルドの瘴気を祓う方法を、探しているのか」
彼女の手から取り上げた本が、聖魔法について記録された本だと気付いていた。彼女ほどの使い手が今更学ぶこともないだろうに、わざわざここまでやってきて古い資料を図書室で借りたのだと思う。その理由なんて、どう考えても。
「かわいい妹の婚約者を、いつまでも寝たきりになんてしていられないでしょう?」
笑って言った言葉に嘘はない。でも、それだけではないことくらい、この体質じゃなくてもきっとわかった。
「……あまり寝ていないね?」
「……」
返事をすると嘘だとバレるからだろう。リリーは困ったように笑っただけだった。その目の下に薄っすら浮かぶ隈、前回会ったときよりも痩せたように見える体。この一週間、彼女がどんな生活をしていたのか、想像に難くない。
「オズワルド様はすごい方ですよ。本人は『いざとなればできましたね』なんておっしゃってましたけど、特級魔法なんて普通は発動できません。魔術全盛期だった時代ですら奇跡だと言われていた伝説級のものです。魔獣に襲われて咄嗟に発動できたわけではなく、きっとオズワルド様は村の惨状を見て、最初から術を展開していました。その途中でわたしが襲われたから、魔法ではなく身を挺して庇うしかなかった。普段なら、あの方の魔法が間に合わないはずがありませんから」
リリーは両手をきゅっと握っている。その手を見つめるように伏せられた目が、瞬きを繰り返していた。
「……わたしのせいです」
声は震えていなかったけれど、彼女の気持ちは痛いほど伝わった。先ほどの「かわいい妹のためだ」とでも言うような口ぶりの裏には、自分を庇ったオズワルドへの気持ちも確かに存在して。それは恋でも愛でもないのかもしれないけれど。
自分のせいで怪我を負わせたこと、妹が慕う相手をそんな体にしてしまったこと。寝たきりになった婚約者を妹に押し付けたように見せながら、その実は自責の念に苛まれ、二人のために一人で無理をしている。
「……土地を浄化するほどの聖魔法は、並大抵の集中力では使えないと聞いている。君自身が魔獣に対処しながら発動できるものではないのだろう」
「それでも、……それでも」
もっとできることがあったとでも言いたげなリリーが顔を伏せたので、ついに泣き出してしまったのかと、思わずその頬に手を添える。ゆっくりこちらを向かせれば、潤んだ目はそれでも涙を溢してはいなかった。
「……一人で抱え込む必要はないんだよ。ここには俺の他に誰もいないし、全部吐き出してしまっても」
「わたし、妹のこと以外で泣くつもりはありません」
強気に笑おうとした唇がかたかたと震えている。彼女の心は、とっくに限界だったのかもしれない。
「うん、じゃあ、君は泣いていない。俺のへたくそな魔法が、君の目を濡らしてしまっただけだ」
ごめん、と一言断ってから、背丈があるわりに華奢な体を抱き締めた。「殿下はご自分の嘘はわからないんですね」なんて言葉が次第に嗚咽に変わるのを、午後の陽だまりの中で聞いていた。